ずれずれ艸02

『火星通信』 ずれずれ艸 from 南天・文臺 (その2)

南 政 次


●ところ変われば Topsy-turvy●

  はじめのおわり

 ちょっと古い話で恐縮だが、1970年代初め、たまたま隣の研究所で話を命じられたことがある。まだ湯川博士の退官前で、その場にいられたのを想い出す。話の内容に直接関係あるわけではなかったが、話の西洋的観点と東洋的観点が互いに相補的であるという風に見えたので、前段でルイス・フロイスの話を持ち出した。

 ルイス・ フロイスは耶蘇会の宣教師で、信長・秀吉時代に長く日本に滞在し、多分長崎あたりで没したのだが(彼は越前=福井へも足を延ばしたが、福井滞在の最初の西洋人ではなかったか)、1585年に『日欧文化比較』という小冊子をまとめ、現物はマドリードに保存されているらしいが(フロイス自身はポルトガル人)、これが岩波の『大航海時代叢書』の中に入って当時読めたのである(岡田章雄譯)。中身は箇条書きだが、箇条すべて日欧比較で、その箇条が六百にもおよんでいる。
 「ヨーロッパ人は概して身長が高く体格が良い。日本人は概して身長も体格もわれわれに劣る」から始まり、「われわれの馬は極めて美しい。日本のものはそれに比べ遥かに劣っている」というような具合である。しかし、「ヨーロッパ人が顎髭によって表わす名誉と優越を、日本人は後頭に結んで付けている小さな髪によって表わす」という風に、なかなか面白くTopsy-turvydomを書き上げて行くのである。
 「われわれは歩いている時、衣服を汚さないように前を上げる。日本人は後がすっかり露わになるほど、後を上げる。」「ヨーロッパの女性は歯を白くするために手をつくし、手段を講ずる。日本の女性は鉄と酢を用いて、口と歯を黒くすることに努める。」「われわれの食卓は食物を並べる前から置いてある。彼らの食卓は食物を載せて台所から運ばれて来る。」これらは今の若い人には解らない?かもしれないが、もっと単純なものでは「われわれの間では衣服を右から左へ合わせる。日本人は着物を左から右へ合わせる」、「われわれは馬に騎るのに左足を使う。日本人は右足を使う」、「われわれの書物の最後のページが終わるところから、彼らの本は始まる」、「我々の間では葡萄酒を冷やす。日本では酒を飲む時....それを暖める」など。「われわれは坐り、彼らはしゃがむ」さすが、これは引用摺るのははばかれたが、「われわれのズボン、またはズボン下は前が開いている。日本人のそれは両脇が開いている」を引用したときには湯川先生の哄笑が聞こえ、隣の人に「ハカマや」と囁いているのが見えた。

 私の実際の話は、「われわれの子供は始めに読むことを習い、そのあとで書くことを習う。日本の子供は先ず書くことから始め、後で読むことを学ぶ」とか「われわれは書物から多くの技術や知識学ぶ。彼らは全生涯を文字の意味を理解することに費やす」というようなことから敷衍して彼我の弦理論の解釈に入って行ったはずだが、細かいことは忘却の彼方だし、ここでは関係がない。ことのついでに、僭越にもいろんな古今の物理学者を区分けして、あとで湯川先生に、ボーア(Niels BOHRのこと)は一筋縄で行かんやっちゃでェとたしなめられたのを憶えている。
 なお、奇しくも(というよりこの為に古い話を思い出したのだが)フロイスの訳がこの6月(1991年)に『ヨーロッパ文化と日本文化』と改題されて岩波文庫に入った。訳者はもう故人らしいが、二十年以上経つからさもあらん。湯川博士も幽界に降りられて、はや十年である。

