或OAA火星課OBの『夜毎餘言』-その XII
南 政 次
Masatsugu MINAMI
CMO/ISMO #419 (25 February 2014)
XII-1:日露戰争外傳: 私は先に田老の巨大防潮堤にまつわる話を書いたとき、實は三題噺の一つとして採り上げるつもりだったのだが、それは原稿が遅れている状態では適わなかった。だから、次に、私の三題噺の根底に流れること、つまり私が忌み嫌うもの、忌避したいと思うことが底流にあることを示すことが出來なければと思っている。私はデマゴーグで事が進むことは避けなければならないと思っているし、資本主義的商賣とか、ナショナリズムを含むイデオロギーみたいなことで事が進行するのは好きではないのである。
私がその例として二番目に採り上げたかったのは日露戦争(1904年(明治37年)二月8日 -
1905年(明治38年)九月5日)の「勝利」に纏わる事についてであった。尤も、私は歴史を勉強したことはなく、特別日露戦争について興味があるわけではない。ただ、當時の終戦に伴う様々な現象(例えば大衆感情)に正しい決着を度外視したばかりに、悲惨な太平洋戦争を招いたという推論を保っている爲に一言書きたかったということである。
よく知られているように、日露戦には日露とも想定以上の出費を余儀なくされ、結局日本の勝利と雖も、皮一枚の辛勝であり、實は戦闘より外交で決着を付けたという性格を持っている。発端はどうであれ、日本には小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋といった対露主戦派と、伊藤博文、井上馨らの戦争回避派の論争があり、民間でも開戦派と幸徳秋水らの非戦論があると云った状態の中で、1904年二月6日には外相小村寿太郎が駐日ロシア公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡すわけである。8日には實際に旅順口攻撃で奇襲戰を挑み、戦闘が始まり、10日に日本政府は露國政府に宣戦布告を行った。その後、黒溝台会戦、奉天会戦、それにバルティック艦隊の到着による日本海海戦などと続くのであるが、バルティック艦隊の到着以前から、露軍のみならず日本軍の受けた被害は予想以上のもので、日本側はアメリカ合州国大統領セオドア・ローズベルトに和平交渉の依頼をしている。但し、露國はバルティック艦隊の到着を待つ姿勢で、講和には暫く躊躇した。よく知られているように、バルティック艦隊に対しては日本海軍の奇跡的な完勝となった(1905五月27日)ほか、露國では、数々の敗北、帝政に対する民衆の不満、厭戦気分が勝る様になり、経済も停滞に向かい、大國露國側も戦争継続が困難な状況が認識されるようになってきたわけである。一方、日本も勿論、19ヶ月間の戦争期間中に戦時国債による戦費は国家予算の六年分17億円を投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、また当時日本軍の常備兵力は20萬人だったのに対して総動員兵力は100萬人を越えたことから、國内の産業力が低下し、経済は疲弊して國力の低下は著しかった爲、當然講和を更に探る方向に向かった譯であろう。
美國の仲介による講和交渉は八月10日から美國ポーツマス近郊で行われ、1905年九月5日にポーツマス条約を締結して、講和する事が出來た。
實は日露戦争中、日本では戦闘の様子も華々しい戦果だけは連戦連勝の形で報道され、幾つかの局所的な敗北や撃破の失敗、消耗などは隠されていた爲、「猫も杓子もといふ諺の通り提燈行列益々流行し」(讀賣1904年)たようだが、講和がなったとき、戦勝を信じる國内では、賠償も取れなかったことに対して、事の真相・内実を知る方に向かうのではなく、九月3日には大阪市公会堂などで戦争継続を訴える集会が開かれ、決議は「閣僚と元老を全て處分し、講和條約を破棄してロシアとの戰爭繼續を求める」などというものであったらしい。マスコミが恐らく何かの利害で、扇動する側にあったようで、既に九月1日には『朝日新聞』が「講和會議は主客轉倒」「桂太郎内閣に國民や軍隊は賣られた」「小村許し難し」などと書いていたようである。九月5日の日比谷焼き討ち事件の時は、民衆は暴徒化し、國民新聞社、交番への襲撃というようなものだけでなく、ニコライ堂や美國公使館まで襲撃の対象になったらしい。6日には戒厳令が出され、騒動は収まったようだが、17名の死者を出している。然し、反発は収まらず、翌年には桂内閣から西園寺内閣に交代している。
