或OAA火星課OBの『夜毎餘言』-その VI
南 政 次
CMO/ISMO #413 (25 August 2013)
VI-1.
漸く獨り暮らし終わり:
突如一ヶ月間獨り暮らし、の理由は前回述べた。家内が股關節の再手術を受けて、入院が一ヶ月となり、未だ休養快復が必要のようだが、今日(八月23日)退院となった。その一ヶ月の間、私の方は運轉禁止で外食が出來ない状況なので月〜金は宅食で濟まし、土日はケアハウスの様なところに宿泊することになった、ことは前回述べた通りである。建物は新しいが、部屋はベッドと冷房、それに洗面臺だけで、ハンガーもなく、洗面臺の廻りにタオルを掛けるところもない、という有様で、ドアには鍵が附いていたので、閉めて寝たら翌日叱られた。夜中の見回りがあるらしい。お年寄りと病人許りだから、靜かな筈であるが、一部介護士さんの聲が大きく響いて、而も相手が相手だから繰り返しが入り、氣にはなる。ただ、私の親しくなった九十歳の老婦人は福井市からの入所で、車椅子であるが、記憶の方は私より優れていたと思う。話の種があるというか、お喋りをし、食事の時は同じテーブルで頂いた。
パソコンの無線ランはemailとInternetに關しては最初から快調であった。打つのは『火星通信』關係記事許りであったが、幾らか捗った。ただ、持ち込んだパソコンがパリまで持ち運びした小型だから、自然畫面が小さく眼には疲れが來たと思う。以前は『火星通信』の編集にも使ったことがあるが、今度(CMO#413)は原稿書きだけで、編集は家の大きな畫面でやっとの思いで濟ませた。
尚、月〜土の午前には、坂井地區の生協の「助け合い」の皆さんに入れ替わり立ち替わり様子見や猫の世話などを一時間だけお願い出來、正直助かった。事前には、皆さんで私が倒れていたときはどうするか、の相談まであったが、幸い私は用心していたから無事であった。ただ一回玄關で重いものを持って倒れたときがあるが、鉢を壊しただけで私は無事であった(右腕に打ち身が二カ所あるが、何時そうなったか憶えがない。アレッ、右手の一方の痣が消え、今度は左の手の甲に出ているゾ)。一ヶ月というのは當事者になってみると長いもので、仕舞いには猫たちが猫缶の餌に飽きてしまい、食べなくなったのには參った。
唯一、週日の八月13日、14日には家内監督から外出の許可が出た。盆で次男夫婦が東京(近郊)から歸って來てくれたからである。次男夫妻と私の三人が13日にハーモニー・ホール・フクイの演奏會へ行き(後述)、夕食は久しぶりに三國のTomato
& Onionで攝った(前回の家内の手術入院の時は毎日の如くここで食事した。此處へはCMOの常聯と入ったこともある)。14日には家内を福井の病院まで初めて見舞った後、夕食には次の私の母親の法事の會場探査も兼ねて安島のレストランへ行った。次男を横に乗せて、運轉も試してみたかったが、時間がなかったのは殘念であった。同様に、未だ散歩する機會もなく、どれだけ體力が落ちているか今は判斷が出來ない。
VI-2. 中 島
孝氏來訪:七月26日に中 島 孝氏(以下 Nj氏とする)から大きなA4封筒にワープロ文とメモの入った郵便が届いた。Nj氏とは昨年の四月以來、お互いほぼ音信不通で、理由は兩方とも同じ頃に倒れたからである。私は一時人事不省、彼の場合は糖尿病で身動きが出來なくなったと聞いていた。彼はemailをやらないし、私も運轉出來なくなっていたし、自然彼の状況が分からなくなっていたのである。ただ、パーキンソン病に關して私の通っている福井の大瀧東クリニックの宮地先生は彼の巧い話に乗って選んだという經緯があったし、大まかには彼の状況が分かっていたから、電話でやりとりしたのだろうか。彼の文面を讀んで直ぐに『火星通信』八月號のWebに載せることを決め、村上昌己氏(以下Mk氏とする)にemailで、斯く斯く然々だから、Nj氏に、文面の入ったフロッピーディスクかUSBを三國の私宛に送るよう、依ョのワープロをし、印刷して福井のNj氏に送るよう、ややこしいお願いした。こうした面倒なことをMk氏に依ョするのは最近屢々起こっている。私が印刷すれば好いことだが、私のプリンターは多分うまく動かないし、肉筆では書けないし、書けたとしても家内の留守中はポストまで歩くことは禁止なのである。
