或OAA火星課OBの『夜毎餘言』-その VII
南
政 次
CMO/ISMO #414 (25 September 2013)
VII-1. 痛恨! 村山先生の訃報:
八月13日は前回報告のように、次男夫婦とHHFに出掛けていた。從って、近内令一さんからの村山先生の訃報はその夜讀んだことになる。私はもう一度村山先生にお會いしたいと思っていたし、何故か可能だと信じ切っていた。問題は私の健康だけだと思っていたところがある。
2009年に村上昌己さんと二日間に亙り、港區愛宕の森ビルのご自宅でお話を伺ったときの村山先生は、半身が2003年の腦梗塞の爲ご不自由ではあったが、お話ぶりも、記憶も冴えていて、まだまだお元氣と私の弱い腦は判斷してしまったのであろう。私は計算が弱く、うっかり村山先生は今も八十歳代前半と勘違いしていたのである。實際、享年が八十九歳と伺って、どうして私はのんびりしていたのだろうと後悔した。2009年のお話はそのままパリのIWCMOでご紹介したのであるが、歸って直ぐにでもご報告にお伺いすべきであったと思う。勿論emailではお傳へしているし、お世話になりました、という先生のお返事も頂いていたが、私は未だ時間はあると思っていたところがある。その内、emailが通じなくなって、ご入院の様子も仄聞していたが、それでも快復されて以前のようにお話が伺えると思っていた節が私の中にはあったのである。自分の健康が思わしくないこともあって、判斷が悪い儘、ずるずると機會を逸してしまうことになった。
村山先生は1924年の火星大接近時のお生まれであって、私は1939年の大接近時の生まれだから、火星一囘り十五歳違う。このことはよく知っているつもりであったが、肝心なときに働かなかった。
私は村山先生の直弟子ではない。近内令一さんのように國立科學博物館に入り浸りという幸運にも惠まれず、實は科學博物館を訪れたこともなく、有名な20cm屈折も覗いて居ない。架臺が頑丈だったということすら確かめては居ない。
私が最初に村山先生にお目に掛かったのは、1954年の富山でのOAA總會であった。私は未だ15歳で、サイエンスクラブの一年先輩花山豪さんと二人で福井から鈍行で出掛けたのである。總會といっても、雛壇に相當するところに陣取っていられるOAA幹部の方々と同數の會員がこちら側に居るだけのこぢんまりした會で、ただ山本一清會長が、上機嫌であったという印象が殘る。尤も、私が憶えている出席者は、他には木邊さん、佐伯恆夫先生、村山先生ぐらいで、ただ、富山の世話人をなさっていた方が、津田と仰有るご老人だったということは鮮明である。佐伯先生とも、もう何度かお葉書を頂いていたと思うが、ひょっとすると初對面だったかもしれない。大阪の電氣科學館で何回かお目に掛かっているので、好く判斷が出來ない。このとき、私は佐伯先生に火星のスケッチをお見せしたのに對し、ソリス・ラクスの南のアムブロシアの濃化を私が捉えていると指摘されたことは憶えている。自己紹介のとき私は1939年の大接近の年の生まれだから火星觀測をやりたいと言ったと思う。木邊さんがこのとき破顔されたが、村山先生はむっつりとされていた。村山先生は時々八ミリ映冩機で會場を撮られていたから、案外、齢15の私も冩っていたかも知れないと思っている。
改めて、村山先生も參加していた誠文堂新光社の『天文年鑑』1954年版を出して火星項を讀んでみた。私の過去の印象では29歳の村山定男氏の文章は好く行き届いて、上手いなぁという記憶があったのであるが、よく見るとどの項にも書き手の名前がない。隕石の處は確かに村山先生という刻印らしい一行があるが、火星項では「そこでこの夏におこる著しい接近を大接近などとよぶわけである」などという文言には違和感がある。實は1953年版の『天文年鑑』火星項は「今年は火星の外れ年である」で始まり、外れ年にしては矢鱈長く、四頁も費やしている。「年初の位置は水がめ座の中程で光度は+1.2等、視直徑は5.4”程であるから・・・・望遠鏡で見てもしごくつまらない」などという村上昌己氏流の文言は何か鈴木敬信氏を思わせる。但し、敬信氏ならば、視半徑と書くだろうから、矢張り定男氏かとも思える。というようなわけで、鈴木氏の資料に據って村山先生がなぞったということであろうかとも考えられないこともないが、釋然としない。「なお、1950年の接近の時に佐伯氏が発見して『火星の爆発?』などとさわがれた灰色の雲に類似したものが、今年もやはり火星面の南極附近に佐伯氏や、東京の海老沢氏、筆者などによって数回にわたってみとめられた」というのがあり、「筆者」とは村山氏のことと考えるのが自然であるが、20cm鏡を持っていた敬信氏でも不可能ではないか、などと私は迷うのである(このエピソードは、後述エピソードと關係する)。尚、ここで「今年」とあるのは1952年のことであって、原稿が早々と書かれていたというのは、村山先生には似つかわしくない。
