CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)

 その三十

落ちなかった話―『歩天歌』のこと


▼1994年八月の福井での OAA総会「星の會」の研究発表の部で、柄でも無いのに10分間私は喋ったのだが、そのことで二三弁明したい。

 先ず、発表はこちらの望んだことではなく、世話係の福井側で発表公募をした際、プログラムを拵える段階で數が揃わず、そこで松本直弥氏や安達誠氏に応援を依頼する一方、地元でも誰かの講演を用意しなければ拙いのではないか、ということになり、さてどうしょうかとなったのである。われわれは火星のことを題材にすれば困ることはないと思うのだが、これだと10分という譯には行かず、さりとて30分にするのは遠慮があるし、それに火星は一般向けでは無い。

 そこで、星座の話ならと思い、中世フランスあたりの話も適当と思ったのだが、一寸準備が間に合わず、そこでわれわれ自身は中國語も漢文も出来ないにも拘らず、西田昭徳君のお父さんが漢文・中國語の老師という天恵を手蔓として、「歩天歌」の方の話を取り上げようということになったのである。

 尤も、「歩天歌」について私の方は必ずしも附け焼刃という譯ではなく、実は十年も前から考えていることで、話題にした「參宿」の異文についてはそのころから暖めていたことである。何故十年前と特定出来るかというと、「參」のことで京都大学人文科学研究所の尾崎雄二郎先生のところへお話を伺いに参上したのが16 July 1984とノートにあるからである。実はこのとき『玉海』の「唐歩天歌」も尾崎先生お手ずからコピーして頂いた。人文研の図書室の『玉海』の大部の冊數には驚いたが、それぞれ版の時期は変わるものの、同じコピーだということであった。尤も、私の不勉強の為、その後何ら進展がなかったが、1986年には臺北で「歩天歌」に詳しい人に出会った。圓山天文臺の邱國光氏である( 現在は気象臺) 。邱さんは)カラー刷りの大きな『天文星圖---中國古天文與西洋星圖對照圖』を上梓したことがあり、その際西洋名だけでなく、古代中國の呼び名を重ね刷りし、後者の際「歩天歌」を参照したのである。彼が定本としたのは、鄭樵(11041162年、南宋)の『通志』天文略からのもので、この活字版のコピーを私も頂いた。ただ、この臺灣活字版には誤植もある様である。また、帰国後張麗霞さんが按配してくれて、邱さんの声で「歩天歌」全體をテープに録音して送って貰った。「歩天歌」は四+三=七言で調子好く綴られているが、その歌としての抑揚が好く分かり興味深いものである。ただ、張さんによれば、邱さんの出自は客家(はっか) で、発音が正調でないということであったが、その點はどのみち音痴の私には同じである。張さんは臺語の出来ない臺灣人で、むしろ北京語が巧いのだが、では彼女が録音してくれればよい筈だが、流石に「歩天歌」は朗読出来なかったのだろうと思う。尤も、邱さんも所々四声をチェックしている節があるし、全部を仔細に調べた譯ではないのに明らかに読み間違えが見つかる。

 

「歩天歌」にはいろいろな異本のあることは知っていたが、私はズボラだからそれ以上の文献を調べてはいない。それでは拙いので、一応発表前に長谷川一郎先生にお伺いをたてた。その際頂戴した文献が『火星通信#148 p1443LtE 収録のもので、日付は(26・七・1994)と、発表一週間前だからこの點はつけ焼刃もいいとこである。長谷川先生ご紹介の文献(の第五章 星象體制的演變與唐代的恒星觀測及星圖−−もとは簡体字)には、「校訂《歩天歌》」が収められており、中國の専門家が参照出来る殆どの文献によって校訂を為したもので、これは貴重な資料である。多分北京図書館蔵の「明刻本」を定本にしているのではないかと思う( 何度も断るが私は中國語も漢文も出来ないのである) が、どの本ではどの部分が抜け、どの本ではどう違って書かれているかが、註記されていて詳しく有難い。簡体字に化けていて味噌も糞も同じ字に簡略化されているのは仕方ないが、これだけの比較は他に見当らないであろう。(尚、「歩天歌」については、大崎正次著『中國の星座の歴史』雄山閣、1987年に詳しい解説がある。ただ、三垣と二十八宿の順序に就いて、本により異同のある點の明記は見付けることが出来なかった。)