一方、講和斡旋の美國に対して公使館への襲撃があったことで、美國世論は反日に向かい、美國國内での黄禍論が高まった他、まともに日本人排斥運動が起こったりして、アメリカとの対立が深まって、第二次世界大戦へと繋がってゆくわけであろう。
もう一つ、日本國内の戰勝氣分の愚かさを強調しなければならないと思う。ポーツマス講和前後の日本の立場について冷静な分析がなされず、「勝った」「勝った」のワンフレーズや「日本は強い」というような間違った自負が、結局愚かな満州進出と十五年戦争(1931~1945)へと突き進むのである。真珠湾攻撃當時の戦勝気分は明らかに日露戦の戦勝気分を踏襲している。そういう意味で、日露戦争前後については報道も含めて今も冷静な回顧が必要のように思う。
(28 February 2014)
XII-2 第五福龍丸事件: 三月1日はいまから60年前の1954年に第五福龍丸がビキニ環礁近くで美軍の水爆実験のキャッスル作戦に巻き込まれて、死の灰で被曝した日であり、無線長の久保山愛吉さん(1914~1954)が、半年後に亡くなった。
私は1980年前後に、勤務大学の『非核の会』に関係していた頃、毎月一回ほど私の勤務先で部屋を借りて少数ながら同志が集まって、討議の会を催し、月報も出していた。いつもそうだったか憶えはないが、三月1日に教養部(物理)の湯山哲守さんがマグロの刺身を出席者数の「舟」に分けて運んできて、教室でみんなと食した記憶がある。マグロが焼津から來ていたかどうかは憶えない。湯山さんとは、私の退官後は私は田舎に引っ込んだ上に、私は筆無精だから付き合いは自然消滅しているが、最近『赤旗・日曜版』に湯山さんの活動の消息が載っていて嬉しかった。NHKの監視の役割の会を担っているようであった。まだ籾井発言の前ではなかったかと思う。1986年、1988年の臺北時代、私はこの会に出席出來なかったが、湯山さんから手紙を貰い、圓山天文臺の張麗霞さんが「タンさん」から南宛てに郵便が來ていますよ、と告げられことは憶えている。内容はもう憶えないが、その「タンさん」は「湯山」さんの讀みで、「タンサンさん」というところである。
私は、當時、第五福龍丸の消息や乗組員の状況など調べた記憶があるが、どうも當時のInternetの記述でも、久保山さんに関するところは 歯切れが悪く、いまのInternetでも相変わらずimplicitな中傷が続いているようで、久保山氏を闇に葬りたい人間はいまもいるように思う。美國と我が國のおかしな連中が「原子力の平和利用」として原發などの配備を目論んでいた頃で、死の灰による被曝は隠したいところあったし、メディアでは讀賣關係が目立って動き、1955年には日比谷で「原子力平和利用大演説家会」が行われている。美國からも有名御用学者が呼ばれていたようである。日本側の動きの中では讀賣の正力松太郎(1885~1969)の動きが傑出していて、その子分で、内外に人脈を保つ柴田秀年(1917~1986)なる人物などが「原子力平和利用懇談会」(1957)などを主宰していた。政治家関係では中曽根康弘が動くが、この人は核武装が念頭にあったと思う。(正力の「死の灰も平和利用できる」という言説もあったことは忘れるべきではない。) そういう中で、第五福龍丸の被曝事件を位置づける必要は昔も今もあろう。永井靖二さんが先頃『朝日新聞』にもう高齢になった乗組員の講演活動などについて記事を連名で書いていたが、細々と啓発活動はあるようである。ただ、いまも反原発を嫌い、原発ゼロを肯んじない政治家がいるが、こういう人達は日本が核武装するまで、矛を収めないだろう。
ずっと後になって、2007年頃か、アーサー・ビナード(Arthur
BINARD, 1967~)氏の 『ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸』(集英社)というベン・シャーンの日本語の絵本をアマゾンで買って読んで、非常に衝撃を受けた。第五福龍丸は被曝現場を離れ、焼津に辿り着くまで、賢くも無線通信を一切使わなかったということである。ビナードさんの書くところでは、もし美空軍に第五福龍丸の通信が傍受されたら、海域から遁走する第五福龍丸をUS Air Forceのジェット機によって撃沈、跡形もなく消されていただろうというのである。ミシガン生まれのビナード氏は古式な日本語も扱い、詩人、俳人であるが、アメリカ人のしそうなことは、日本人よりよく知っているというべきか。私は當時の不明を恥じた。
