南 政 次
◆1986年の火星觀測で臺北に滞在の時、士林の洗濯屋さんが私のネームを「南山」としたことは前に書いた。ご主人の年齢は判らなかったが、多分日本の風習を幾らか知っていて、ミナミ・サンとしたのである。中國語で「山」はshanと綴るから、日本語のサンとは違うかも知れぬが、呉音では近いのではないか。
◆「南山」は例の「悠然として南山を見る」(陶淵明)にあるから氣に入っていた。例えば漢詩で東山とか西山などは「西山 日没して 東山 昏る」(李賀)に見られるように單に方向を示すに過ぎないと思う。然し、「南山」は長安の南に聨なる「終南山」のことで固有名詞である。
◆終南山を好んだ詩人に王維(699〜759)がいる。『終南山を望む歌』とか『終南山』という詩を作っている。後者には「白雲 望を廻らせば合し、青靄 看に入って無し」という語句があるように、深林人不知の趣のある山のようである。王維は若くして樂曲や繪畫、隷書、艸書、詩作に優れ、官吏としても經歴があるのだが、挫折の多いところがあり、隠棲を好んでいたようである。南山の山麓に住まいを持ち、柴扉を閉ざすことが多かった。「南山」を句におさめる有名な五言古詩に『送別』がある:
下馬飲君酒 問君何所之
君言不得意 歸臥南山陲
但去莫復問 白雲無盡時
「何所之」は「いずこへゆく(之)ところぞ」という問い。「不得意」は「意を得ず」で不遇であるということであろう。だから、南山のほとり(陲)に歸って隠遁するのだと言っている譯である。君と指しているが、これは自問自答と解釋されている。南山では白雲が永遠に立ち上る(白雲盡くる時無し) 。
◆王維は白雲が好きだが、人に酒を勧めるのも趣味なのか、舊制高校生が愛唱したと聞く『陽關曲』「・・・君に勧む 更に盡せ 一杯の酒/西のかた 陽關を出づれば 故人無からん」も王維の歌である。故人は親しい友人のこと。
◆唐詩がヨーロッパで知られるようになったのは十九世紀になってからの様で、嚆矢はフランスのサン=ドゥニ(Le Marquis d'Hervey-Saint=Denys)とジュディッと・ゴーティエ(Judith Gautier)である。特に後者の奔放、華麗な譯詩が評判を取ったことが唐詩に興味を持たれるきっかけになった様である。
◆上の『送別』はサン=ドゥニによって譯された(1862年):表題はEn se séparant d'un voyageur(旅人との別れ)、王維はOUANG-OEYとなる:
Je descendis de cheval; je lui offris le vin de l'adieu,
Et je lui demadai quel était le but de son voyage.
Il répondit; Je n'ai pas réussi dans les affaires du monde;
Je m'en retourne aux monts Nan-chan pour y chercher le repos.
Vous n'aurez plus désormais à m'interroger sur de nouveaux voyages,
Car la nature est immuable, et les nuages blancs sont éternels.
ここでは「南山」はNan-chanとして健在である。chaは英語ではチャかカであろうが、フランス語ではシャである。從って、ナン・シャンとして殘っている譯である。
◆前半は、別れの酒とか出世出來なかったとか、具體的だが忠實な譯である。終南山は連峰らしいから、山が複數になっているのも好い。ただ、歸臥は休憩の爲に歸るというようなものではあるまい。面白いのは、最後尾の句で、自然は不易で、白雲は永遠(だから)と解題されていることである。白雲 盡くる時無し、のサン=ドゥニ侯爵の解釋でる。
◆フランス語譯には、註があって、それによれば當時はどうも『送別』の相手は孟浩然(Mong-kao-jén)とされていたらしい。多分後年考證によって自問自答となったのだろうが、もう一つドラマが起こる。
◆ドイツにおいて唐詩が紹介されたのは十九世紀末になってからで、それもフランス語からの重譯に依った。『送別』はハンス・ベトゥゲ(Hans Bethge)に依って譯されているが、この人は中國語に通じていなかった様で、サン=ドゥニの譯に拠ったのである。題は Der Abschied des Freundes(友との別れ)、王維はWang-Weiとなる:
Ich stieg vom Pferd und reichte ihm den Trunk
Des Abschied dar. Ich fragte ihn, wohin
Und auch warum er reisen wolle. Er
Sprach mit umflorter Stimme: Du mein Freund,
Mir war das Glück in dieser Welt nicht hold.