     右と左と台北で

 じつは、こうした文化や習慣の違いというのは東洋と西洋に分けられるだけのものではない。同じ東洋といっても、日本と朝鮮、中国ではよほど違うし、大陸でも南と北ではそうとう異なるらしい。ヨーロッパだって、民族が違えば違うだけ違っている筈である。とても一般論はあつかえないし、その場でもない。私の今回言いたいのは習慣の相対性みたいなものである。

 1988年台北で観測していたとき、10月の終わり頃から一日中雨の日が多くなり、天文台へ行かないことが多くなった。とはいえ外食だから、傘をさして外出する。寮は台北市街の南のどん詰まりで、南側に自來水廠(水道局)がある外、直ぐ山で、これが全山白くなるぐらい墓場ばかりであり、辛亥隧道(トンネル)がある為、辛亥路はいつも満杯だが、ここをやっこらさ越えて東へ入ると、またわびしいところに出るといったところである。
 侘しいといっても人家が西側の様にまばらなのではなく、むしろギッシリしていて、横丁か小巷が入り込み、こちらは迷子になるくらいで、昔はスラムでなかったかというところもあって、関羽でも祀る様な祠か小廟ぎわの集会所みたいなところで、老人が胡弓を鳴らしているのに出会ったりして(立ち止まって聴き入るのであるが)はなはだ侘しいのである。もっとも、北側の一角に低い家並みがあって、路地といえどもやっと人っ子一人くらい通れるところがあり、そこを通ってずっと突っ切ろうと思ったが、その一角からは出られず、しかも奥に突き当たると、イギリスで見るような瀟洒な出窓から柔らかいシェードランプの光が漏れていて、まるで別天地の如き不思議なところもあった。路地の家並みは中国の田舎風だが、細い道がちゃんと舗装されているのには感心する。いずれ高層化してしまうだろうが、わびしい中にも、何となくゆったりした生活はある如くであった。突っ切れなかったのはこの一角の奥に中学校の裏庭があったからである。
 或る時、満杯の辛亥路をやっこらさ横切って路地に入ると、女生徒らしきが二三人“中國平和”とウィンドブレーカーの背中に横書きで大きく刺繍して歩いている。これはまたすごいスローガンだナと暫らく感心したが、傍らに学校があることから、これは“和平國民中學”を略したものだと合点した。和平國中がここに在るとは知らなかったが、名前は圓山天文臺の台長室の黒板(縦書き)の見学者欄によく出てくる名前であったし、丁度このあたりは和平東路の東の外れなので納得したのである。
 ついでに和平國中の正面前(ちょうどイギリス風ランプの反対側)に立ったが、隣にもう一つ本当に隣接して別の中學があるのには驚いた。芳和國中とか門柱にあった。人口が密集して一校でまかない切れなかったものか、種類が違うものか、それはともかく、大きな中学が二校も並んでいると、交通の邪魔であるが、別天の一角も出来るというわけである。

 台湾では今でも横書き題字など右から書くこととか、われわれの“平和”は中国語で“和平”となることはご存じであろう。だから平和は和平なのである。“氣電本日”とあれば日本電気と読むように、中国語で“紹介”とあったら“介紹”と読むのである。しかし、最近では横書きの新聞も出ているし、将来は全体左から読むように配置されてくるだろうと思う。いまのところ、同じ紙面で左右どちらのタイトルも見られるという混乱がある。読者は見てから判断するらしい。大陸ではすでに徹底していて船名でも両側最早右からは書かないのではないかと思う。
 和平や、介紹のほか日本の慣用字句と逆さになっているものは、鄭伯昆先生から幾つか聞いたが、大抵は忘れてしまった。限界が界限であるとか、売買が買賣であるとか....買が三声で賣が四声だそうだから恐ろしい。逆さになって意味の変わるのもある様で、告密は秘密を暴くこと。序でに逆さではないが、告訴は単に言うだけのことらしい。
 一寸複雑なのでは日本語の“右顧左眄”(うこさべん)が“左顧右眄”だそうで意味も違らしい。日本では、右を見、左を振り返りして気持ちが定まらない、のに対して、中国では左を振り返り、右を尻目にかけて、どうだ見たか、という得意洋々たる様を表わすらしい(尾崎雄二郎氏『漢字の年輪』(1989年、角川))。熟語でも、本末転倒が本末倒置だったり、支離滅裂が支離破砕だったりするらしいが、お互いに解らぬこともない。介紹だって解らぬことはないのである。