(1
March 2014)
XII-3: 淺田眞央選手のSPの失敗: ソチ・オリンピックが、パラリンピックを除いて、終わった。私は昔から体育系ではなく、いかなる競技も詳しくはルールを知らない。野球でさへ怪しいものだ。
アイススケートについても同じで、更々興味はない。ただ、不思議と淺田眞央選手のショートプログラム(SP)での不振は漏れ聴いて、だから本番のフリーの方はTVで夜中であったと思うが、見た。無事八回の三回轉半を終えて、彼女は上を向き涙を必死に堪えていた。足がふらつくので私は(採點の方法を知らないから、テレマークの失敗同様)減點されるのではないかと冷や冷やした。涙も流れたようだが、私はSPの失敗を悔しがっていると解釈したが、一般には無事ジャンプを済ませて満足感の涙とされた。後は笑顔になったが、兎に角、若いのにたいへんな試練だとも思った。2007年三月、16歳にして、世界選手権初出場で銀メダルを獲ったとき淺田選手は驚くべき発言をしている:「年をとっていくごとに涙もろくなっちゃって。昔は人前で泣くのはがまんしていたんですけど」(『朝日新聞』二月22日號の「淺田真央の歩み」から)。16歳でっせ。ソチの最後の演技が済んだ直後、NHKの杉浦友紀アナウンサー(このアナウンサーの出発はNHK福井放送局なので區別が着く)が画面に現れて目を真っ赤にして工藤三郎アナと喋っていたので、これはこれはと思っていたが、これを手始めに淺田選手の話題は何處のTVでも新聞でも話題の中心であった。例のワンフレーズ「感動した」の類が一般的で、これは数日續いた。唯一、森元首相の「転ぶ」発言は、顰蹙を買ったようだが、森氏はもう一言付け加えていたのにこれはネグられたようだ。あの人は口は軽いようだけれども、ラグビーで鍛えた体育系のカンはあるようで、彼がいみじくも言ったことは「団体戦に出すべきではなかった」という発言である。これは私は正論だと思った。
団体戦は今回の新種目ではなかったかと思うが、首脳部は単なる前哨戦ぐらいの気持ちではなかったかと思う。しかし、本人たちには重荷ではなかったか。私はあの七十二歳かの白髪のコーチは如何なる前歴・業績があろうともコーチとしてはオールラウンドではないと思う。眞央選手に必要なオールラウンドであるためには、年寄り過ぎる。彼はトリプル請負で、それを成功させるために、基礎的な一回轉動作を何度も繰り返し長く続けさせて、その動作を身に憶えさせ、定着させようとしたらしい。眞央選手が辟易して偶に二回転、三回転を跳ンで仕舞うことがあり、何度も叱られていたそうだが、それで三回転半に「転ばず」に済んだのだけど、もっと総合的なコーチをしなければならなかった、と思う。キム・ヨナ選手の場合、昔から練習時でも、まるで本番のように、演技に入る前からの、氷上に移るところの動作も含めて必ず行うように指導してきたと、韓国のコーチが言っているし、多分、毎日の滑りの何回かは、練習ではなく、本番だったのだろうと思う。もし、キム・ヨナ選手が団体戦に出ていれば、それは団体戦向きの相当な心構えと練習が必要であったろうから、ソチの本番での負担になった筈である。韓国は多分人員不足だろうか団体戦には參加していない。金メダルのソトニコワ選手も団体戦には出ていない。内実、この人は出たかったのだが、リプニツカヤという新星に席を奪われて、出場できなかったのが幸いした。ソトニコワは団体戦に落選したことが悔しくて、本番でリプニツカヤ以上にということで頑張ったらしい。淺田選手にはこうした起伏がなかったと思う。本番での金メダルが目的なのだから、こんな余計な俄(にわか)仕立ての団体戦は捨てるべきであったと、関係者は思わなかったのか。
兎にも角にも、淺田選手(以下Asとする)はショートプログラム(SP)で一位のキム・ヨナ(Kmとする)選手に20點からの差がついてしまったのである。一位のKm選手と二位のアデリア・ソトニコワ選手(Stとする)とはSPの総合得点で0.34の違いしかない。それが20點ともなれば、これはもう挽回できない差だから、かねてより表明している金メダルを狙うなら総合コーチはSPを甘く見るべきではなかった筈である。多くは氷上では精神的なものが支配するであろうから、コーチは何時も心理的にも全体を把握しなければならない筈である。