この1954年には『子供の科学』で「火星、15年ぶりの大接近!」という102頁のスケッチや冩眞滿載の別冊が出たが、これには全部署名入りで、村山先生は「火星世界の物理的性質」や「火星にいる生物」などの記事を單獨でお書きになっている。當時の最前線を網羅したお話であるが、殘念ながら私はキチンと讀んでいなかったと思う。大氣の主成分とか、氣壓の問題とか、火星世界の温度などが擧げられているが、私にはこうした値は早晩變わるものだという意識があって、今でもこうしたことは書きたくない部類に入る。ただ、村山先生は當時の状況を好く精査されていると思う。
扨て、村山先生に親しくお目に掛かって面と向かって會話したのは、いつか忘れたが、京都会館で開催されたOAA總會だったと思う。このときは中島
孝(Nj)氏も偶々京都に立ち寄っていて、共々一緒に村山先生にご挨拶出來たわけである。ただ、何のお話を伺ったか憶えがないのであるが、村山先生のお側で小山ひさ子さんがにこやかにされていたのは好く憶えている。京都での總會はこれより以前に伏見深草の青少年科學館でも行われているが、これは大きな會で、私は宇宙物理の學生さんと會計をやり、計算が合わなくて、あたふたしていたものだから、どなたにもご挨拶していないと思う。計算が合わないというのは、好くあることです、と後で藪保男理事長が慰めてくれた。
OAAでもう一つ憶えているのは1985年ではないかと思うが、明石で行われた總會である。このときは臺北の蔡章獻さんがOAA賞を貰ったときで、私は1986年に臺灣に出掛けることになっていたから、ご挨拶がてら出掛けた。蔡章獻臺長の壇上の挨拶は立派な日本語で、相當手を入れられていると思ったが、後で、圓山天文臺に行ってから確かめるも、蔡さんは話を外された。この懇親會で村山先生は雙眼アイピースの話をされた。ところが、その直後の佐伯恆夫先生も雙眼アイピースの話を持ち出された。後になって、佐伯氏に、あのとき張り合っておいででしたね、と言ったら、そんな話、村山君の獨占じゃあらへんからな、というような返答であった。
村山先生は『火星通信』を讀んで下さっていたと思う。南さんは怖い人だから、と言いながらも、1994年の福井でのOAA總會前後の行事においで下さった。總會に先だって、八月6日の午後、マチネーとして福井市自然史博物館での公開講演會で渡部潤一氏のお話の後、村山先生は隕石と太陽系の起源との關聯を一時間半にわたって話された。酷暑の中、一般聴衆も含めて100名以上が熱心にレクチャーホールに詰めた。博物館の展示場では村山先生秘蔵の隕石群や、1956年の大黄雲の冩眞などが披露されていた。總會は翌7日に福井市のフェニックス・プラザで開催され、村山先生には司會などをお願いした。OAA賞は佐伯恆夫先生であったが、欠席されたので、村山先生が代行され賞状など受けられた。授與する當時の會長は坂上努氏であった。夕方の懇親會もここで行われた。その後、村山先生にCMOの仲間の爲に一席お言葉を頂く手筈で、お泊まりになるホテルのロビーでもと思っていたが、福井市自然史博物館へお越し頂けることになった。前日からNj氏や西田昭徳(Ns)氏は送迎でたいへんであったが、7日は福井市の花火大會が同時進行になり、單獨行の皆さんも含めて苦勞されたと思う。ドームでは木星を20cm屈折に入れたが、間髪を置かず、村山先生が到着された。直ぐに木星をご覧頂いたが、暫く覗かれた後、この20cmは好く見えるね、と洩らされた。同じお褒めを後年、ビル・シーハン氏からも聞いた。シーハン氏は何度も覗きにドームに戻っている。
花火その他が一段落したあと、村山先生の講話をレクチャールームで頂戴することが出來た。當時村山先生は70歳であったから、前日の講話と總會・懇親會でお疲れだろうと思ったが、話すときは椅子を使わず、立ったままの方が好いと仰有り、起立したままお話になった。このとき判ったのだが、村山先生は明らかに木星より火星の方が好きで、關心も火星の方に多くおありという點で、實際、火星の話では少しヴォルテージが揚がるような氣がした。私は、若い人で木星をやる人は多いけれども、火星は少ないのは何故でしょうか、とお訊ねしたが、木星にはCMTなど直ぐ數値化出來ることが多く、それで集まるでしょうというお應えであった。このとき、村山先生は、2003年に向けて、これまでの自己の選り抜きの火星のスケッチ千枚を集めて出版したいというお話もされた。これは何處まで準備が進んでいたか判らないが、駄目だったのではないかと思う。多分お手傳いする人手が必要だけれども、當時はもうそこまで斟酌する取り巻きがお近くに居なかったのだろうと思う。
