2 0 0 4 A n a m i d z u
Mars/Lowell
Conference
『天界』2004年10月号発表記事
2004年穴水・ローヱル会議 (報告)
Percival Lowell Conference
at Anamidzu in 2004 was successfully held
「穴水ローヱル会議」代表世話人
村上 昌己 (火星課幹事)
§1. はじめに
2004年5月2日より5日までの日程で、東亜天文学会、日本ローヱル協会、富山八雲会、金沢星の会などの共催で、ローヱルゆかりの石川県鳳至郡穴水町の金沢工業大学の穴水湾自然学苑を会場に「2004年穴水ローヱル会議」が開催されました。連日夜遅くまでの講演と討議という、合宿形式の日程の詰まった会議になりましたが、延べ40名の参集をいただき、会議は成功しました。ゲストとしてはアメリカからローヱルや火星についての著作の多い、Sky & Telescopeでお馴染みのウィリアム・シーハン(William SHEEHAN)氏の参加をいただきました。シーハン氏は既報のように4月24日、25日に長崎での東亜天文学会年次総会に出席されてから、穴水の方においでになったわけです。
§2.「ローヱル会議」の発案とコラボレーション
この「穴水ローヱル会議」は火星課の発議によるもので、2002年の夏7月の長野県の伊那における『火星通信』恒例の「CMO惑星観測者懇談会(第10回)」で案が検討され、また同時に、諏訪から天龍川沿いはパーシヴァル・ローヱルが1889年(明治22年)に東京から能登半島まで旅をした折りに帰路立ち寄っているところから、足跡を訪ねることなども試みました。
ローヱル会議自体は2004年5月の連休にローヱルのこのときの旅の終着地・穴水で行うということで、引き続き会場の確保も行い、また、実際に2002年の夏の内にCMO福井の南政次氏、西田昭徳氏が穴水へ入り、「ローヱル会議」は火星関係ばかりでなく、ローヱルに深い想いを抱く人たちとの交流を目的にするということで、地元穴水町の坂下璣氏(日本ローエル協会副会長)にもお会いし、参加・協力を請い、快諾を得ています。次いで2002年8月末には金沢で行われた日本ローエル協会(小尾信弥会長)の年次総会において、私どもの計画を火星課長の南政次氏の方から伝達し、内諾を得ました。また、ローヱルとラフカディオ・ハーンとの関係から富山八雲会にも参加をお願いしました。同時に、中嶋秀夫氏、長兼弘氏の所属する「金沢星の会」からも協力が得られることになりました。
2002年11月には筆者(村上)も、南、西田氏の案内で、火星課幹事の中島孝氏とともに穴水に入り、会場視察などを行い、坂下璣氏にもお会いしました。この間、OAA歴史課の佐藤利男課長からは火星課のローヱル会議計画に関して賛同と参加のご意向が伝えられ、私どもはたいへん勇気づけられました。佐藤氏はローヱルに関して深い理解をもち、調査を幅広く行っていられる方で、ローヱルについて一章を設けられている『星慕群像』(星の手帖社、1993年)は名著として知られています。
2004年の会議を、前もって2002年内に下準備をおこなった理由は、2003年が火星の大接近にあたり、私ども火星課・『火星通信』は観測が控え、その期間中は動けないことが予め分かっていたからです。最接近前、2003年の5月には、福井市自然史博物館において、火星に関する「今年の夏は火星」市民講演会や2003年度の「第11回CMO観測者懇談会」が行われた際、前哨戦として「ミニ・ローヱル会議」ともいうべき会合が持たれ、OAAの藪保男理事長や、日本ローヱル協会の坂下璣副会長にもご出席をいただき、佐藤利男氏他からご講演をいただきました(佐藤氏の演題は東京におけるローヱルの足跡)。
こうして細目を除き「2004年穴水ローヱル会議」の計画は整い、2003年に世紀の大接近を迎える火星を広い立場で顧みる機会にもなろうと、われわれの期待も高まったわけです。