審査ではコンパルソリー由来の「技術點」というのがあり、例えばSPでは三人とも3F(Fはフリップ)と云うのを跳んでいるが、
Km 基礎點5.30 GOE 1.10で合計 6.40
St 5.30 1.20 6.50 なのに對し、眞央選手は
As
3.70 -0.70 3.00
でしかない、3FもAsさんだけは3F<となっていて、この<印は回転不足で30%の減点となる由。要するにこうした項目が七項目あり、「技術点」だけでキム39.03 ソトニコワ 39.09 淺田 22.63で、既に16點ほどの差がついてしまっている。なおGOEは「出来栄え評価」點らしい。淺田はジャンプのGOEはすべてマイナスである。彼女はSPをまともな心境では迎えていなかったことは明らかである。そして、転倒で1點減點されている。なお、「演技構成點」というのがあり、これは三人然程差がない。
スケーティング技術 Km: 9.04、 St: 8.82、 As: 8.57、
表 現 力
Km: 9.11、
St: 9.11、
As: 8.14
振り付け
Km: 8.89、
St: 8.89、
As: 8.64
音楽の解釋
Km: 9.21、
St: 9.04、
As: 8.71
あと二項目があるが、略して、「演技構成點」の合計は Km:
35.89 St: 35.55 As: 33.88. なお、「演技構成點」が最も好かったのはイタリアのカロリナ・コストナーで36.67であった。表現力が9.36、音楽の解釋は9.39で矢張り高い。コストナーの振り付けは眞央と同じ、ローリー・ニコルさんで、私は見ていないが、曲は「ユモレスク」あたりであったようだ。 私はローリー振り付け師がAsを指導している映像をみたことがあるが、(これは何時の映像かわからないが) 低い姿勢から入り、大振りの滑りに移ってゆく手本を見せているもので、實に優雅であったが、それを真似する真央選手には、その優雅さが出ていない。これは最後まで駄目だったのではないか。恐らく、氷上に落ちてきたぬいぐるみ人形も、もっと優雅にローリー風に拾い上げねばならなかったのだと思う。曲をノクターンとするのも、一寸氣になる。よく知られた曲は新鮮味に欠ける。「音楽の解釋」に1點以上も差が附いている。表現力にも1點の差だ。
扨て、本番のフリーではAs選手はトリプルを多用して、しかも完璧であったと日本では解釋されるが、確かに「技術点」ではKm選手はAs選手よりも迫力が無く、Km: 69.69に対してAs:
73.03と高い。然し、動きの好いSt選手は75.54を獲っている。2A-3T
(Aはアクセル、Tはトール−プ)ではSt選手は9.94
であるのに対し、As選手は回転不足<付きで6.96でしかない。勿論3F-2Lo-2LoではAsさんは10.59で抜きん出ていて、Stさんは3F-2T-2Loと落として、8.34でしかないし、Km選手はこれを選択していないように思う。ほかに3S(Sはサルコー)はStが5.82、Kmが5.52、Asが5.02と低くなっている。Asさんの場合、出来栄え評価(GOE)の多くが0點台(0.xx)で、StさんもKmさんも1點台(1.xx)を保っている。實際、解説の元スケート選手の八木沼純子さんが、リプレイのスロー画面でAsさんの幾つかの着氷を見て、幾らか危惧していたが、Asさんは三回転半を無事跳んだ様に見えたといえども、幾つか完璧ではなかったのだと思う。
最終的に St:76.64+149.95、Km:74.92+144.19、As:55.51+142.71となって、アデリナ・ソトニコワ選手が金メダル、キム・ヨナ選手は惜しくも二連覇はならず、銀メダルであった。ソトニコワは力強い演技であったが、一時われわれでも判るふらつきがあって、この點は後で、韓國側から指摘・抗議が出たが、キム・ヨナ選手は最終の點が出たとき、寧ろ笑顔で、さばさばとしていた。作家の高橋源一郎も見たらしく、『朝日新聞』二月27日號に次のように書いている:「テレビをつけた。最後に滑り終わったフィギュアスケートのキム・ヨナ選手が、結果を待っているシーンだった。銀メダルなのがわかった瞬間、落胆の表情を浮かべる周囲の関係者と異なり、この試合で引退を表明しているという彼女は安堵の微笑みを浮かべたように見えた。