 ややこしいのは、中国語らしく見えて、中国語でないというものであろう。写真機(照相機)など日本語(中国語)だし、玄関(大門)なども通じるのかどうか。左官なんて駄目でしょう。1986年の時に久保亮五先生が台湾大学で講義され、先ず題目として黒板に「〜確率的過程」と大きく書かれた。ところが反応がない。鄭伯昆先生がやおら「確率」は中国語では「機率」と言いますとおっしゃった。機率では変な感じやなと思ったが、鄭先生は日本でも「機會」と云うでしょう? と言われた。確かに。今後もっと混乱しそうなのは、「機」が簡化字で「机」になることであろう。写真機は照相机である。機が机なら幾は几となるらしい。几何は幾何で、慣れないから変だと思うが、われわれのワープロでも飢饉と出てくるが、繁体字では饑饉なのだそうだから、われわれだって既に同じことをやっているわけである。かくして机はツクエでなくなった、というところが難で、彼我の乖離(かいり)は進むが、しかし、機でも済むというところはミソである。
 CMO#106の 蔡先生のお手紙に「教育局」というのがあったが、局は市(市政府)の行政機関、部は国務院のそれに当たる。だから「教育部長」は「文部大臣」のことである。日本の様にやたら部長さんはいない。それにしても、大臣とか、大蔵とか文部とか、古すぎはしないか。外務では外交は出来ないゆえんである。位(くらい)のインフレーションも馬鹿気た話で、いずれデノミが必要だと思うが、島国根性はそんなことに気付きもしない(逆に“国際”を付けたがる)。

 ついでに述べると、台湾の人たちも日本語は知らなくても、結構『天文ガイド』や『スカイウォッチャー』などを読んでいるのである。その場合、漢字の字面をたどるだけだが、ある程度わかるらしい。「等」という字は普通動詞で、「待つ」という意味だが、等しいという意味もあるし、「など」という意味もある事を知っているから、日本人は「等」を「など」と使っているナということぐらいは判ると思う。だから仮名より漢字の多い方が、とっつき易いはずである。問題は(これは蔡章獻先生もおっしゃっていたが)否定が判らないこと。「〜ない」とあるのを読み飛ばしてしまうおそれがあるわけである。「不い」は不味いから、「無い」を付けておくとよいかもしれない。しかし、日本の雑誌や書籍(或いは“文部省”)はそんなことに親切ではない。もっとも、和文・中文の先の様な違いを知らないとある程度は無理なのだが、解る人はいるはずである。
 いつか、徳惠街に近い薬屋さんで、そこのご主人は外省人だが、東北地方(旧満州)出身とかで綺麗な日本語が話せて、お客さんに「強力」を「ゴーリキ」と読む場合と「キョーリョク」と読む場合について説明しているのに出くわしたことがある。向こうの人たちも勉強しているので感じ入った。「心中」を「シンチュー」「シンジュー」と読み換えるのも勉強が必要だろう。また「日中」も一日中となると「ニチジュー」と読むことになる。漢字と呉音の導入以来十数世紀を経ているわけだから、分岐はおたがいそれこそ一筋縄では行かないのは当然である。