§3.「穴水ローヱル会議」開催とアウトライン
2003年大接近の火星は確かに凄いものでした。この間、ローヱル会議のことはエポケーして、再び開催に向けて細目その他本格的な打ち合わせに入ったのは今年2004年に入ってからです。CMOのInternet内に、「穴水ローヱル会議」の頁も設けました。この間、参加団体の事務局の皆さんにはお世話になりました。進行状況はインターネットで数次にわたり広報し、最終的なプログラムは今年3月にはほぼ纏まりました。
さて、前日5月1日には火星課『火星通信』のメンバーが金沢工大穴水湾自然学苑に入り、受付・会議室・宿泊室の準備その他を行い、初日5月2日昼、予定通り和倉港にローヱル会議の参加者を迎えることが出来ました。和倉は1888年5月ローヱルが一泊し、船で穴水に向かったところです。そしてわれわれも合同で和倉港から、自然学苑の70人乗りのクルーザー「アルタイ号」でかつてローヱルの辿った穴水までの、季節も同じ海上の道を楽しむことができました。
穴水に上陸後、自然学苑の三階講演室に集結し、東亜天文学会理事長の藪保男氏と日本ローエル協会副会長で地元穴水町の坂下璣氏の開会の挨拶を頂きました。こうして、会議はスタートし、初日・二日目の幾つかの興味ある基本講演をはじめ、二日目の「日本ローエル協会年次総会」、三日目の「穴水町ローエル祭」等を挟んでプログラム通りに、早朝から夜の更けるまで進行してゆきました。予定通り最後の4日後半と、5日午前には『火星通信』観測者関係の「第12回CMO惑星観測者懇談会」に切り替えました。なお、初日の夕方には親睦を兼ねて立食形式のパーティー、4日のお昼には、穴水町の皆さんとの昼食会が催されました。
§4. ローヱル関係講演 ア・ラ・カルト
講演の幾つかを紹介します。先ず、村上が基調講演を行い、「なぜいまローヱルか」という問題を提起しました。これについては後で、問題整理の際に披露します。次いで、火星課幹事の中島孝氏からパーシヴァル・ローヱル(1855年〜1916年)の略歴がパワーポイント使用での年譜とともに提供されました。これは以後の会議の下敷きとなる情報となるものです。ハーバード大卒業後、1882年にボストンのローヱル・インスティテュートでエドワード・モースの日本についての講演を聴いたこと、1883年から1893年まで何度かの日本滞在、その後半からのピッカリング兄弟との交流、1894年にはフラグスタッフに天文台を建て火星観測をはじめること、1896年には金星の奇妙な観測があること、1897年にノイローゼになり1898/1899年にはニューヨークで看護を受けること、その後復帰して1905年にはモースもローヱル天文台に滞在 すること、1905年53歳で結婚し、1916年に亡くなっていることが主なポイントですが、ローヱル天文台建設の時間的経過についてや1894年以降の火星接近など、やや詳しく語られました。
日本ローエル協会会長の小尾信弥氏からは、「ローヱル所感」として、小尾氏が何度も長きに亘って滞在されたボストンでのローヱル家などボストン・ブラーミンに関連した通り、風景等が様々な思い出を込めて描写されました(→)。勿論、ローヱルが育ったブルックラインの住まいSevenelsのお話もありました。
東亜天文学会歴史課長の佐藤利男氏からは、二度にわたってお話をいただき、ローヱル調査の事始めやローヱルの日本滞在中の動向が伺い知れる文献資料についての講演のほか、故佐伯恒夫氏とローヱルとの関わりをエピソードを交えてお話いただきました(後述)。
富山八雲会の高成玲子氏からは、富山の「へるん文庫」設立のお話のほか、ラフカディオ・ハーンとローヱルやチェンバレンの交わした書簡などが示され、そこから垣間見られるハーンとローヱルの持っていた日本観の違いなどについてお話下さいました。