ところが、八月8日に玄關のチャイムを鳴らす人がいて、出てみると、ナント久しぶりのNj氏であった。少し老けて痩せて見えたが、それはお互い様である。USBを持參してくれたのだが、郵便を使わず直接現れるとは思いもしなかった。彼は身内に「えちぜん鐵道」(舊京福電鐵)の西福井駅まで車で送って貰い、あと電車で三國駅まで來て、駅から坂道を登って辿り着いたらしい。駅から25分掛かった由であった。その昔、福井の天文臺から三國病院まで彼の猛スピード運轉の車で18分程で着いたことがあるから、エライ違いである。彼の毒舌紛いの話術は健在で、話は随分と彈んだが、少し疲れたと言って明るい内に彼は歸路についた。雨は降っていなかったが、蝙蝠傘を杖代わりにしていたと思う。彼の最近の状況は、直接この號の彼の手記をご覧頂きたい。左の冩眞は歸り際に玄關で二人一緒に納まろうと、私が右手を延ばしてシャッターを切ったが、私は左のウロンな眼しか入らなかったものである。二枚撮ったが、前と同じいで、Nj氏がちゃんと冩っているからイイヤと諦めた。
後でNj氏が突然三國に現れたと聞いて、Mk氏もあの坂道を!と言って魂消ていた。尤も既に文面で、この一年以上、晴雨に拘わらず、毎日60分歩いているということだし、息も切らさず辿り着いていたから、生活習慣病を克服しつつあるかと思われた。就寝、起床、食事などの生活時間も嚴密に守っていて、これは續けないと無に歸するそうだから、今後はNj氏は觀測は止した方が好いだろうねと話し合った。彼は静かだが昔から思い切りの好い人である。足羽山の天邊のドームのそのまた頂點に出たという話を覺えているし(私は高所恐怖症で回轉ドームの根元に上がっただけでも震えが來る。低いといえども地上100mである)、昔の福井の水害の時、怪しげな筏に乗って東別院から私の家まで祖父に辨當を届けてくれたことがある。いま思うと、東別院(ここから南は水害が及ばなかった)で何故Nj氏と出會ったか思い出せない。
Nj氏と私は同じ1939年生まれだが、彼の學年は一年下で、光陽中學のサイエンス・クラブで一緒、以來の附き合いである。彼は、大學は文科系に進み、福井で教職に就いた。私は彼の教える教室に押しかけ、逆に喋らされた記憶がある。彼の本職は英語教師で、腹式呼吸が出來、言語學を修得しているから、發音は五月蠅い。手記で「パーキンスン」と書いているのは、彼の拘りだが、同じくsomeの發音もわれわれとは違う。
先の中學校の「サイエンス・クラブ」はNj氏の代から、「天文クラブ」か「天文部」に變わった筈である。後で、先輩達から文句が出たが、實は生徒會で、何故サイエンス・クラブは天文しかやらないのかと詰問されることが屢々で、改名案はその頃から出ていた。他にグリッドキャップ・クラブという電波専門のクラブとの合倂案もあった様に思うが、どのみち、サイエンス全般に亙る譯はなかったのである。
