Ten Years Ago (201)
----CMO #255 (10 January 2002) pp3207~3226 & CMO #256 (25 January 2002) pp3227~3250 ----
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/cmo255/index.htm
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/cmo256/index.htm
CMO#255は一月10日号で新年の挨拶から始まる特別号になっていて、この歳の正月号は2号出されている。最初から2002年の目標として、2001年の大黄雲の分析に明け暮れる年になるだろうと述べられている。さしもの大黄雲も漸く落ちついてきたところであるが、CMO Noteの第一弾として2001 Mars CMO Note (1) "Trend of the South Polar Cap in Southern Spring When the Major Yellow
Cloud Started" 「大黄雲発生時の南極冠の動向」が数頁にわたって草されている。2001年六月24日(λ=185°Ls)に発生した黄雲の南極冠への影響を、黄雲発生前の五月下旬(λ=165°Ls)あたりの様子から探り、九月上旬(λ=230°Ls)までの動向を更に取り上げている。
和文
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/01Note01j/index.htm
英文
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/01Note01/index.htm
纏めとして、以下の各項目が示された。
1) 既に5月下旬あたりからヘッラスに接する南極冠/南極雲には黄塵の影響が出ていた。
2) 170°Ls〜180°Lsではヘッラスのあたりが異常で、南極地も影響を受けた。
3) 24 June (185°Ls、一日目)には既にヘッラス域に見られた黄塵がヘスペリア北端発生の黄塵と連携することによって高空へエアボン・ダストを押し上げたが、これは28 June (四日目)にはこの方面からの南極冠をほとんど隠す。
4) 30June(六日目)には黄塵の沈殿に依って縮小した。然し、マレ・キムメリウムの南からヘッラスの南に掛けてだけで、やや偏極した。
5) 火星を覆う黄雲は然し南極冠の動向を然程左右する濃度はなく、やがて七月に入り安定するに従い南極冠も(230°Lsまでは)対稱に戻ったし、溶解の遅延も起こらなかった。
6) 遅延が起こらない理由は、その他に季節が早く、未だ斜陽で黄雲から受ける温度変化に反応するに到らなかったからということもあろう。
7) この黄雲安定期は南極冠朝方に経度の関係なく地上霧のでた7July(191°Ls、十四日)から17Aug(216°Ls、五十三日目)頃までの間と考えてよいであろう。
8) 安定期の前、南極冠は寧ろ黄塵の降下でやや小さめであったが、230°Lsあたりでは平常のサイズに戻ったと考えられる。
LtEでは、世界各地から寄せられたグリーティングカードと年賀状に謝辞が述べられている。この期間に電子メールで寄せられた方々のものが取り上げられており、 氏名を以下に列挙する。グレアム氏からのカードにはお子さん誕生のニュースがあり特別に引用されている。
外国からは、David GRAHAM (the UK / postcard) , Randy TATUM (VA,
the USA), Brian COLVILLE
(Canada), Clay SHERROD (AR, the USA),
Dave MOORE (AZ, the USA), Frank J MELILLO (NY, the USA), Damian PEACH (the UK),
Ed GRAFTON (TX, the USA), Bill SHEEHAN (MN, the USA), André NIKOLAI (Germany), Richard SCHMUDE (GA, the USA) 日本からは、熊森照明(大阪)、森田行雄(広島)、長谷川久也(茨城)、堀川邦明(神奈川)、松本直弥(長崎)の各氏からの来信であった。堀川氏よりのメールには、木星・土星画像の転送に関しての謝辞と、木星の近況の解説も含まれている。
コラム記事には、「大沢俊彦サンヲ悼ム」と題する、長谷川一郎氏の追悼文が掲載された。英文ではMn, Nj両氏によるObituaryがあり、2001年三月になくなった、惑星観測の先輩の業績が記されている。
他に常間地さんの「アンタレス研究所訪問」14回目は「年越しのTwin Peaks」で、2001年中の活発だった黒点活動についての報告である。1999年七月に相対数Rのピークがあったが、まだまだ極大期の様相で、2001後半にはRは増加傾向にあり、前周期(Cycle22)のようにピークが二つある活動になるのではと予測している。実際、この周期(Cycle23)では再び活動的になり、筆者(Mk)の観測の平滑化した相対数グラフでは、2000年半ばのピークを凌ぐ二つめの山が2002年前半にあり、常間地さんの予想が的中している。その後は緩やかに低下して2009年の極小期まで通常より長い期間の活動をみせた。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/Ant014.htm
CMO#256は通常の編集で、巻頭には19回目となる観測レポートが掲載されている。2001年十二月後半と2002年一月前半(λ=292°Ls〜310°Ls)の報告がまとめられており、報告者は国内から七名・156観測、外国から五名・31観測であった。日本では太平洋側は冬型の晴天で常間地さんは観測数をのばした。また、森田氏は赤道儀の修理が出来て年明けから復活している。
