ずれずれ艸01

『火星通信』 ずれずれ艸 from 南天・文臺 (その1)

南 政 次


●贈答関係●
▽未開の社会では贈与という契機が大きな意味を持つ様である。これには(たとえ呪術的にであろうと)一層の返礼が伴い、交流が生じて共同体の衰退を防ぐ。たとえば婚礼は島と海を隔てた別の島との間で行われる。島の同族の間だけでは文化は広がらないからである。これは構造的なもので、複雜な知的社会でも成り立つ。構造主義のC Levi-Strauss(レヴィ・ストロース)はその考えをBourbaki(ブルバキ、フランスの数学者集団)のAndre Weil(アンドレ・ヴェーユ、シモーヌ・ヴェイユの兄)によっているようだが、構造とは作用・働きであって、「変換」規則が組織の維持に寄与し、組織の枯渇を防ぐという考えである。
▽いかなる共同体や社会も孤立するわけには行かない。しかし、外部からの文化の侵入は蛮族の侵入と同じく、猛烈なものであれば堀立小屋はスッ飛んでしまう。やっとバラックを建てると次の暴風雨によって吹っ飛んでしまう、というのでは、内向型・非変換型になってしまう。そのときは鎖國をしなければならないであろう。しかし知的貧血におちいってはいけない。中国大陸の文化攻勢に対して古代・中世の朝鮮は暴風雨の連続をこうむっていたのに対し、日本は地理的に余裕があったことは好く知られているが、貧血を起こさなかったのが大きい。

 ▽もともとドイツ語にVerkehr(フェアケール)という術語があり、交通とか交換intercouseとか、と訳されるが、communicationという意味もあろう。inter-とかcom-というのに重要性がある。やはり変換の担い手である。
▽農業共同体が都市化するのでない、柄谷行人の命題(あるいはジェーン・ジェイコブズか)を拝借すれば、「原 都市」が前もって存在し、ここで栽培・牧畜が始まり交通に依って逆説的に農村が出來てくるのである。勿論交通の密度は問題である。しかし、交換や贈答を拒否する共同体や社会は凝固・枯渇する。適当な密度の「変換」の働く異種交配が醸造されることが必要である。

 ▽火星観測の世界は「原都市」の筈である。然し、島共同体であり続けるところがある。BAAの火星課がそうである。これは十九世紀の帝国主義そのままである。ムラが世界を為すと思っている。ALPOやAKP(ドイツ)の火星課もVerkehrが上手く機能せず、瓦解しつつある。前者はもともとLowell亜流で、火星面の観測も局所にこだわり、また局所にしかわたらない。今は巨艦主義であり、自己の招いた龍巻に自失している。国策のInvincible-Armada(無敵艦隊)は非変換的にしか働かない。ドイツの場合は他地域との婚礼不足である。
▽Internetやemailは贈答的であるが、まだPost-Modern的表層で、まだまだタロイモにもなりえない。

(#198 夜毎餘言54 ---25 Dec 1997)


●黄猫、黒猫●
▽ウチには駄猫が二匹いる。同時に生まれた姉妹だが、毛並みの色合いが違うし、顔つき・性質も異なる。雜種だから、どう形容して好いか分からぬが、一方は黒っぽく、他方は白っぽい、というと語弊があって、兩方とも背中を見ていると全体はなはだ冴えない茶系統である。ただ一方はサビで確かに眞っ黒な部分が点在し、他方のキジは髭が白いのとお腹の人間のヘソに当たるあたりに白い個所がある程度のことである。名前はついているが、やはり白・黒で区別することがある。
▽“黄猫、黒猫”はDeng小平氏の有名な猫だが、わが国ではこれを「白猫、黒猫」と翻訳していた様に思う。四川省の黄猫は白猫のことなのか、実際に黄色い猫が多いのかつまびらかにしないが、日本では黒い白いの方が通りが好いからであろう。実際、「シロ猫」のように「黄猫」を発音できない。
▽鈴木孝夫氏著『日本語と外国語』(岩波新書)によれば、欧米の文獻にはorange catが出てくるそうである。これを蜜柑色、橙色の猫と訳すと間違いだそうで、内実は茶系統らしい。ちなみに、tawny orange という色を日本人に見せると、茶色、赤土色、褐色、煉瓦色、珈琲色、など様々に出てくるが、オレンジ色という回答は出てこない由である。フィルターのO56は確かに蜜柑色ではないし、こんな色をした“オレンジ”を食べたこともない。これは困ったことで、猫の毛が複雜なのとは違い、コミュニケーションに支障をきたす。
▽同著によれば、フランスの常用語にenveloppe jauneと言うのがあるそうであるが、これは英語に直せばyellow envelop、日本語に直せば“黄色い封筒”となるが、さにあらず、これは普通の“茶封筒”のことの由。souliers jaunesと言うのが出てくれば、これは茶色の靴と考える方がいいのだそうで(スーリエは靴)、確かに黄色い靴など伊達や酔狂でなければ男は履かない。正確には明るい褐色に近いようである。
▽これでは気味が悪いので、どういう事か、同氏の考えるところでは、西洋ではorange(橙)とかjaune(黄)というのは基本色で、限定的ではなく幅広く採られているのに対し、わが国では未だ特殊な色になっているからというわけである。「黄色い」という風に「い」がつけられたのは比較的新しいのである。ちなみに、「青い」はあるのに対し、「緑い」は未だない。目に青葉の「青葉」は当然緑色である。「青信号」が緑色している のが本当である。
▽しかし、「赤い」というのはわが国でも古くからの基本色であろうけれど、「日の丸」を太陽の色と考えるのは、一寸手前勝手である。太陽はその様な色をしていない上に、よその世界では赤は他の連想も引き起こす可能性もある。

 ▽さて、そこで「黄雲」である。アントニアディ等にはnuee jaune (ニュエ・ジョーヌ。nueeはスケールの大きな雲)が出てくるが、当時は限定的ではなかった筈である。これが「黄色雲」とか「黄雲」とかにわが国で化けたのはいつであろうか。これはホンマ「黄色い雲」であったのであろうか。しかし、「黄雲」は単純に黄色くない以上、これは誤訳に近い。

▼We Japanese usually translate Deng Xiao-Ping's "yellow cat" into "white cat" because of some traditional difference between China and Japan.
▼We also usually don't understand French words "enveloppe jaune" and use instead "brown envelop" if translated into English.
▼The word "jaune" in France must not be in a spectroscopic sense, and may be used in the way“--- Des souliers jaunes? ---D'un brun tres clair, si vous preferez. Ce que, de mon temps, si vous excusez l'expression, on appelait des souliers caca-d'oie.” (G SIMENON, Maigret).
▼ How about la nuee jaune? Is the word "yellow" exactly and culturally equivalent to "jaune" in the above sense?

(#199 夜毎餘言55---25 Jan 1998)