この中學校は私達の頃は田圃の眞ン中にあったが、今や住宅家屋や商店に取り巻かれている。當時、幾らか自由に、夜もサイエンス・クラブは理科室や校庭での活動を許されていたが、今は光害もあり、宿直の教師も居ないから私達の頃の勝手氣儘な觀測は無理だろう。私達の當時、五藤光學の口徑58mmウラヌス號はペルセウス座の二重星團など煌びやかに見せてくれた。お昼は太陽K點の觀測もこのウラヌス號であった。反射板など使わず、サングラス使用の直(じか)覗きであった。後でお上から禁止されたと聞いたが、直覗きの太陽像は綺麗であった。太陽K點族のMk氏の世代ではもうサングラスは入手出來ずに、あの太陽像は知らないのでは、と思う。眞昼の高い金星も見ていたが、理科の教師になかなか信用して貰えなかった。その後、このウラヌス號もガタが來て、ウスノロと呼ばれたと聞いたが、いい氣はしなかった。實は一方でNj氏や鐵工所廻りの宮下君などと8cmだか10cmだったかの反射望遠鏡を作り、姑息な經緯臺に乗っけて發明工夫展の何とか賞を貰ったが、全く實用にならなかった。他方、もうこの頃から、足羽山の博物館天文臺に出入りするようになっていた。五藤光學の15cm(F15)屈折(1952年製)装備である。1952年からだが、既に天文臺で、明道中學のK田壽二さんとは會っている。藤島高校では、そのK田氏と同級になった。火星は1954年からだが、私は藤島高の一年、Nj氏は光陽中三年だったと思う。Nj氏は乾徳高校(いまの福井商業)へ進んだから、K田氏とは接點がない筈だが、皆で冩眞館で撮った冩眞が殘っているから、天文臺を通して附き合いはしていたということであろうか。
ところで正直、現在Nj氏はまだ足の運びは遅いし、廻れ右でふらつくこともある様だから、パーキンスン症候群のケが無いこともないと思われる。糖尿病や前立腺肥大(癌)の血糖値やPSAの様に、パーキンスンは數値化しないから、先ず糖尿ということだったかもしれないので、もう一度宮地先生の處に出入りする機會があっても好いかも知れないと思う。
尚、彼がわざわざ三國にお越し頂いてから數日後、彼から初めてemailが届いた。原稿の添附もちゃんと出來ていた。彼にemailを始めるよう急かせてから随分經つが、漸くその元氣が出たものと思う。
VI-3. 眼のことなど:
その後、この二ヶ月は眼科へも行けず、二ヶ月分の藥だけ飲み續けていただけで、進展は見られない。眼は酷使して、休ませては居ないのだから當然かもしれない。レーザーで掃除して貰ってから、明るくなり、特に右眼の色彩能力は高くなって色が鮮やかなのだが、上から灰色の帳が落ちることには改善が無く、而して右眼では文庫本も讀めない。左眼は大丈夫なのだが、歪みは解消していない。文字は正常に見えるが小さい圓形が歪になるのは恐怖である。
(23
August 2013)
VI-4. SKYPE: 次男の妻女(以下Yさんと呼稱しよう)は次男と大學同級生の同じ文科系だが、なかなかの才女でパソコンに詳しい。毎回、福井に寄る際は私のパソコンの軌道修正をしてくれる。例えば、もうそのパソコンは駄目になったが、ハードディスクのCとDのpartitionを變更してくれたこともある。今回はこの畫面で地上波だけだが、TVが見られるようになった。またSkypeを入れてくれて、早速東京へ歸るや、何か音がしたと思ったら向こうに無事歸着したという知らせとSkype伺いの彼女が現れた。素速いテレヴィ電話である。無料だそうだ。向こうに出ている私の畫面も右下に見える。
昨日も掛かってきたので、家内が出て挨拶した。その前々日かに私から掛けたが通じなかった。向こうがパソコンを開いていなければ駄目なのが難であるが、このときはフィリピンと通話していて英會話の勉強をしていたということであった。私からSkypeで來ていることも直ぐに分かったらしく、そういう信號も入るのであろうが、向こうの手前、切るわけにも行かなかったらしい。Yさんは佛文系で、結婚前にフランスにホームステイしているからフランス語の方が得意なのだが、いまは英語の方が必要なのでしょうな。適塾の生徒が蘭學から抜けて英語に移ったような時代性があるのかもしれない。