日本ローエル協会の横尾広光氏からは最近の地球外生命の探査に関するお話とクラーク博士の隕石論文についてのご紹介、平岡厚氏からは、ローヱルの『オカルト・ジャパン』の研究と翻訳に関して、伊東昌市氏からは「ローヱル天文台」に関して体験話も含めてお話をうかがいました。ローヱル協会年会では黒田武彦氏から、「西はりま天文台の新望遠鏡とその利用」に関してのお話がありました。
また、ローヱルの紀行文『能登』(1890年)に描かれる明治の風景をたずねて、各地の探査をおこなった様子が、「ローヱル街道」として、各氏から報告がありました。これは新しい発見などもあり、楽しい話題となりました。
「金沢星の会」の長兼弘氏からは、「ローヱルの能登路」として、経路が不明確であった荒山峠、中能登街道、天田峠の越中越えルート探査の詳しい状況と、ローヱルの記述に合わせた旧道の確定が報告され、とくに荒山峠の旧道についての新しい見解をお聞きしました。
富山八雲会の牧野弥一氏からは「ローヱルと立山・芦峅」と題して、立山芦峅寺におけるローヱルの宿泊の記録と芦峅寺の宿坊の話、及び「優しい隠居」佐伯左内に関して面白い話が披露されました。
また、伊那・飯田近くの奥村茂美氏からは、木曾御嶽からの帰り二度目の天龍下りの乗船簿に残るローヱルとアガシの足跡が紹介されました。ほかに南政次氏からは今回シーハン氏と辿ったローヱル街道の内から、信越線黒姫・妙高から雁木街道あたりまでの事、筆者からは高崎線から信越線の上田あたりまでの鉄道沿線の様子を報告しました。
ゲストのシーハン氏は連日の出演で、多くの画像を用いて「ローヱルと火星」、「バーナードとローヱル」などについて講演をいただきました。他に「ローヱル観測の病理」として、ダグラスとも往き違いのあった金星観測におけるローヱルの問題点の指摘もありました。また、「火星の水について」というタイトルでは、火星の閃光現象と水分や地形との関係なども、最近の探査の様子も引用して説明がありました。
シーハン氏のローヱル観については後でも少し触れますが、シーハン氏はトッド夫妻やモースの日本への関心にも興味があるようで、開国後の日本に西洋の科学者がジュール・ジャンセンも含めて多く訪れたのは日本の文化が西洋の文化より、より簡明、より優雅で、西洋の文化のalternativeな文化であるという認識があったからだろうとされています。ローヱルの場合(シーハンさんはローヱルの生年の前年に和親条約が締結されていることは知っています)は、しかしボストンの教育の高いバラモン的な階級出身として、日本の風景や庭園、或いは神道といったものには鋭敏な理解を示したけれども、日本人の心理というところまで心がくだけたかどうかは分からないと感じていられるようです。
ローヱルが彼の貴族的なバックグラウンドが破綻することを彼自身が身を以て知るのは、火星の観測を遂行しそれを発表してから後である、というのがシーハンさんの面白い指摘の一点です。ローヱルの運河描写については、これは単なる幻想ではなく、2003年のアメリカのCCD画像家エド・グラフトン氏の火星像の沙漠に這う淡い皺模様を示しながら、こうしたものを見ていた可能性があると指摘されました。
ただアントニアディは「ひらがな」描写が出来たけれども、ローヱルは「左脳」がより活動的で、「カタカナ」描写になったとみています。シーハンさんはお医者さんですから、よく知られているように右脳が空間構成をするのに対して、左脳は計算や論理を司るということを踏まえているわけですが、ローヱルは言語化、論理化の方がより得意であったことは確かで、左脳的でしょう。カタカナが直線的、左脳的であるというのはシーハンさんの採る考えです。このこととローヱルの貴族的であることの関係は分かりませんが、対極としてシーハン氏はリック天文台のエドワード・バーナードを考えています(シーハン氏には『The Immortal Fire Within: The Life and Work of E.
