Forthcoming 2005 Mars
(4)
ローヱルの1894年の火星
(2005年の火星のために)
Masatsugu MINAMI
2005 |
年の接近は大接近後の接近であるから、近くで言えば1990年の火星、1973年の火星に相當するわけである。從って觀測計畫ということを考えるならば、こうした接近を振り返るのは必要であろう。そこで、ここ百數十年の間の仲間の接近を擧げるなら衝日順、最大視直徑順(逆順)に次のようになる。
27 Nov 1990 δ=18.1"
25 Nov 1911 δ=18.3"
18 Nov 1858 δ=19.2"
07 Nov 2005 δ=20.1"
04 Nov 1926 δ=20.4"
25 Oct 1973 δ=21.5"
20 Oct 1894 δ=21.7"
10 Oct 1941 δ=22.8"
この並びは軌道圖で言えば、近日點以降に並ぶ並び方と同じである。
◆詳しい状況としては、2005年の火星は79年前の1926年の火星に近いわけである。と同時にわれわれの好く知っている1990年の火星と1973年の火星の中間になる。1973年は1894年と相似になる。1941年の火星は大接近に近い接近で、リヨーのピクでの活躍があったときである。
◆扨て、ここでは1894年のローヱルの火星を二三採り上げるわけであるが、1894年はローヱルが日本を去って初めて火星觀測のキャンペーンをした年で、一方リックでバーナードが觀測しており、スキアパレッリ以降の観測史で重大な局面に當たる年である。ローヱルの火星については、「穴水ローヱル会議」で筆者が三度に亙って話した上、その後も紀録しているので、殆ど重複する部分が多くなって申し訳ないが、ここでは2005年の觀測の觀點から二三採り上げるだけなので御容赦頂きたい。當然、ここではローヱルの論理や的はずれな方法などは扱わない。
◆ローヱル天文臺での1984年の觀測の特徴は、1)チームを組んだこと、更に2)長期に渡って觀測を續行したことである。從って、ローヱルは最初から見習うべき模範的な方策を施しているといえる。2)については運河が見えるであろう最接近時のみを狙っていない、火星の氣象についても目標に入っていたということで、その後のローヱル天文臺の方針と少し違うと思われるし、その後、アメリカの傳統にはなって居ないと思われる。上の範疇に入る1911年のローヱル天文臺の火星写真の枚數は3000で1907年のチリー遠征での13000より遙かに少ない。但し、1926年には1924年の大接近を上回る15000枚を撮っているが。◆1)のチームというのは、ピカリング弟(W H PICKERING)とその後仲間割れするダグラス(A E DOUGLASS)と組んだものである。ピカリングは既にペルーのアレクィッパ(Arequipa)での1892年大接近の火星觀測の經驗があり、ダグラスはそのときの助手であるから經驗者と組むといういい方法を採ったわけである(アレクィッパは2469mの高さがあり、望遠鏡も30cmクラーク對物鏡)。フラグスタッフで使用した望遠鏡は後の有名な61cmクラーク鏡ではなく(これは1896年七月から) 、45cmF/17.5のブラッシァー鏡が主力であった。
◆觀測期間は22 May 1894から3 April 1895の殆ど一年に及ぶ。この間チームとして917枚のスケッチを齎している。この數は少なくはなく、長期觀測としては必然的に得られるものであろう。何故長期觀測が必要であったか。最初の視直徑δはローヱルの申告に依れば8.4"である)(現在の概算ではもう少し小さくなる)それにも拘わらず早く緒に着いている。◆それは多分、南極冠の溶解初期から氣象の變化を含めて火星を觀測しなければならないという考えがあったからだろうと思う。實はこれは前にも觸れたが、彼らがフラグスタッフに入ったのは28 Mayであって、それにも拘わらずその前から觀測期間の勘定は行われている譯であって、これはピカリングの忠告があったとみて好いであろう。22 May、24 May、25 May、27 Mayは15cm屈折での觀測で、最初の二日はピッカリング、後の二日はダグラスの觀測である。28 Mayにはフラグスタッフに入ってローヱル自身はピカリングと31 Mayから始めている。このときは30cm屈折、45cmは1 Juneからの使用である。從って、普通なら1 Juneをもって觀測開始期と記録することは考えられることだが、既に22 Mayには南極冠の中にピカリングが亀裂を見ているので初日と勘定しなければならなくなったというのが實情であろう。多分ピカリングは當時λ=200°Ls邊りで、南極冠が既に溶解期に入っていることから、最大徑から觀測しなければならないと考えていたと考えて好いだろう。案外、ピカリングは22 May以前に着手していたのかも知れないが、内容の出て來た日をもって開始日とした可能性がある。◆筆者の1988年の經驗では#276のReport No11で述べたように、3 June 1988