 もっとも、日本人だって、自分の国の固有名詞はちょっとやそっとでは読めない。佐伯先生はサヘキかサエキだろうが、九州の地名はサイキである。近松寺は大津(逢坂山)ではゴンショウジだが、唐津ではキンショウジだそうで、全くお手あげである。
 なお、日本語が中国で使われている例もあることは周知である。哲学とか、経済がそうである。ただ、純粋の和字は向こうでどう発音するのだろうか。凪とか峠である。もちろん、相当する中国語があるから、使う必要がないから構わないが、峠さんや辻さん等という日本人はいらっしゃるから、何とか発音しなければならないだろう。

    イギリスとフランスとGMT

話は移るが、私の火星のない端境(はざかい)期の1987年秋に合わせて、イギリスから知り合いが二人やって来た。一人は私のかつてのロンドンでの同僚で、ルースといい女性の博士である。もう一人はルースのボーイフレンドでイアンと呼び、ジャーナリストである。イアンは囲碁が出来、日本語も少し喋れるので、東京の日本棋院へ行ったり、二人でJRの全線パスみたいなもので、あっちこっち(日光、宮島、阿蘇等々に)まわった後、京都にあらわれた。ルースは私と同じ研究所に滞在し、講演などしたりしたが、週末になって二人は福井・金沢へも下った。

 以下は三国でイアンから聞いた話で、中島孝氏もそこにいたから、彼の方が正確かもしれないが、次のようなことである:ルースはエセックス出身の生粋のイングランド人だが、イアンは名前からわかるように、スコットランド人である。だから、彼がグラスゴーから南部に出てきた時は言葉で非常に苦労したらしい。電話はほとんど通じない。ただでさへスコットランド人はイングランドに古くからの恨みがある上に、今でも収奪は続いているわけだから、イアン青年にこれはこたえていたに違いないのである。もちろん今ではロンドンで活躍しているのだし、中島氏もイアンの英語は解りやすいと言っていたから、払拭しているのであろう。(全てのイアンさんの英語がいつもブリティッシュでないというわけではない。別の知人のイアンさんはロンドン育ちで、気持ちよく聞こえる。ルースによれば、キッブル先生はスコットランド人だが、インドで育ち、かえって超クイーンズ英語になっているとのことである。)
 続いてわれわれのイアンは三国でスコッツと英語の違いを色々説明してくれた。それはここではどうでもよいのだが、一つだけ、彼はスコッツマンの咽喉がイングリッシュのそれと違うんだということを力説し、逆に、イングランド人の発音できない音が几つかあると言い出したのである。その内容もここでは関係ないが、その咽喉の構造のせいでイングランド人はフランス語がへた糞で、スコッツはうまく発音できるのだ、とルースを前において逆襲するのである。じじつ、彼は平気で母音を鼻にかけてフランス語を喋るし、ルースのは一度も聞いたことがない(ただし彼女はラテン語同様フランス語も解する)。
 挙げ句、イアンは言ったものである:スコットランドがイングランドと仲が悪いが、フランス贔屓(びいき)であることのさかさまで、イングランドはフランスとめっぽう仲が悪い。(ついでに述べると、イアンはスコットランドのイングランドに対する創造性の優位を主張する。じじつ彼の挙げるスコットランド人の人材にはこと欠かない。彼はまたフロイス流に言うと、「英国はアイデアに優れているが、日本は商品化に勝っている」と言う。)

