A few more bends brought us to where the path culminated. The

 road had for some time lain bare to the sea and sky, but at the supreme

 point some fine beeches made a natural screen masking the naked face

 of the precipice. On the cutting above, four huge Chinese characters

 stood graved in the rock.

 

"Ya no gotoku, to no gotoshi."

 

"Smooth as a whetstone, straight as an arrow," meaning the cliff.

 Perhaps because of their pictorial descent, the characters did not shock

 one. Unlike the usual branding of nature, they seemed not out of

 keeping with the spot.

P LOWELL, Noto, An Unexplored Corner of Japan: VII. Oya Shiradzu Ko Shiradzu

 

English Here


 

北陸自動車道の「親不知」ICを降りて、北へ三キロほど行くと自動車道から離れて遊歩道が保存されているところがあり、そこに海に対面して岸壁に大きな壁書があって、

矢如砥如

と書かれている。

これは上に見られるように、

Ya no gotoku, to no gotoshi

とローヱルが読んだもので、この道は、紛れもなくローヱルの通過したところであり、休んだ茶屋もこのあたりにあったはずである。この道が開通した1883(明治16)に村長が中國の古典『詩経』によって認めたものを刻んだようで、1889年ここを通過したローヱルは当然見ることが出來たわけであり、この壁書はいまもほとんど同じ状態で保存されている。

 

上のローヱルの文を譯すと次の様であろう:

 

更に二三度道を曲がりくねると、一番高いところに出た。

この道はそれまで暫く海と空に向かって剥き出しになっていたが、

最も高いところに出ると見事な何本かのブナの樹が

絶壁の裸の表面を自然な状態に覆って隠していた。

上の切り通しには、四つの大きな漢字が岩壁に刻まれて立っている:

 

矢の如く、砥の如し

 

これは砥石のように滑らかで、矢のように真っ直ぐという意味で、

この崖を意味している。

恐らく、これらの垂れ下がった漢字は絵のようで、

不自然な衝撃を与えるものではなかった。

よくあるような自然に拙い烙印を与える行為とは違って、

これらの漢字はこの地点とうまく調和していると思われた。

 

岩壁には確かに左から

と書かれている(写真を參照されたい)譯だから、左からそのまま字面を読めば、「矢の如く、砥の如し」であろう。しかし、当然、壁書は右から書かれている漢文である。したがって、ここで左書きに書き直すなら「如砥如矢」であって、「砥の如く、矢の如し」とすべきである。

 

寧ろ、ローヱルが英譯しているのが正しいわけであるから、詠みは間違えたが、意味は誰かの解説を受けたか、正確ということになる。

 

如砥如矢」という四文字漢字は『詩経・小雅』に収められる「大東(たいとう)」の第一聯

 

饛簋飧、有棘匕

周道如砥、其直如矢

君子所履、小人所視

言顧之、潸焉出涕

 

の中の

周道如砥、其直如矢

という詩句が起源とされている。周道は砥の如く、その直きこと矢の如し。つまり、都への道は砥石の如く滑らかで、矢のように真っ直ぐだ、という意味であろう。詩のなかでは、西の周道(大路)のこの様子は公平な政治と和平な世を象徴しているわけだが、必ずしも称賛というのではなく、その周(搾取側)の贅沢さを寧ろ被征服者の東人たちが嘆いている、という重い意味があるのである。

実際、この聯の詩句の最後尾は上に見るように「睠言顧之 潸焉出涕」=(さん)として涕を()だす(不遇を顧みてさめざめと涙を流す)で終わっていてそれを暗示している。

しかし、周道に関する言は転じて、これが単に部分的に「平如砥、直如矢」というように軽く使われたり、もっと簡單に「如砥如矢」という成句で理想のように使われるようになったのであろう。その意味では、道の形容から離れても使い得るものである。從って、親不知の村長さんは、『詩経』に依ったというよりも、常用成句として採用したのかもしれない。尤も、現代文でも「大道一条、如砥如矢」などと使われる例があるから、単に道の真っ直ぐなばあいの表現として容易に使い得る。

 