南政次氏からは「ローヱルの火星」というテーマで講演が三回に分けて行われました。前半は一般論、後半はローヱルの著書『Mars』(1895年出版)に触れるものでした。これはローヱルの1894年のフラグスタッフにおける長期の観測に基づくもので、季節ごとのかなり詳しい南極冠や暗色模様、輝点の観測など要点が示され、ローヱルの観測の特徴も紹介されました。前半の一般論はこの会議のメーンテーマとも関係しますので、後で取り上げます。
他に「ローヱルの周辺」として、中島孝・南政次両氏は、妹で詩人のエミー・ローヱルのことやその他のローヱル一族、とくに詩人ロバート・ローヱル(1917年〜1977年)の紹介など、ブラーミン・ローヱル家の昨今を暗示しました。
§5. いま何故パーシヴァル・ローヱルか
何故いまローヱルかという問題は、やはりローヱルが傑出した人物であったことにあると思います。ローヱルが保持していた文明史観はかなり強固にいまも「非文明国」に向かうとき西洋社会、とくにアメリカに燻っている可能性がある筈です。彼の火星観測もそうした文明史観の上にあるわけですが、すると彼の火星観測と現代のアメリカの火星観測、そして日本の火星観測という三点間の乖離と距離は充分に火星観測に限っても今日的問題であると思われるのです。
今年は日本の鎖国が解かれ外国人への門戸が開かれた1854年の日米和親条約締結から丁度150年にあたりますし、日本に関わる文学という形で、日本を取材し、世界に発信したラフカディオ・ハーンが亡くなってちょうど100年になりますが、筆者の基調講演はこの点から始めました。
この150年前から100年前までの50年間は、來日した外国人が後々まで影響する日本に関する観点を立ち上げた時期として大変重要なわけです。その中にローヱルが特に日本観に関して登場するのですが、彼の『極東の魂』(1888年出版、翻訳は1977年)は格調の高い文章で綴られ、いまも読むに耐える日本観が述べられています(この本がハーンを魅惑し、ハーンをして日本往きを決心させたことは有名)。この点で今から120年前に来日したローヱルが、足かけ十年(1883年〜1893年)の滞在で残した資料文献足跡の数々、あるいはハーンとの文通の紹介と分析などは、ローヱルの極東観の果たした意味、ローヱルの日本滞在とは何であったのか、と共に重要な問題です。また、帰国後の極東への興味から火星への転向問題も、そこには自ずから内的な連続性があるはずで、彼の火星観測とは何であったのか、だけでなく、極東の文明批評などで見られる彼の文化人類学的な観察眼と、火星観測には共通点があるのではないか、などを問題提起しました。
パーシヴァル・ローヱルの貴族的高踏派言説についてはわれわれも感じられるものの、その依ってくるところについてはわれわれ日本人には不明のところが多いのですが、その点については、シーハン氏はローヱル一族の属するボストン・バラモン族(ブラーミン)の根深さに気付いていられるようです。氏は既に『能登』に関して、たとえば、信越線の車内での日本人に対する視線に違和感を示しているほか、親不知での茶店を賄う唖の老婆をローヱルは奇異に感じたとされていますし、今回の講話でもとくにローヱルの結婚(観)の奇妙さを指摘しました。母親の死後1895年頃からローヱルの秘書となり、1897年頃ローヱルが神経を病んだ頃、1898/1899年に献身的な看護をし、その後彼の死まで天文台の秘書を務めるルイーズ・レオナードとは遂に結婚しなかったという事実がありますが、シーハン氏はやはりローヱルにブラーミンの階級的な意識があったからとの見解です。後年1908年53歳の時にボストン隣人のコンスタンス・ケイスと結婚しますが、この人の奇態な行動についてもシーハン氏は幾つか例を挙げました。
南政次氏はローヱルの火星観測とローヱルの思想を関係づけるという観点から一般論を展開しました。ローヱルの『能登』は、さほどの影響力を持ったとは考えられないのに対し、『極東の魂』はアメリカでの日本観の形成に根強く寄与したことは充分に考えられ、実際、南氏もこの書物には何か根元的な印象深いところがあり、日本に関する洞察も鋭いものがあることを認めます。しかし、ローヱルの眼差しを形作る観点は演繹的で、寧ろイデオロギーに近いとします。
ローヱルについて『Percival