 スコットランドとイングランドの対立に関しては、これは南北問題みたいなものだからこれぐらいにして、折角だから、フランスと英国の仲の悪さに移る。じっさい、ことごとに英国とフランスは対立するもので、エドワード三世の百年戦争(或いはそれ以前)から変わらない。今のEU内での主導権争いをみても判る。もっとも、ここでは話を拡げることは出来ないし、その力量もない。一つだけ、ささいな事例をあげる。
たとえば、コインの裏返し方は無限だが、採用可能な“表”に対する“裏”面の選定は二通りしかない。左右に裏返すのと、上下にひっくり返すのとである。両者の結果は決定的に違っていて、裏面は逆さになる。左右に turn overするのをE型、上下方向に裏返すのをF型とすると、何と英国はE型、フランスはF型なのである。英国の貨幣をフランス式に上下に turn overすると女王様は逆立ちしてしまうのである。単にドーバー海峡を挟むだけで、どうしてこんな些細なことで張りあわなければならないか不可解だが、そうなっている。日本の貨幣はE型である。台湾のもE型であった。これは多分歴史的には西洋と独立していて、すでに古代中国の戦国期、斉秦魏の頃から環銭はあったそうだから、その伝統が日本まで伝来しているのであろう。その点日本は素直である(フロイス曰く「我々の間では銅の貨幣は完全なものである。日本では中央に穴が開いている」)。
 書類の裏返しにももちろん二通りあるから、手紙などチェックするとよいが、マッキム氏などは矢張りE型である。チェルレタ氏も手紙はE型だが、イタリヤのコインはF型である。アメリカは例によって私は通じないが、混在するかもしれないし、パーカーさんはF型だから、F型かもしれないが、メリーロ氏はE型,レア氏はF型である。書類は、習慣があるとはいえ、任意だからどうにでもなるが、貨幣は造幣局 が決めているから正式なものであろう。

 本初子午線が Londresに決定したのは後のことだが、ブルボン王朝の誰だったか Greenwichが癪の種であったという王様がいたと憶えている。パリ・ロンドン間は経度ではホンのちょっと、飛行機でも一時間だが、今でこそ統一したものの、ホンの十年前はサマータイムを勝手にやっていて、正午にパリを発つとその同じ正午にロンドンに着くというような馬鹿なことが起こる期間があった。
 これは、名詞の前に形容詞を置く言語(英語)と、名詞の後に形容詞を置 く言語体系(フランス語)のそれぞれの文化の違いであろうが、歴史的にはニュートン神話や強力な海賊の存在と、他方ではカッシニやホイヘンスあたりを外資導入しなければならなかったという違いが馬鹿な競争や異同を生んだと筆者はにらんでいる。さらに、本質的にフランスは中央集権的で、統一に熱心だし、イギリスはむしろ赤を赤と決めないのが、むしろブリティッシュという風である。今後、通貨の統一も含めて、両者攻防があろうし、そのときどきの政治力の優劣が事を決めて行くのであろう。(但し、サッチャーは非ブリティッシュであったと森嶋通夫氏は書いている。)

フランスでは Telescopeは“反射”望遠鏡であって、屈折鏡(Lunette)と厳然と区別する。この頑固さのおかげで、TとLだけで両者を区別しえるのは便利である。 BAAでは昔 Spec (反射鏡) と OG (対物鏡)で区別していたが、マッキム氏は Refl とOGを採用している。Schmidt-Cassなどがあるから具合悪いのであろう。いずれにしても、記号上RefrとReflの混用はよささうに見えるが、実は書き間違い、読み間違いなど混乱が起きやすく、記号としては落第だということで、『火星通信』では使っていない(『火星通信』ではspecとrefrである)。 Rと Lは、両者に混乱はないが、右左じゃあるまいし、また Lは Lunetteであるかも知れないから駄目である。他に、右右、右左というのもあるが。手旗信号じゃあるまいし。

私は事情や経緯(いきさつ)をまったく知らないが Dynamical TimeをTDとするのはフランス側の勝利と言え、Temps Dynamique に合致している。イギリス側は(癪にさわったかどうか知らないが)TDTとしている。これはTerrestrial Dinamical Timeの略でうまく逃げたものである。TDに沿って国際規格をつくると、TUとなるが、GMTならそうも行くまい。どう逆立ちしても、今後 Greenwichから動くとは思われない(TUならどこに改訂してもよい。もっともフランス語が国際外交語としての役割を終えてから久しいから、そうもゆくまいが。ついでに言うならば、GMT は普通の辞書に載っているから、隠語でなく常用語である。 Flammarion 社の Dictionnaire usuel illustreにも GMTの説明があるが、TUは無い。但し、私のは1981年版)。