その後、わたしは、彼女の口から洩れることばを追った。採点に不満はないのか、と問いかけた自国のメディアに、彼女は・・・・なんの未練もないといい、又ライバルとして淺田眞央をあげた。「淺田は日本で、私は韓国で最も注目を浴びたフィギュア選手という共通点がある。その選手の心情を私も理解できると思う。淺田が泣きそうなときは、私もこみ上げてくる」と言ったらしい。この後半の引用はInternetに依っていて、源一郎氏はURLを擧げている(源一郎氏の記事は「論壇時評」の幅廣い論評で、ここで引用するのはその一部)。『聯合報』のニュースらしい。この話は『赤旗』日曜版の三月2日號にも同じように採り上げられ、赤旗記者の手で引用されている。但し前半があって、キム・ヨナ選手は「(眞央選手には)大変なことがたくさんあったと思う。 ・・・・長い間比較もされ、競争もした。もうそのような競争はしなくなる。私たちのように比較され続け、共に競技した選手は多分他にいないだろう。」
最後に、いま一つ比較して申し訳ないが、フリーの「演技構成點」のうち、「音楽の解釋」ではKm選手は9.57と高く、St:9.43をも凌ぎ、Asさんの8.86を押さえている事に注目する。As選手はラフマニノフのピアノ協奏曲の二番を使った。實はこれまで可成りの選手がラフマニノフを採用しているらしいが、この曲では金メダルが獲れていないようで、ラフマニノフはジンクスとしてexplicitに知られているようだ。私は高橋大輔選手が、どこかの選手権でこれを使い、成功した場面をさっきYouTubeで見たが、この名曲もスケートの前では何とも陰気臭く感じた。ラフマニノフは精神的に弱いところがあった人で、神経衰弱や鬱病に惱まされた時期があり、ピアノ協奏曲第二番はそれから脱したときの成功例なのだが、色濃くそうした背景を醸している。私はAsさんの場合、選曲の失敗だと思う。あの曲に練習のたびに支配されていると、どうにかならないかと心配する。奇しくも、本日6日三舩優子さんが群馬音楽センターでこの曲を演奏するとFBに出ていたが、淺田眞央の演技に触れて、この曲は「弾くたびにピアニストになって良かったと心から想う名曲です」と述懐している。多分、この難曲を簡単に弾くひとには影響はないのだろう。
(6
March 2014)
XIII-4: アストル・ピアソラ Adios Nonino: では 最後に、キム・ヨナ選手採用の曲とその演技姿をYouTubeで引用する。選ばれているのは(スケート界ではこれも初めてではないのだが)、ピアソラ(1921-1992)の初期のタンゴで、アディオス・ノニーノ(お父さん、さようなら)である。ヨナ選手の演技終了の最後の方にはヨナ選手が銀メダルに終わった瞬間の映像が入って居る。高橋源一郎氏が見たという場面である。では、ヨナ選手のsuperbで優雅な演技をご覧頂下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=hgXKJvTVW9g
原曲になるかどうは判らないが、實際にピアソロとその仲間が演奏したAdios Noninoを次にYouTubeから選ぶ。ピアソラはこの『夜毎餘言』で以前採り上げたが、バンドネオンを操っている奏者である。私に印象深い人物はヴァイオリン奏者(Fernando
Suarez Pazという名前)で、何かインカの後裔のような人だが、これまでもピアソラの横でヴァイオリンを奏でている。額に皺を寄せて何とも悲しげに弾く。ピアソラは多分1980年代頃パリなどで好く流行ったと、當時パリで勉強していた友人から聞いている。これは1985年にオランダのユトレヒトで演奏されたものの影像である:
https://www.youtube.com/watch?v=wqSxwWgpE6A
序でに、もう少し大がかりな演奏をどうぞ:
https://www.youtube.com/watch?v=VTPec8z5vdY
(7 March 2014)
(あとがき) 前々から氣にはなっていたが、YouTubeには怪しからん映像が仰山入っているようで、右翼系のものはどれも詰まらない嫌なものばかりである。所謂ネトウヨ(ネット右翼?)なのか。今回Kim Yunaさんの映像は可成り見たが、中に日本の所謂他民族排除のヘート・スピーチに相当するものが紛れ込んでいて吃驚する。