Lowell, The Culture and Science of a Boston Brahmin』(Harvard Univ Press, 2001)を上梓したデイヴィッド・ストラウス(D. Strauss)氏が述べているように、ローヱルを含む当時の世代はハーバート・スペンサーの影響を強く受けていて、この人はダーウィンに先立って適者生存という考えを流布した人ですが、ローヱルもまた進化論に立っているわけです。したがって「未開」から進化を経て「文明」へという通時的な図式から抜け出せ得ない。そういう中で彼の観察眼は、日本人には感受性と知覚の深さはあるものの日本人の「没個性」という面を暴き、ことあるごとに想像力の欠如を挙げ、もって日本人には模倣以外、新しい創造はあり得ないと断ずるわけです。
「想像力」という概念もスペンサーから来ています。経験された一見無秩序なものから新しい整合性をもった概念を作り上げるというような意味を持つようですが、南氏にはローヱルこそイデオロギー的で想像力がないと映るようです。南氏によれば、科学的表象というのは、古典的には主観が対象を受動的に受け留めるにすぎないのに対し、モダーンには対象が主観の形式によって能動的に作り直されねばならない(柄谷行人のコペルニクス転回)。しかしローヱルの1894年の火星観測を見渡す限り、演繹的記述ばかりでどこにもこの転回はない上、同じように彼の東洋観にも後で好い意味で寄与すべきようなコペルニクス転回がみられないというのが南氏の主張です。それにも拘わらず、彼の著作や研究が今日的意味を持つのは同じ手法がいまでも散見されるからであり、単に例というだけでなく、深い洞察・観察が浅い歴史的背景で殘念な運命を辿るという戒めがあるからというわけです。
当時の進化論的宇宙観がどういう運命を辿ったかの例として、南氏はローヱルの著作が人類学・民俗学的でもあるという風説を踏まえて、次のような例を挙げました。19世紀の進化論的人類学(または歴史主義的人類学)は未開社会と文明社会を峻別させるものですが、20世紀に入ってマリノフスキーなどのフィールドワークによる人類学、機能を重視する人類学の到来で、その場を失ってゆくわけです。しかし何と言っても20世紀半ばに提唱されるレヴィ・ストロースなどによる構造主義的文化人類学は19世紀の観点を逆転するもので、例を挙げれば「未開社会」の中に例えば四元置換群などの数学的構造によって記述されるような親族構造などが存在することなどが知られるようになったわけです。社会構造は19世紀に考えられていたよりもずっと共時的であって、いまでは「劣った言語」、「劣った人種」、「劣った文化」というような通時的な考え方は時代遅れで採られないというのが現状です。しかし一方で、違った文化・文明を蔑むような一元論的観点を保持するのはテキサスだけでなく、ボストンにもいまだあり得るという皮肉が含まれます。
同じようにローヱルは日本が将来興味深い発展をする構造を保っていることに、さほど注意を払わなかったせいで、日本を忘れることが出来たと皮肉ることができるかも知れません。
南氏が挙げたローヱルの観測記録と彼の分析についてはここでは略しますが、1984年の火星は2005年の火星に似ていますので、またの機会に『天界』に紹介することがあろうかと思います。
§6. CMOワークショップ
4日午後と5日午前は恒例の(CMOの第12回)「惑星観測者懇談会」に充てられました。南氏からは二つお話があり、先ず「2003年の火星」として世紀の大接近であった2003年接近の概況と、1986年から続けて来た『火星通信』を通じての世界との情報交換、提唱してきた火星面同経度を連日並べて比較する観測方法の今日的意義などの要約があり、これ迄の火星観測への批判・お叱りと共に、これからの方向が示されました。二つ目は、「ローヱルの火星」の三回目で、これは英語で行われました。
OAA木星課の伊賀祐一氏からは木星観測の近況と木星面の合成動画による変化の追跡の例が発表されました。この動画にはシーハン氏も感心していました。安達誠氏からは、2003年12月の火星黄雲についてCCD画像から連日の展開図を作り、これのパワーポイント使用による披露がありました。阿久津富夫氏からは、2001年・2003年と継続して撮影してきた冷却CCDカメラによる画像をもとに、青色光CCD画像の意味、フィルターワークなど、ToUcamなどのWebCamでは捉えられない冷却CCD画像についての解説がなされました。
§7. エピソード
会議中の挿話として二三エピソードを紹介しましょう。