Wohin ich geh? Ich wandre in die Berge,
Ich suche Ruhe für mein einsam Herz.
Ich werde nie mehr in die Ferne schweifen, -
Müd ist mein Fuß, und müd ist meine Seele, -
Die Erde ist die gleiche überall,
Und ewig, ewig sind die weißsen Wolken....
殘念ながら、ここでは「南山」は消えてしまった。多分中國そのものに不知道なベトゥゲにとって、Nan-chanは意味が無かったのであろう。單に定冠詞附きの「山」になって了った譯である。
◆詩は原詩と無縁であるが故に、寧ろ好くなっているかも知れない。何所之が、サン=ドゥニでは散文的に旅行の「目的」であったものが、ここでは何處へ何故(wohin und warum)と繰り返すのはいいし、君が「霞んだ聲で」言うというのも結構ではないか。ところで、「山」へ流離い行くのは孤獨な心を癒す爲で、サン=ドゥニと然程變わらないのだが、嘆息が入る:足も心も草臥れてもう遠くを流浪するのは嫌だ。かくて、莫復問は必要が無くなり、最後を大地は至る處等しく、白雲は永遠、と結ぶ。ewig(無限の、永遠の)は二度繰り返される。
◆王維において「南山」と「白雲」は不可分のものであるが、ベトゥゲでは南山が消え、更にマーラー(Gustav Mahler)では白雲も霧散してしまう。
◆周知のことだが(と何處にも書いてある)マーラーはベトゥゲの譯詩に心を奪われ、變則的な交響曲『大地の歌(Das Lied von der Erde)』はベトゥゲの詩に拠っているのである。六樂章からなり、最後の樂章は全體の半分を占めるが、その最後の部分は王維の『送別』によって締め括られる。マーラーは萬延元年1860年の生まれで、ベトゥゲより十六歳年長、ということがあるのかどうか、他の樂章でも細かな冠詞の改變などが見られるが、ここでは相當に變えている。
◆サン=ドゥニは孟浩然に觸れているが、ベトゥゲはそれを受けて、孟浩然(Mong-Kao-Jenと書く)を紹介するのに、王維の友人として(これは事實)、王維の『友との別れ』の前に孟浩然の『友を待つ(In Erwartung des Freundes)』を並べているのである(『中國の笛(Die Chinesische Flöte),1907年』という譯詩集)。このことに依って、マーラーは第六樂章では、これらの譯詩を繋いで、長い詩を作っている。前半が孟浩然による。第六樂章はディ・ゾンネDie Sonne (太陽、ここでは夕陽)で始まるが、これは孟浩然の第一句「夕陽度西嶺」から來て、忠實である。最後は、エーヴィッヒewigが何度も繰り返されて終わる。これはベトゥゲの王維の最後そのままである。
◆下馬して酒を飲ます、というのはマーラーにも引き継がれる(但し、主語がIchからErになる)。
◆然し、「白雲」をマーラーは採らなかった。最後の數聨は殆ど詩人マーラーの創作である。
Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte.
Ich werde niemals in die Ferne schweifen.
Still ist mein Herz und harret seiner Stunde!
Die liebe Erde allüberall
Bluht auf im Lenz und grünt aufs neu!
Allüberall und ewig blauen licht die Fernen!
Ewig, ewig........ewig, ewig........
◆王維の白雲は、サン=ドゥニでは自然と白雲に、分裂し、それがベトゥゲでは大地と白雲になるが、マーラーでは大地は殘るが、花咲き亂れ、木々は緑し、至るところ蒼い光に満ちる永遠の世界となる。從ってこの後半は南山の風景ではないのだが、この前半は氣分は王維以上かもしれない。一行はベトゥゲから來るが、故郷(Heimat)は隠遁の場所であろう。Stundeは解釋があろうと思うが、多分死期を待っているのではないかと思う。王維の白雲にはそういう諦念はないかも知れぬが、マーラーに一見華やかさがあれば、それはこうした憂鬱さの裏であろう。Iw氏のよく知るところだが、マーラーはこの作曲の前、狭心症を患った。作曲中、ブルーノ・ヴァルターによれば、躁鬱のマーラーはこの曲を聴いて自殺者が出るのではないかと心配していたらしい。彼はこの曲の初演を見ることなく、1911年五十一歳で死んだ。
◆王維は五十二歳の時、佛教(北宗禪)に帰依した母親を失った。「母亡」後、終南山に源を發する川の畔の第(邸)を「寺と爲」し、六十三歳の時、「筆を停めて化し」「その西に葬」られた。