この夜は22:30頃にお開きとし、村山氏をはじめ會長や山口先生など諸先生をNj氏やNs氏がホテルまで送った。その後、天文臺では火星待ちということになり、幸い空も晴れて來て、朝方、私もこのシーズン最初のスケッチをした。私は當時55歳で、定年まで未だ8年程あった時であるが、富山のOAAの時から40年經っていた譯である。來年が來れば、更にこの時から20年である。富山に同道した花山豪先輩は、大學は東京へ出たから、科學館で村山先生とは何度も接觸されていると思う。福井の大會のときは、福井市の収入役であったと思うし、村山先生を含め、市の客人の夕方の接待など、私はCMO關係で忙しくしていたので、失禮していたが、花山さんは村山先生を好く持て成した筈と思う。
尚、1994年眞夏の夜の夢物語はCMO #148 (25 August 1994)で報告したが、Web登場は未だである。
私はその後2003年大接近の前に、村山先生に火星に關して私が聞き手になってインタヴューしたいとお手紙した。これは實現しなかったが、問題は本屋であった。私は深く事情は知らないが、この時の村山先生は誠文堂新光社をひどく嫌っておいでであった。理由も含め、また代替案も書かれた長いお手紙を複數囘頂いた。殘念ながら、整理の悪い私はいまそれらのお手紙が何處にあるか判らないので、これ以上、書けない。
2009年の會見はスムーズに實現したように思う。1909年九月20日がアントニアヂのムドンの大望遠鏡での革新的な素晴らしい火星像を得た(觀た)日ということで、これを紀念し、既に一年以上も前からシーハン氏やフランス側と交渉し、パリ/ムドンで百年祭を開催しようという提案は受け入れられ、フランス側のニコラ・ビヴェール氏がIWCMOと名附け、大方は決まっていたので、私は二つ話すことにし、一つは日本の火星觀測の歷史を紐解く爲に、技法がアントニアヂに近いSadao MURAYAMA氏を芯として話を構成するつもりで、資料集め旁々、面會を申し入れた譯であった。ついては村上昌己(Mk)氏に書記かたがた同伴して貰い、私は東京に不案内な以上、道案内もお願いすることになった。連日となると矢張り連休を使わなければならないので、五月の連休となったが、村山先生はこちらの希望を總て受け入れて下さったように思う。尤も、私も既に齢70歳で、狹心症と不整脈に惱まされていたから、長期計畫は難しいのであるが、お陰様で九月のIWCMOに關してもほぼ滿足の行く成り行きであった。懸案の近内令一さんの紹介もムドンで行えた。既に渡佛前の七月には福井大學醫學部病院に二週間入院し、不整脈退治のアブレーションを受けたのが好かったと思う。そうでなかったらムドンのあの坂道は無理であったと思う。但し、當時、私の眼は白内障に罹っていたが、これの手術は後回しになった。
村山先生には五月4日と5日の午後お會いすることになり、Mk氏にどこをどう案内されたのか憶えがないが、未だ不整脈のある状態で、地下鉄駅からの外の歩きは私には辛かったが、居心地のよいお部屋に到達し、一つひとつ、お話を伺ったのは愉しいことであった。冩眞のスキャンなどMk氏が手際よく捌いてくれた。途中にはコーヒーブレークがあり、村山先生がお電話するとお揃い姿の若い女性が二人現れ、白いカップに美味しいコーヒを目の前で點てくれた。ケーキも頂いたように思う。村山先生は美味しそうに賞味されていたのを憶えている。改めて當時の村山先生の冩眞を拝見すると、外見には往事の輝きは無かったというべきだろうが、動作も適宜で村山先生の言葉や記憶は鮮明で適切であった。
最後の二日目が終わって、玄関でのお別れの時は、村山先生とは未だお逢い出來ると思って居た所爲か、滿足感の他は特別な感情もなく辞去した。あとで村山先生はお疲れになったかも知れないと思ったが、そういうご様子は受けなかった。
