
大正から昭和初期にかけ、英国のG. カルバー(1834-1927)が製作した反射望遠鏡が関西に3台輸入されています。最初に33cm反射鏡が設立されたばかりの京大天文台に導入されました。後に反射鏡研磨の第一人者といわれるようになる中村要(1904-1932)はこの鏡に心酔し、英国Chelmsfordに工房を構えていたカルバーと文通しながら、教えを請うたとされています。中村は10cmから15cmの小口径反射望遠鏡を全国の天文愛好家に広めました。次に32cm反射鏡が導入されたのは、市民の寄付により設立された倉敷市民天文台でした。この天文台は本多実が彗星観測をおこなって国際的に知られるようになりました。3番目は田上天文台に導入された46cm反射鏡です。これは戦後しばらくの時期まで東亜天文学会の象徴的存在でした。
このようにして3台のカルバー反射望遠鏡は、日本の天文愛好家の育成に大きな役割を果たし現在はその役目をほぼ終えています。それぞれの状況にあわせた保存が望まれているのが現状です。33cm反射鏡は現存しませんが、写真が数葉のこされており筆者がCG復元をおこないました。32cm反射鏡とスライドルーフ観測小屋は倉敷市指定文化財として保存・公開されています。山本一清のページに述べていますように、数奇な運命に翻弄された46cm反射は現在分解された状態で保管されています。



京大天文台に導入された33cm赤道儀、倉敷天文台の32cm赤道儀(倉敷天文台HPより引用)、46cm赤道儀("Publ. Kwasan Obs."vol.1,no.1より引用)
カルバーは多産な鏡製作者でした。修整研磨も含めると2000-4000枚の鏡を磨いたようです。彼の鏡は協力して仕事をしていたオッタウェイ(OTTAWAY AND CO. W; Orion Works, Ealing, London)の作ったマウントに載せられて出荷されていました。このあたりの事情は、中村要が研磨した鏡を、西村製作所が望遠鏡にしたてて販売していたのと似ています。オッタウェイの屈折望遠鏡は中村要が中学校時代をすごした同志社にもありました。
カルバーは12インチ(30センチ)鏡をもっともたくさん手がけていました。18インチ、24インチなども作っています。ベッセマー卿のために50インチ鏡を磨いたこともありました。最大径は5フィート(150センチ)鏡でした。もっとも有名なのはロンドンのコンモン博士のための36インチ鏡でした。コンモンはこの鏡でニュートン焦点をもつ天体写真儀をつくり、1881年に彗星1881b、1882年にオリオン星雲の撮影に成功、王立天文学会で発表しゴールドメダルを受賞しました。5フィート鏡もコンモンの注文でしたが、ニュートン式にしたてた望遠鏡で観測しようとして彼は誤って転落事故にあってしまいました。それでカセグレン式に変更するため主鏡に穴をあけますが、結局、修整研磨がうまくできずに失敗になったそうです。