 扨て、以上の裏話は発表のとき何ら触れていない部分である。われわれの話はオリオン座「參宿」の歩天歌を取り上げることと、それに関する推論に関わる筈であった(圖は淳祐天文圖から、參宿オリオンの邊り)。実は「歩天歌」の各宿については誰でも手軽に調べられるのであって、 それは『諸橋大漢和辞典』を引くことである。例えば、「心」を引くと「心宿[シンシウ]」という項目が見つかり、蒼龍七宿の第五宿などの説明の後、いろいろな心宿の古文に混じって〔丹元子、歩天歌〕心三星、中央色最深、下有積卒共十二、〈三三相聚心下是〉が見つかるのである(実際には『諸橋』には〈・・・・〉内の七言が省略されていて、少し頼んない)。

 「參宿」の異文についても『諸橋』で見付けられるものである。『諸橋』には「參宿」について次の様に収録されている:

          

總有七星 觜相侵、兩肩雙足 三為心、

伐有三星 足裏深、玉井四星 右足隠、    

屏星兩扇 井南襟、軍井四星 屏上吟、

左右四星 天廁名、廁下一星 天屎沈

 

問題は、最後の七言+七言で、『玉海』等では、「左足下四 天廁臨、廁下一物 天屎沈」となっており、これは誤植とか省略というのとは明らかに違うであろう。実は諸橋氏のこの出典は『四庫提要』あたりだ思うが、直接調べていないので分からない。長谷川先生から頂戴した「校訂《歩天歌》」にもこの異文は収録されていないので、不思議なのだが、面白いところでもある。尚、『通志』天文略には「總有七星」は「總有十星」になっているが、十は七の古い形であることは、既に尾崎先生から伺っている。「校訂」では七を採用。(余談:『諸橋大漢和』の力は絶大で、西田君のお父さんに書き下し文をお願いしたところ、『諸橋』を参照されて丁寧にお教え頂いた。それに對して私の手書きの『玉海』の方にはあまり興味をお示しにならなかった。)

 上の異同については、少々ながら幾らか今回の「発表」で話すことは出来た。従ってここでは繰り返さないで措くが、『玉海』等の歌では、七言の終わりがそれぞれ、侵、心、深、隠、襟、吟、臨、沈といわゆる-nのン( 日本語でも終音はン) で韻を踏んでいるのに對し、『諸橋』では「名」が入っていて、これは-ng のン( 日本語では長音) であるから韻を壊していること(この違いに就いては火星通信#115 p1009参照)、また「廁下一星」より「廁下一物」のイチモツの方が何ともリアルであること( イチモツは日本語だと言われるかも知れぬが、もともと入声でチとかツが入っている方が古く本当らしい、これも火星通信#115 p1014邊り参照:そこで木が[-]でなく[モク]であることなどの漢字の化石のことを述べた。下記註1参照) 、さらに「左右四星」では実状に合わないことから、『諸橋歩天歌』の方がウソ臭いことなどを申し上げた。

 しかし、本題はここにあったわけではない。言い譯をすると、10分経ったらベルをならして、講演を止めさせようと地元側で提案したのは私自身で、これは自分で墓穴を掘ったことになり、係の井部さんがチンとやったものだから、私の話はここで狂ってしまい、隠し玉は落とせなかったのである。 

 実は、異文の関わる処には「廁[ce]」と「屎[shi] が出て来るが、これはそれぞれカワヤとウンチである(厠、屎は上の淳祐天文圖參照)。そこで、是れに関する推論を述べたいと思っていたのだが、時間切れでシリを隠したことになってしまった。私は、冒頭で「これから少しクソ真面目にクサイ話を致しますが・・・・」と予めオトシ話を臭わせたのだが、落としどころを間違えたという譯である。村上昌己(Mk)さんには後で、いつ落ちるか楽しみにしていたのですがネェ、落ちなかったようですネェ、と揶揄られて甚だ面目がなかった。Mkさんは大崎正次先生の有力な門下で、高校生のMkさんを廊下で掴まえて、射手座はラテン語で何と言うか、と詰問したりする優雅な教師であったようだが、「君、天にはトイレもウンチもあるんだよ」と得意氣におっしゃっていたそうで、Mkさんとしても、同じマサツグさんから(大崎正次先生のお名前は奥付によると、ショウジとお読みするらしいが、Mk氏等は九段高校で大崎マサツグ先生とお呼びしていたらしい)そんな話が聞けるとは奇遇であったということであろう。