われわれは横浜駅の近くで常間地ひとみ(Ts)さんと落ち合い、Mk氏共々何か有名な樓で中華料理をご馳走になった。村山先生は鷹羽狩行門下の俳人片山由美子氏に師事されて、俳句を嗜まれていて、數句メモして來ていたので(村山先生は全部諳んじていられた)、Tsさんに披露し、その場で解釋をお願いした。他に、村山家は曹洞宗の檀家で、森ビルの近くの曹洞宗松寺に話が及んだとき、永平寺の先の貫首、宮崎奕保(えきほ)禪師に直接お會いになったという話をされた。私が最初、總持寺系ですかと、訊いたものだから、いやいやと強く否定されて、永平寺です、と仰有った譯である。
一方、毒舌も盛んで、吃驚したのは海老澤嗣郎氏へのキツイ非難であった。どこそこで最後に出會したが、あんな奴はもう見たくもないというような調子であった。先に村山先生は『火星通信』をご覧になっていたらしいと書いたが、實は海老澤さんが見ても居ないことの裏返しである。『火星通信』が1986年發刊された當時、淺田正(As)氏が海老澤氏に數號献呈したが、アマチュアのものは讀まないとかで、送り返されたか、少なくとも拒絶されて、温厚なAs氏が立腹したという旨の話を臺北へ淺田さんが傳えて來ていた。腹を立てたAs氏は、淺田が何者かを示すために、木星に關する彼の英文の博士論文か何かの別刷を送りつけたらしい。相手がお見逸れしたという事以外、更にどう言ったのか忘れて仕舞ったが、『火星通信』に對する謝罪はなかったらしい。
當然、村山氏の佐伯恆夫さんに對する言葉にも、もう時効ということで、トゲがあったと思う。佐伯氏の英文のことはこちらが話題にもしないのに、鼻で笑うところがあったし、先に觸れた灰色雲についての言及では、ちょっとしたことを大袈裟に言うという感じであった。
扨て、長く書きすぎたが、上のように村山先生を軸に振り返ると、10年、20年、40年というのもアッと言う間のことであった氣がする。村山先生は私にとっては距離のある存在だった所爲もあり、その時々は私には一入である。今になっても最後のご無沙汰は殘念であるが、今となっては慎んでご冥福をお祈りするばかりである。
尚、2009年にスキャンさせて頂いた冩眞やスケッチの主要な部分は次のサイトに入っている。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn5/2009Paris_Meudon_Talks_Mn1.htm
(18 September 2013)
II-2. 記憶力減退と眼の問題:記憶が悪いのは、今に始まったことではないが、最近は一寸した日附や曜日、上手く思い描いたことなども直ぐに忘れて、再び調べ直さなくてはならないことが多くなった。例えば、貰った薬をインターネットで調べようと思って、名稱を思い出すのだが、パソコンの前に座るとハテと出てこない、といった状況である。私は昔から訥辯だが、早口のひとが今も羨ましい。喋りに關しては明らかに惱の血の巡りが悪いし、それが倍加している(その上、循環器内科のお醫者には、南さんは「血の氣が多い」と言われる。これは内科醫師として仰有っている譯だが、私には二重に聞こえる。内科患者としては、村山先生よりワーファリンの量はかなり多い)。最近は明日の預定も覺束ないので、家内にすべてョんでいる。診察の時も随伴である。主治醫の仰有ることも、みな家内任せで聞いている。
眼は相變わらずである。獨り暮らしのあと、久しぶりに井大病院の眼科へ行ったが、右眼の視力は少し快復しているらしいが、何かの間違いであろうと思う。一寸見には見えるが暫くすると黴が落ちてくる。來月は視野狹窄かどうか診てくれるらしい。いままで捨てていた左眼を働かせざるを得ない状態だが、左右の倍率が違うようになってしまったので、合成像に苦勞する。文章は左眼で何とか讀めるものの、ccdの火星像を讀むのさえ變形が入って難しい(黄斑變性)。最近フト、火星のビームに長年眼を晒したのは眼に好くなかったのでは、と思うことがあるが、だれも證明は出來ないでしょうな。
一點、最近パソコンのブルーライトが好くないというので、少しアンバー系の色合いをした被せ眼鏡を使うようになった。但し、これは内科の醫師に勧められたことである。