(λ=208°Ls) ω=161°W でパルワ・デプレッシオを見ているし、2003年でも澳大利亞のモーリス・ヴァリムベルティが24 June (λ=209°Ls) ω=127°Wで描き出しているから、ピカリングも多分パルワ・デプレッシオの出現を見たのではないかと思われる。實際には31 Mayの觀測で、この亀裂を170°W〜345°Wに渡っているとしているから、このときには大半をリマ・アウストラリスを中心とする大亀裂のようでパルワ・デプレッシオも含めてみていたようである。然し、これは10 Juneにダグラスが新しい亀裂を見ていることから、後で総合的に整理したものであろう。なお、31 Mayにはシュルティス・マイヨルが見える範囲を観察している。二時間ほどで12枚のスケッチをしている。この南極冠内の暗斑は既に述べたようにローヱルには大きな意味を持つのであるから、この早期開始は遅いかも知れぬが早くはなかったし、好いセンスであるように思う。(日付は特別な記載がない場合はMSTというもので与えられている。GMSTとは7時間西である。GMSTをGMTに直すには12時間加える。)
◆2005年の場合、この時期を割り出すと五月上旬ということになる。10 May 2005でλ=208°Lsであるが、δは7.1"で、似たような背景になる。然し、春分を狙うとすると24 Mar 2005ということになるし、2001年の黄雲のことを考えると矢張りこの頃には觀測が軌道に乗っている必要があるというのが現代的なセンスである。實は南極冠内の翳りということであれば、春分λ=180°Ls少し前から現れることは1986年の觀測から分かっている。
◆一寸横道にそれるが、1894年の兄弟接近1973年では黄雲がλ=230°Ls臺とλ=300°Ls(後者は大黄雲)二度起こっているのであるが、實はもっと早くに起こったのではないかと思われる節がある。しかし、當時、宮本正太郎氏は28 April
1973(λ=195°Ls、δ=7.1")が初觀測で、これに間に合っていないのである。宮本氏の開始はローヱルと同じ背景で、矢張り南極冠の溶解から狙ったものとみて好いだろうが、矢張り春分を外したのは惜しいことだったのである。
◆さて、ローヱルの觀測で屢々ピカリ現象の先魁として採り上げられるものに、例えば7Juneに南極冠内に二つの輝點を見ていることなどがある。星のように輝き、二三分で消えていった由である。Ω=280°W~0290°W、Φ=76°Sと計算している。つまりノウゥス・モンスと関係あると考えているわけであって、グリーンの1877年の觀測やミッチェルの1846年の觀測とも符合する場所とローヱルは考える。ただ、ローヱルの時は未だ南極冠の真ん中にある。λ=218°Ls頃であるから當然だが、多分これは H2Oの氷塊の反射であろう。ノウゥス・モンスが南極冠内で見えることはヴァイキングが實証している。
◆實は、これは前にも穴水会議で觸れたことだが、ダグラスは暗部などに強く、ローヱルは輝點に強いという違いが出ている。10Juneにはダグラスが新しい亀裂を見たことは前述したが、13Juneにはローヱルがこの亀裂に附随する輝點を見るという具合である。特に彼らは像の縁を狙って觀測する。多分、これは主にダグラスによると思うが、期間中ターミネーターの不規則な凸凹を736個觀測していて、その内694個は測定している。この内403個が凹みであり、291個が突出である。どうしてprojectionが少ないとか、大氣的なことか地形に依るかという様な議論はここでは採り上げないが、最近はMOLAなどの活躍があるが、MGSのカメラは必ずしもターミネーターを撮さないので、ターミネーターを狙うというのはなかなかの見識であろう(MGSの全面球の合成像を見て、これでお仕舞いと思ったヘボ觀測者が可成り居る。オリュムプス・モンスなどが突起として顕れない他、朝霧夕霧の描冩も出來ないMGSを見誤っている。逆に言えば、ローヱルの計畫をMGSは見逃している)。◆ ダグラスは衝後の26, 27 Novにも闕けの部分に明滅する輝點が出ていることを觀測している。26 Nov (4:35GMT)のはプロテイ・レギオの南部に立ったようだが、27NovGMTには9°ほど北だったようである。これは雲と考えられている。28 Nov GMTには見えていない。縁の觀測のピカリングに例(24 Aug)が出ているので、ここで引用する。時刻はもし當時のGMT(いまのGMST)なら12hを加えなければならない。
◆模様や運河の検出がどういう風であったかについては今回は問題にしない。あと南極冠の觀測について觸れると、南極冠の溶解に連れて9 July邊りではノウゥス・モンスの分離を見ているようで、ここでλ=238°Lsぐらい、八月ぐらいからの偏芯は勿論把握しているし、最終的にはω=054°Wの方向へずれ(ダグラスの測定)、13 Octには南極冠は消えたと見ている。λ=300°Ls直前でやや早い見積もりである。この消失は當時の常識とも違って居たわけで、南極冠は最小になってから再び大きくなると考えられていたようである。なお、この年の早い南極冠の消失は黄雲の發生によるものであることが判っている(この點は後に議論する)。バーナードは十一月に入ってから南極冠が再び出て來ているのを見ている。
◆以上1894年の火星は、北半球からは適當な高さにあり、南極冠の縮小を最初から終わりまで觀測可能な範囲で、南半球の季節を網羅しようとする意圖に合致していたという點でローヱルに適うものであった。季節の網羅もそうだが、地形や雲の高さなどの検出のために、火星像の縁をいつも視野に入れているという態度がどうであったかを中心に紹介したわけである。
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