しかし、砥石のように磨きが掛かっていて、真っ直ぐな道は、そう滅多にあるものではないから、通常「如砥如矢」とは行かない、從って、むしろ否定的な意味での方が使いやすいかも知れない。その例が、陳侃(ちんかん)の艸した『使琉球録 』の中にある。陳侃は明皇帝の使者として琉球王の即位にやって來た冊封使で、1534年ころのものらしい。これは「冊封使録」といわれるもの中で最古のもののようだが、沖縄では有名な文章のようである。尾代孝哉さんによればその頃の文章はもう現代中国人にもなかなか読めない古語のようであるが、泡盛とか、サトウキビ、夜光貝などの当時の様子が出てきて、朝貢外交がよく分かる好い資料のようである。その中に次のような一説がある。

越七月二日,封王。是日黎明,世子令衆官候於館門之外,導引詔勅之國。國門距館路三十里,介在山海之間‥險側高卑不齊,不能如砥如矢。將至國五里,外有牌坊一座,扁曰「中山」。自此以往,路皆平坦,可容九軌

 

この場合は、首里城へ行くまでの道が、平らでも真っ直ぐでもなく、シンドイと言うことのようである。昨夏(2003)、筆者は右に泊港、遙か左の高台に首里城が見渡せる九階建てのビルの屋上に陣取って火星を観測していたが、海から首里城に向かうなだらかな坂道を行く行列を想像すると、「如砥如矢」であったとは思われず、行列はたいへんだったであろうと想像した。

 

扨て、ここで、ローヱルがこの四文字漢字をどう解釈したかということであるが、紀行文から見る限り、Cliffのこととしているから、道には想いが至らない。この壁面は當時ピカピカに切り出したものであり、下の海から九十メートルほど高く屹立しているような感じであるから、そのように解釋したのも無理がないと思う。事実、ここに切り開かれた道路は、どう眺めても如砥如矢ではなく、不能如砥如矢であり、村長さんはそれにも関わらず理想の心意気を書いたものか、或いはローヱルがそう感じたように、新解釈で屹立する壁面のことを言ったか、俄には分からない。難所の山腹に道を通したことが、理想の如砥如矢であったのか、難所の壁岩を崩してそこの頂点に記念碑を刻んだ心意気なのか、熱気が醒めて数年を経てローヱルの単なる勘違いではなかろうと思う。ここを経てローヱル達を乗せた人力車が矢のように降りてゆく様が続くが、それは英文の部を見ていただきたい。

 

(附記) 本稿を艸する際に、常間地ひとみ氏と尾代孝哉氏に詩編や中国語に關してご教示を受けた。また、引用の写真は常間地氏と村上昌己氏から拝借した。記して謝す。

 

(宮崎正明氏の日本語譯との異同についての釋明): 上の試譯と異同があるので、若干釋明しておく。彼の譯文に「急に海岸の荒々しい岩山が姿を消してしまい、おだやかな海浜のたたずまいは、絵を眺めるように美しい」というまことに綺麗な文章がある。絵のように美しいなどという常套句が出ているとは思われないが、これはまことに奇妙である。海岸、海浜などという語はなく、beeches(ブナの木)beachesと読み違えていることは確かで、その為、全体が狂っているのであろう。ブナの木が絶壁の裸の表面を覆っているだけで、岩山が消えてしまったわけではない。直ぐあとで、「四つの巨大な漢字」のhugeを見逃しているのも同断である。「景色があまりに美しいので、この文句も顔色なしの感がある」というのも所謂意譯でもなく、対応する原文がまったく不明である。ローヱル的でありえないだけでなく、この辺りの景色を斯様に言う外國人が居ると思われない。言えば単に興ざめである。did not shock oneは異様に見えないという意味であって、それは絵のようにぶら下がっているからであって、壁書が自然破壊になっていないというローヱルの感想である。they seemed not out of keeping with the spotout of keeping withは〜と不調和で、という成句であって、これを無視したのでは意譯でも何でもなくて誤譯である。

 


南政次Masatsugu MINAMI, CMO Fukui


関連ページ: 北陸、時雨、親不知 (村上昌己、新歳時記村6:CMO #266

 

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Key words: ローヱル、ローエル、ローウェル、親不知、如砥如矢