神鏡





 右上段の写真は、一貫斎が国友村の日吉神社に奉納した神鏡です。これは火縄銃のしごとで水戸徳川家にお伺いした折に、藩主の斉脩なりのぶと侍臣であった朱春水から家宝の魔鏡を見せられ、その原理について質問されました。一貫斎はその背面の模様が鏡面に影響して、光の反射のようすがかわることを的確に説明してさしあげました。そして、その3年後に自ら魔鏡を製作し献上しました。一貫斎は、同じものを紀伊徳川家、近江建部大社、そして国友村の日吉神社に献納しました。このうち日吉神社のもののみ存在が確認されています。

 私達は、日吉神社の神主さんに特別にお願いして神鏡を拝見し、魔鏡現象を確認しました" 。右中段の写真がそのときの光景です。スクリーンには鏡裏面の御幣のもようが明るい輪郭となって映し出されました。日本には古来魔鏡とよばれる鏡が多数存在しますが、原理を理解して製作されて伝存するものはこの鏡のみです。そのほかのほとんどは、江戸時代中期以降に庶民にも普及が始まった柄鏡の再研磨に関係して自然に魔鏡になったことが わかってきています。柄鏡とは柄の付いた丸鏡で、裏面には蓬莱山や鶴亀などのめでたい模様が浮き彫りとなっています。嫁入り道具としてもちきたらされ何代にもわたって女性の化粧用として使用されてきたものです。庶民のものは錫の多い上質の材料は用いられませんでしたから、鏡そのものは赤っぽい色をしており、表面に水銀をひいて銀色にしあげていました。したがって数年もたつと水銀鍍金がはげて地色が出、鏡の役目を果たさなくなります。そのころを狙って、鏡磨師たちが家庭をまわり、鏡面を磨きなおし、水銀鍍金をしてくれる商売がなりたっていました。富山の氷見の鏡師が有名です。富山は薬売りの行商でも名が知られていました。その様にして何度も研磨と鍍金を繰り返しているうちに鏡材が次第に薄くなり裏面のレリーフ模様が鏡面に微妙な凹凸として反映されるようになります。裏面のもようの肉厚の部分が鏡面では周辺よりもへこみ反射光を集めるはたらきをします。筆者たちの実測によりますと、このへこみ具合はサブミクロンの程度です。

 明治期になると、帝国大学にやってきたお雇外国人教師が日本の魔鏡に注目しました。アトキンソン、エアトン、ペリーなどがNature誌などに論文を掲載しています。その後、京都大学の村岡範為馳物理学教授が、魔鏡の研究を行っています。

 さて神鏡の製作が上首尾にいったことに自信を深めた一貫斎は、若いころから温めていた構想を実行にうつすことにしました。彦根事件で江戸に出府していたおりに、尾張犬山藩主の成瀬隼人正から見せられた西洋渡りの反射望遠鏡の製作です。それでも望遠鏡の反射鏡の製作は困難を極め、何十回と試行錯誤をくりかえした後、ようやく満足のいく金属鏡にたどりついたのでした。右下段の写真は、先年亡くなられた現代の鏡師山本凰龍翁に、我々が復元した一貫斎の鏡と同じ組成・組織をもつ金属鏡を伝統的な研磨法で試していただいているところです。


冨田良雄 2009年10月13日(河村聡人 2022年5月11日改訂)

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