私のスケッチのコピーを頂きましたが、こうしてみると随分立派な観測に思えるから不思議です。私はこのサイクロンを朝霧の凝縮したものくらいにしか考えていませんでした(No.83/1986に引っ掛かっています)。Syrtis Mj北端の形については、像の東端に近づくにつれ、Nili Sの飛び出しが見えなくなって、あのような形に描いてしまうのです。
12.5cmフローライトの件は了解いたしました。日本通運であれば、高価なこわれものも扱ってくれますし、到着日の指定もできます。一つだけ問題があるとすれば、セッティングの最後に鏡筒バンドに鏡筒を乗せる作業で、12kgほどのものを1m40cm位の高さまで持ち上げなければなりません。いま手元にあるのは三脚仕様ですが、ピラーだともっと高くなります。少々危険なことになるかもしれないのが心配です。
マーラーの「大地の歌」は十枚ほど所有していますが、半数は輸入盤です。若杉弘/東京都響盤の解説文に歌詞の出どころが表になっていましたので、拡大コピーしたものをお送りします。「大地の歌」の室内楽バージョンはA・シェーンベルクが編曲したもので、一枚だけ持っていますが未聴です。マーラーのCDは持っているだけで聴いていないというものが多いのです。このごろは長時間集中するのが苦手になってきて、ついモーツァルトに手が延びてしまいます。
ご質問の件、岩波新書の柴田南雄著『グスタフ・マーラー』に丁度答えになる部分がありましたので、原文のまま引用します。
−ワルターの1936年五月の録音には傾聴に値する幾場面かがある。中でも第六楽章「告別」の前半、「せせらぎは夕闇に妙なる歌を歌い」の直前の間奏で、ハープのリズムに乗って妙なる旋律を歌うオーボエの歌い方には独特な味わいがある。そこでは、スタッカートや装飾音、トリラが強調されているために、おのずとフモールの感覚がにじみ出て、それがまさに別離の情緒を適切に彩らせる。ワルターには1952年にも同じウィーン・フィルと録音したLPがあるが、そこには36年演奏時の絶妙な表出は見られない。他の指揮者のは、この点に関してはすべて論外である。ワルターは、マーラーから「大地の歌」のスコアを託された折りにこの奏法の要諦をさずけられ、それが36年の録音に、奇跡的に実現したのではあるまいか、と思うほどである。−
1936年といえば78回転のSPレコードですよ。私は、このての「歴史的名盤」には全く興味がなく、もっとも古いもので60年代のバルビローリのものがあるくらいです。コンサートホールで聴くウィーン・フィルは出来不出来の波が大きく、特に1995年十一月8日の東京公演の第五番の手抜き演奏を聴かされてからは、私の評価は一変してしまいました。同時期に来日していたインバル/フランクフルト放送交響楽団は、宮崎で第一番、福岡と東京で第五番を聴きましたが、福岡公演では速めのテンポ設定で、同じ顔合わせのCDの演奏が随分遅く感じられたものですが、東京公演ではCD並のテンポで進められました。どうやらオケのメンバーの緊張を維持させるため、振り分けていたことに気づいて舌を巻いたものです。まさにインバル恐るべし。そのインバルと肩を並べるユダヤ系マーラー振りにガリー・ベルティーニがいますが、今般手兵の東京都交響楽団を率いてマーラーチクルスを埼玉会館と、横浜みなとみらいホールを使って、年二回のペースでこなしていくことが発表されました。井上道義/新日本フィルのマーラーチクルスがほとんど毎月演奏されているため、全部聴くには休暇が足りそうになく、やむなく五回だけチケットを確保したにとどまりましたが、2004年までかけてじっくりと進められるのであれば、全部聴くことが出来ます。今年は四月30日の第一番と十一月18日の二番です。ただしチケットの発売が今月21日ですから、取れるかどうかは運次第ということになります。
ブラームスのピアノ協奏曲の件:私はギレリスの演奏は一枚も持っていません。私のコレクションはモーツァルトとマーラーが大半を占めていて、他の作品に手を回す余裕がないというのが本当のところです。もちろんドイツ音楽は好きなので、ベートーヴェンやブラームスも最近の録音ならばある程度は揃っていますが・・・。考えられる原因としては、記憶の日の演奏が時の経過とともに美化されていて、CDに復刻されたものとギャップを感じてしまうこと。次に考えられるのはCD化の失敗と言えるもので、私もマーラーの第三番のアバド/ウィーン・フィルのレコードが色彩豊かで、目の覚めるような演奏なのに対し、CD化されたものはもっさりとして、全く別物のように聴こえるのでお蔵入りにしています。
音楽の話を始めると止まらなくなってしまいそうなのでこのへんで・・・。