VII-3. Chopin Changed My Life:何日だったか忘れたが、今月に入ってNHKのBS1の例の、というのはオリヴァー・ストーンの十聯作と同じ夜中の時間帶にChopin Changed My Lifeというドキュメンタリー番組を見た。私の體調が好くなかったので、筋書きは確かでないのだが、ポール某というピアノや作曲志望のグラスゴーの學生が腦の病氣によって記憶を失うばかりになってしまい、好きだったショパンのバラード第一番ト短調も消え失せてしまうのだが、實はこの曲を聴き續けることによって次第に記憶も快復し、左手だけで、このバラードを彈けるようになったというのである。左手だけで彈く爲に右手の音符を左手用に移す作業などをやっていた。實際だろうと思うが、指導を受けた部屋の窓からはロイヤル・アルバート・ホールが見えていたので、インペリアル・カレッジに隣接するロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージックだろうと思う。ポールが何か喋った記憶はないのだが、ここの教師は綺麗なブリティッシュ・イングリッシュを喋っていた。バラード第一番作品23の特徴については、ランランやアシュケナージが番組の中で喋っていた。この曲にはどういう不思議な力があるかということである。但し、主導は同性愛者スティーヴン・ハウがやっていた。最終的にはポールは左手の演奏を知人達の前で披露するが、番組の最後ではハウがバラードを彈く。
ただ、このドキュメンタリーにはもう一つこの曲に絡む日本の東日本震災を生き延びた少女のバラード一番による再生の話もあるのだが、日本人の私には作り物めいて見えて、感心しなかった。
ショパンのバラードとスケルツォは私の臺灣時代の「霽れ晴れ歌」であったことは前に書いた。例えば、CMO #325 (25 November 2006) 廿年如一日(四) p.Ser2-0511に輯録している。次のサイトにある。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/CMO325.pdf
なお、實際に當時臺北でヘッドフォーンで聴いていたのはアルトゥール・ルービンシュタイン(1887~1982)の録音であったから、YouTubeも
http://www.youtube.com/watch?v=t1zZ4g2aieg&feature=player_detailpage#t=29
を擧げておく。尚、晩年のルービンシュタインがこの曲を若者に教えている珍しいYouTubeがあるので、紹介して擱く。
http://www.youtube.com/watch?v=TlBmdNm3uhc (Part I)
http://www.youtube.com/watch?v=zsIBf19JlIc (Part II)
(20 September 2013)
VII-4. ワンコイン-オルガンコンサート: 土曜日の九月21日の午後、ハーモニーホール・フクイでワンコイン(500圓玉一個)コンサートがあったので、家内の運轉で出掛けた。幸い目眩は起こらなかった。女性ばかり五人の出演で、纏まっていて好感が持てた。バッハ、シュトラウス、ドビュッシー、ホルスト、ラヴェルなどの5%名曲ばかりだから、子供からお年寄りまで集まっていた。パイプオルガンの小清水桃子さんという方はフェリスから來てくれていたらしいけど、奏者臺は遙か上の方だし、演奏中は終始向こうを向いているから好く憶えない。最初、眼のご不自由な鈴木加奈子さんというトロンボーン奏者もオルガンの處まで昇って高いところからアリアを合奏したのはファンファーレみたいで好いアイデアだったと思う。何故か盲導犬を同伴されなかったのは、殘念であった。私はマリンバが氣に入った。奏者は平岡愛子という福井の人らしいけど、鈴木さんをよくサポートしていた。彼女の曲目は、エマニュエル・セジュルネ(Séjourné)のマリンバ・コンチェルトの第二樂章で、左右に好く動く。YouTubeにはこの樂章は頻繁に採り上げられているけど、ここではマリアンナ・ベドナルスカの演奏の中から次を選ぶ。この曲は後半から氣分が換わるので、我慢して聴かれたい。
http://www.youtube.com/watch?v=R8IrEg-eHlM
ソプラノの川崎美砂子というかたも福井の人であったが、優秀で絶好調と思った。われわれは前から四列目に陣取って拝聴した。面白かったのは、最後全員五人でボレロをやったのだが、パイプオルガンはもとよりソプラノもパートを持っていたことである。聲を出し終わって川崎さんは、喉を撫でながら、同僚に何事か喋っていた。なお、企畵はナビゲーターを務めた高橋かほるという人であったと思うが、好い構成であったと思う。福井大學出身で、今は私學の現役の高校教師のようだが、元福井大學の音樂の教授だった松濱敏郎さんから後で家内が訊いたところでは、福井縣の採用試験で何度か落とされたという。縣が馬鹿なのはNj氏などから好く聞く話だが、こうやって活躍の場を保っているのは慶賀すべきことだと思う。彼女はpfを受け持ったが、但し、このピアノ自身は音が悪い。
(23 September 2013)