Skypeをやれる人はどうぞ、私を呼び出してみてください。雷が鳴っていなければ、大抵畫面は開いています。TVを見ているときは駄目かな。
VI-5. 越のルビー音楽祭:
毎夏行われているようだが、私は初めてであった。「越のルビー」と言ったところで、門外の人には何のコッチャ分からないが、私の理解では、この邊りで収穫される小さなトマトのことで、津村節子さんの命名であったと思う。ここでは比喩で使われているが、地元の若い演奏家などが多く關わるからであろう。今年も幾つかあるみたいだが、八月13日のフェスチバル・コンサートは笠松泰洋氏の監修・構成・編曲・指揮になるもので、このチケットを家内が早くから求めていた。然し、急遽彼女は行けなくなったから、彼女の友人で運轉の上手な人に私のお守りを依頼したが、彼女も急に腕に怪我をされて、運轉が駄目になり、代わりに次男夫婦に少し早目に三國に着くよう指示して、うまく到着し、次男、Yさん、私の三人で出掛けた。チケットは一枚足りないのだが、家内がもう一枚取ってくれていた。ただし、席が前の二枚から離れるので、私が獨り離れて座った。然し、小ホールなのでエラク舞臺に近い。始まる前に中央ドーム下をフォワイエにしてプロムナード何とかと稱し、出演者でない福井の若い人も含めて幾つかの演奏があった。ゲストとして、室屋光一郎、伊藤彩、生野正樹、向井航の皆さんからなるクァルテットが既に紹介され、演奏した。Yさんはスマオ風の携帶畫面で直ぐ調べ、ヴァイオリンの室屋という人は面白い人らしいと言っていた。小ホールへ移って、本番では三部に分かれ、第一部はイベールとかファルカシュというような聞いたこともない作曲家が前世紀の初めに書いた曲を地元に縁のある木管奏者達が演奏した。第二部は先の室屋ストリング・クァルテットで弦樂四重奏曲が三本演奏された。最初は笠松さんの第四番の第1、2樂章、この曲はヨーロッパで高い評価で認められているらしい。二番目は室屋氏の新曲初演ということであった。最後はバルトークの第四番から數章演奏された。第三部はオペラティック・ステージと稱され、先のクァルテットの他、演奏家全員がKの衣装に衣替えして出て笠松さんの指揮で、歌手も參加して賑やかであった。十曲近くあったが、全部笠松さんが編曲したらしい。桝貴志というバリトンが客席の後部から歌いながら登場し、舞臺に上がって目の前で唄う聲は迫力があった。他に見ているとコントラバス一臺というのが面白く、パーカッションの動きも見事であった。曲目を聯ねるのは面倒で止すが、ガーシュインのサマータイムなどが入って居る。ロッシーニも二曲あり、勿論セビリヤ(またはセビーヤ)*の理髪師序曲は最初に來た。私はこれを小學生高學年か中學はじめに福井の繊維會館かどこか(豪雨が來ると屋根の鳴る體育館も未だ出來ていなかったと思うし、公會堂でもなかった)でNHK名古屋放送管弦樂團の生演奏を聴いてメロディーに感激し、頭に叩き込んだことがある。然し、後でロッシーニの時代、彼が流行ったお蔭でベートーベンは苦勞したという話を讀んでから、セビリヤは封印してしまったので、今回久しぶりであった。
セビーヤの理髪師序曲をYouTubeで探すが、マンドリン演奏など輕いものが多く、適當なものが見附からない。仕方がないから、逆にフルトヴェングラーのベルリン・フィルを擧げる。針の音が如實であるが致し方がない。然し、このスピードは好いですね。
http://www.youtube.com/watch?v=FPuYtMqsQOw
(24
August 2013)
* 私はスペイン語を知らないが、vはbと同じと教えられた。だから、セヴィリヤと書かない方がいいらしいし、セビーヤの方が原音に近いらしい。處によってはジャとなるらしいが。