日付の書き方はフランスの場合、日月年の順序に決まっている。日には冠詞がつく。英語では日月、年もあるが、月日, 年もある。然し、JBAAでは年月日の順である(例外もある。また無理をして、in 1991 on July 1 というのもある)。多分、天文では“年”が重要で、日付は副次的な場合が多いからであろう。『火星通信』では日月年の順にしている。これは記事が短期的で年があまり重要でないからである。しかし、昔のデータと比べる場合 BAA方式がよいかもしれない。アメリカは月日年が普通であろう。統一上 LtEなどでは我流に直している。イタリア(義大利)ではどうか、チェルレタ氏の手紙の中に、イタリア語の日付のが一通あるが、これは日月年の順である。日月年または年月日の順序の利点は、月が数字でない場合コンマが不要のこと。

英国とフランスは仲が悪いと言っても、 BAAの火星Section のDirectorをアントニアヂがつとめた時期もあり、 BAAではSeeingはアントニアヂのスケールを使っている。これは五段階でTが最高で、Xが最低である。ALPOの十階級の順序とは反対の方に進む。濃度測定も BAAでは 0が極冠の明るさ、10が背景の漆黒の濃度である。これもALPO方式とまったく逆で、いつか S&Tに英米同じだ(暗に日本は違うのだ)と書いてあったが嘘である。シュムーダ氏は BAA方式で報告してくるが、そうでなくとも『火星通信』では混乱を避けるため BAA方式に変換して載せる。

   おわりのはじめ

こうしたことを論(あげつら)うと、きりがないが、私の言っていることは、何でもかんでも統一しろなどということではまるっきりないことはお判りであろう。ところ変われば品変わるのがあたり前で、方言をなくし、標準語だけに統一しようなどというのが、行きすぎた考え方であるように、それぞれの文化文明があり、それらは相対的なのである。象は鼻が長がすぎると小言を言ってみたって詮ないことで、象には象の世界がある。むしろ文化の違いにtopsy-turvidomが見られるような極限同士がきわ立ったほうが、より相対的に物事がよく見えてくるということもあるわけである。ある習慣が絶対的だとする考え方ほど始末におえないものはない。
火星観測についていえば、門戸開放の形で、それぞれが半ば伝統に従い、半ば新規に巻き直して、それぞれ励んでいればよいことであろう。アメリカがこうしているからとか、 IAU(=UAI)がこう言っているからというのは、さして混乱がない場合、メダカ社会的根性、植民地的根性と変わりがないことである。特に内容がない場合、いくら形式を飾っても無駄である。

せんだって、フランスのクレッソン首相が胸のすくような歯切れのよい対日批判をして、日本人に過剰な反応をかもしたらしいが、『朝日』でエレーヌ・コルヌバン東京特派員(ラ・クロワ紙)はその背景などを話した後、次のように結んでいる:
「今度のような騒ぎは英佛両国の間では日常茶飯事ですよ。英国の新聞は売らんが為にフランスの悪口を書き、フランスの新聞は英国民を揶揄してやり返す。日佛両国もそんな関係に近づいた、ということじゃありませんか。」
英国とフランスはああして切磋琢磨してきたのであろうが、しかし、フランスと日本に関していえば、まだまだそんな域ではなく、フロイス流に言えば、フランスは vacanceという言葉を世界に流布し、日本は Karohshi(過労死)という国際語を造ったという程度のことであって、近視眼的にはカローシ経済が勝利し、長期的にはバカンス文化が栄えることは間違いない。

(註:“英国”というのは、英国大使館などが使っている用語で、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの総称の由で、連合王国(United Kingdom)と同意語かもしれない。イギリスというのはイングランドだけでなく、英国を指すと思う。UKの正式名称は United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland.)

[ 『火星通信』#108 (25 August 1991)号 「夜毎餘言」22から ]