この期間、火星は「みずがめ座」から「うお座」へと赤緯をあげて、夕空に残っていた。視直径はδ=6.8"から5.9"と小さくなり観測期も終盤となった。中央緯度はφ=25°Sから27°Sと大きく南に傾き南半球が見えていた。
レポートの記述も南半球が中心で、小さくなった南極冠、復活して来たソリス・ラクス、丸く地肌色のヘッラスや、暗色模様の様子が記されている。
次いで、2001 Mars CMO Note (2) "Dust Devil is To Be Produced Early in the Morning and Stay Stationary
in the Daytime" 「黄塵は早暁に作られ、昼は上昇のみ」が掲載されている。
海老沢嗣郎氏とAudouin DOLLFUS氏共著の1971年七月黄雲の観測記事にある記述の紹介から始まり、塵雲の境界は火星の一日を通してほとんど変化しないという見解を支持するという立場をまず示している。次いで1971年九月黄雲の時に観測された、朝縁から出てきたノアキス黄雲の白い明るさを指摘した W A BAUMの論文からの引用を取り上げて、前述のように太陽に照らされている日中に変化しないものが、夜間に作り出されるだろうかという疑問を呈して、2001年の観測結果解析のアプローチとしている。
2001年の観測結果からは、28June(四日目)と29June(五日目)の共鳴黄塵発生の様子が詳説されているが、早朝の画像が得られず、発生の状況は不分明だったが、時間を追った画像は多く得られて、日中の水平方向の移動は巨視的には無いという事が結論されている。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/01Note02/index.htm
英文
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/01Note02j/index.htm
和文
纏めに、黄塵発生のメカニズムの仮説として以下のことが挙げられている。
1) 黄塵の発生には幾らかの砂塵(夜間の大気温を保つ他、熱潮汐を起こす)と水蒸氣(朝方の気象の激変を司る)が既に必要である。
2) これが中低緯度において夜明け前から朝方に掛けて、寒冷前面と低気圧のような収束が起こったとき、急激な上昇気流を起こし、「細かい」砂塵を上空に揚げる。
3) この過程ではこの朝方の現象は、その地形に留まり、水平方向への移動は夕方まで殆どない。
4) 但し、対流圏上層への発展は昼も起こり、黄雲を上空で作る。
5) こうして作られる黄雲の初期にはフィードバックして次の朝方黄塵を作ることがある。
6) 同じ場所のこともあるが、別の箇所で同じ現象を繰り返すこともある。
7) 初期には水蒸気は昼の朝方を未だ覆うぐらいに殘っている。
8) 但し、次第に水蒸気の活動が弱くなる
LtEに取り上げられているのは、Johan WÅRELL (Sweden), Frank
J MELILLO (NY, the USA), Nicolas BIVER (the Netherlands), Dave MOORE (AZ, the
USA), Clay SHERROD (AR, the USA), Don PARKER (FL, the USA), Donald R BATES (TX,
the USA) の外国勢と、長谷川一郎(兵庫)、中神輝男(栃木)、佐藤健(広島)、熊森照明(大阪)、岩崎徹(福岡)、森田行雄(広島)、阿久津富夫(栃木)、伊舎堂弘(沖縄)の国内の各氏からの来信である。
連載15回となった「アンタレス研究所訪問」は常間地さんの筆で「冬の月」である。月という文字の用例には「月影」とか「月映え」とか「月花」とかいう雅語があるが、俳句では「月並」というのは子規以来あまり好い意味ではない。ただし、「月花」も芭蕉は月花に心酔する自己を諫めて「月花の愚に針たてん寒の入り」と詠んでいるそうである。寒の入りは「小寒」で今年(2012年)は一月6日であった。その他、月待ちというのは寒い冬にもあったという話が出ていて、芭蕉の年明けの月の句が引用されている。情景を思うと季節柄後半も味わい深い文章である。Webで読めるので参照されたい。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/Ant015.htm
TYA(77)は20年前のCMO#113 (25 January 1992) を紹介している。この年のはじめの火星は未だ朝方の空にあり、次回の接近は1993年一月の事であった。この号から外国人向けに「日本語講座」が始められた。1990 OAA Mars NOTE
(3) "Hellas in Dec 1990 (around 345°Ls)”「1990年十二月のヘッラス」が掲載されており、ヘッラス東岸が棍棒状に明るかった異様の様子を考察している。また、「夜毎餘言」XXVは「道元・典座教訓」と題された観測の心得に繋がる道元の禅宗修行の話である。典座(てんぞ)というのは禅寺の台所を任せられる僧侶であるが、道元は中国滞在数日にして、その修行の厳しさを味わうのである。この話は巷につとに有名なのでご存じと思うが、南氏の論の再読をお奨めする。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/TYA77.htm
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn0/Zure19.htm
「道元・典座教訓」
村上 昌己 (Mk)