 

 中國人が一般的にカワヤや屎を天に貼り付けるほど妙な趣味に凝っていたとは思われない。「廁下一物」より「廁下一星」の方がやや綺麗に仕上がっているのも、抵抗のあったことの表れであろう。『晋書』天文誌と『隋書』天文誌は唐代の同じ李淳風(602年〜670 ) の作だが、前者には後者に比べて多くの簡略が見られ、特に『隋書』に出ている「天廁四星在屏東溷也」などは、『晋書』では捨てられているのである。もともと參とその南の星座は別々に収録されているが、後者は省略されているとみてよい。溷はトイレそのもので、『隋書』の奎宿でも「・・・・七星天溷廁也」が出てくるが、これらも『晋書』では省かれており、多分これは一貫しているだろうと思う。(ただし、私は『隋書』は臺灣本漢文で、『晋書』は和譯文( 薮内清責任編集『中国の科学』所収、中央公論社、1979) で見ているので、一字一句は比較していない。) 従って、譯本『晋書』の方がスッキリし、綺麗と言えよう。

 

 扨てそこで、『晋書』とは逆に、性懲りもなくそろそろ話を落としてみようと思うのであるが、或いは、寧ろ綺麗に洗い流すことになるかもしれない。-----先ず、「屎」の方であるが、「歩天歌」より前の『史記』天官書( 私の持っているのは、『漢書』天文誌の「參」のところの活字版のコピーだけであるが、尾崎先生が『史記』天官書と同じデスとおっしゃったので、『史記』とする。天官書は前一世紀初頭に纏められたもので正史としては最も古い) では、「天廁下一星、曰天矢」とあり、もともとは「矢」であったことになる。「屎」と「矢」は発音が同じ「shiシ」というのがミソであり、発音を頼りに表字と意味を取り換えたというのが我々の推論である。「矢」について『諸橋』の小辞典でもトイレの意味が註釋されているが、これは寧ろまさに上の変更に対応しており、「矢」に元来そういう意味は無かったのではないかという考えである。「屎」はその後、落っこちる「一物」と解されて、「はと座」のμ星とされる様であるが、邱國光氏はννの二重星を当てている様であり、こちらの方が「矢」を構成するというべきだろう。

 この推論が許されるとして、あるとき洒落た中國人が「矢」を「屎」に換えて駄洒落を利かす氣になったのは、勿論上に「厠」があるからである。では、何故尊き天にカワヤくんだりをもってきたのであろうか。しかしこれも恐らくもともとはトイレではなかったのではないかと思う。「參」という字は構成も意味も複雑で、『諸橋大漢和』には「參、三也」などから始まって十八の意味が綴られている。その中に「參、間厠也」というのがあるのに注目する。『集韻』( 宋代の韻書) 所載らしいが、この場合、間厠にはカワヤの意味は無く、「いりまじる、まじはる」の意で、実は厠単独でもこの意味を有つらしい。すると、これも洒落者の存在を必要とするが、この句をもって參と厠を縦にまぜた可能性がある。発音はcesi( ) でどれだけ違うか知らないが、「うさぎ座」の四星が厠の囲いを作っているという具合である。

 私は全天について調べている譯ではないが、発音を頼りに表字が転変する例は幾らも在ろうと思う。「歩天歌」のオリオンでも小三ツ星は「伐」[ fa]であるが、『史記』天官書では「罰」[バツ、バチ fa]である。『晋書』では最早「伐」だが「天之都尉也」ならば「罰」でも構わないだろう。 

 

 話を切り上げた後,Mkさんから話が落ちませんでしたネと言われ、立ち話で以上の様なことを付け加えたのだが、近く大崎先生とお会いするのでその時お話しておきましょうということであったが、大崎先生は、そんな馬鹿ナ、とおっしゃるか、そんなこと知っているヨ、とおっしゃるかのどちらかでしょう、とMkさんは請け合うのであるが・・・・・

 CMO/OAA Fukui南 政

 

 ▽[1]中原を取り囲む周辺地方の漢字音には古い中國音が化石の様に保存されていて、日本語や臺灣語、朝鮮語、廣東語等の調査は中國音韻の研究に欠かせないらしい。尾崎雄二郎先生の著述にはそうした経緯が詳しく論述されている( 例えば尾崎雄二郎『漢字の年輪』角川、1989年や貝塚・小川編『日本語の世界三---中國の漢字---』中央公論、1971年所収の尾崎論考など) 。但し、全体の音韻論は難解で私などにはよく把握し切れないのだが、現代の四声は大昔の四声( 平仄) と違っていて、古くは平声[ヒョウショウ]と上声、去声、入声[ニッショウ]とに分かれ、平声は現代の第一、二声に分岐し、上声は第三、四声に、去声は第四声に移っている様だが、入声は現代北京語では消えてしまったらしい。中國では消滅したのだが、しかし日本など周辺部にはまだ残っていて、末尾がp, t, k をもっている様な音節は入声である様である。一や物や木( 他には罰や伐) は入声の典型である。頼武揚さんが『火星通信#120 p1070以下で押韻難解のことや長白山胞の発音不可云々とあるのはこの入声の消滅に関連する。臺灣語は八声あるそうだから、余裕である。他に、三や心は北京語ではそれぞれ[san] [xin] であるが、尾崎先生はもともと[sam] [xim] ではなかったかと暗示しておいでである。これは日本語で三位を[サンミ] といい、燈心を[トウシミ]ということに残っているという譯である。尤も、日本は朝鮮やヴェトナムより早くm n に換えてしまったようだが。[余談:尾崎先生は心=三=參という等式をお書きになった。もともと同じ意味合いだ、ということだったと思うが、「さそり座」と「オリオン座」が參商[san-shang] の形で結ばれていることは尾崎先生は先刻ご承知である。星座どころか、尾崎先生は苗村鏡の20cm反射をお保ちであった。ただ、庭へ出すのは近所の目があるのでね、とおっしゃっていられた。不勉強な私はその後顔を出す機會を失ったが、尾崎先生は退官されてもう久しい。]

 

[2]豫講集で、北斗七星の歩天歌を引用した際、××としたところは、実はワープロで字が見つからなかった所為で、もともとの抜字ではないので悪しからず。ここには綺麗な玉、丸くない玉を意味する[ センキ] という字が入るのだが、作字する暇も無かったのである。Ns氏が原稿を打ち上げたのが八月3日であったと思う。4日印刷・製本という離れ業であったが、地元だったから出来たことでもある。

 

[3]私の住処の三國緑ヶ丘は瀧谷寺[タキダンジと読む] という古刹の直ぐ裏手なのだが、この三国のお寺の宝物殿に「天之圖」という古い星圖(多分現存最古)があり、これに「歩天歌」がなかなかの達筆で綴られている。1989年に重文に指定され、今夏の福井市自然史博物館の展示に借り出しを願ったが、適わず、佐々木英治氏作成の写真版を転用させて頂いた。「天之圖」の星圖は怪しげなものだが、大崎先生の興味を示された様な輔星(アルコル)はちゃんと描かれている。何時だったか、佐々木英治氏(Nj氏のもと同僚)は未だ『玉海』を見ていないということであったので、『玉海』の「歩天歌」のコピーをお送りしたことがあるが、その後「天之圖」記載の歩天歌は『玉海』のそれと殆ど同じで、一ダースほど欠字や誤字があるだけなど調べがついている様である。(歩天歌では天屎が写されているが、星圖では天矢が使われている。序でに、佐々木氏復元の『格子月進圖』では、天矢。また序でに、その南の「大人」は「子」との釣り合いで良さそうだが、本来は( 「歩天歌」でも) 「丈人」で老人のこと。丈は杖のこと。) 尚、「歩天歌」複製としては「天之圖」は珍しい和製なのだから( 佐々木氏の考察では16世紀) 、全文活字印刷されると有り難いと思う。

               

火星通信#149 (25 September 1994) 夜毎餘言LVII

ずれずれ艸目次 IIIに戻る

ずれずれ艸目次 IIに戻る

ずれずれ艸目次 Iに戻る

火星通信』ホームページに戻る