(その1):シーハンさんがS&Tのスチーヴン・オメアラ氏と著した『Mars, The Lure of the Red Planet』(Prometeus, 2001)に次のような文章があります:「日本では、パーシヴァル・ローヱルは、いまだに20世紀の重要な人物100人の中の一人とみなされている。これは、彼の火星に関する考察よりも、彼の果たした外交的役割や極東に関しての本の著者であることが評価されていることもある。その様な無理解があるとしても、誰もが彼を火星の歴史の中で最も重要な人物として挙げうることに疑いはない。」
実はこの日本での現象というは、「100人の廿世紀」として『朝日新聞』日曜版に連載されたものの中で、1998年4月5日付の紙面に100人の一人としてローヱルが採り上げられていることを指しています。この新聞現物を筆者の基調講演で紹介し、ローヱル批判の例として、そこに引用されている二人の主張を挙げました。一人は日本文学研究家のドナルド・キーン氏で、ローヱルの極東に関する著述は、西欧での日本文化の理解に悪い影響を与えていたこと、そのために後発のキーンさんなどが長い間苦労したこと、もう一人は理論物理学者のフリーマン・ダイソン氏で、彼によればローヱルの主張した火星運河・文明仮説などの影響で、惑星科学が真面目に受け取られない時期が長く続いて惑星物理学の発展を遅らせたという見解です。新聞の現物は最早変色していますが、記念としてシーハン氏に差し上げました。
(その2):筆者はまたローヱルがこの期間にどの様な役割を果たしたかを取り上げるため、開国後の来日外国人の動きや意義を『アメリカ人の日本論』(研究社出版、1973年)の中の英文学者・佐伯彰一氏の著述から引用を試みたのですが、あとで、佐藤利男氏から面白い話をうかがいました。
この本は佐藤氏も好く参照された由で、とくにローヱルの著作の抄訳は助けになったということでした。こうしてローヱル研究を進める内、当時の『天界』編集長佐伯恒夫氏は最初ローヱル問題に乗り気でなかったものの、次第に佐藤氏の考察に興味を抱くようになり、ローヱル記事など採用されるようになったとのことですが、その内、佐伯彰一氏は佐伯恒夫家の親戚筋に当たることが判ったそうです。佐伯恒夫氏の奥様が立山芦峅の教藏坊のご出身で、佐伯彰一氏は従兄弟に当たるということでした。このエピソードには会場から小尾信弥先生が佐伯彰一氏を東京大学教養学部スタッフの同僚として、よくご存じというお話も付け加わりました。
(その3):ローヱルの泊まった芦峅の宿は宝泉坊といって、いまは坊跡しか知られていませんが、「隠居」佐伯左内の肖像画などは残されているそうです。シーハン氏や南政次氏、淺田正氏の一行はローヱル会議に先立ち、牧野弥一氏のご紹介で「立山博物館」を訪れ、これらの資料を拝見しています。
なお、シーハン氏は火星課幹事の淺田正氏の運転で、長崎から佐治天文台、福井を経て常願寺川沿いに芦峅に立ち寄ったものです。次いで、(京大飛騨天文台訪門後)木曾御嶽の頂上に雪を戴いた遠望を得るために、飛騨から木曾に出て(御嶽はローヱルの著書『Occult Japan』(1895年)に出てきます)、更には塩尻、諏訪、飯島とローヱル能登行ゆかりの地を訪ねました。次いで松本城、善光寺(両者ともローヱルの撮った写真が残っています)を訪れたあと、シーハン氏達は普通列車でローヱルと同じ信越線に乗り、ローヱルの描写する黒姫山や妙高を眺めたわけです。更に、直江津、能生を経て、親不知では、ローヱルの時代から保存されている壁書「如砥如矢」(『詩経』による)の前に立ち、ローヱルと同じ様にご覧になった由です(この第一級のスポットはCMOの主なメンバーは2002年の内に入れ替わり立ち替わり訪問しています)。穴水には、荒山峠を越えてローヱル会議の前日入られました。
なお、シーハン氏はローヱル会議のあと、松本達二郎氏の御案内で伊丹の佐伯恒夫氏のお住まいを訪ねて、御家族にお会いになり、保存されている20cm反射望遠鏡、残されたスケッチ等を御覧になっています。
§8. おわりに、アウトルック
今回の火星/ローヱル会議は、他の団体とも連繋して会議を行うという初めての試みでしたが、参加団体のお陰で想像以上の成功をおさめることができました。ご協力いただいた各団体、参加いただいた皆さまにはあらためて御礼を申し述べます。とくに東亜天文学会からのご支援、歴史課からのご賛同が得られたことはたいへん心強く有り難いことでした。
ただ、2003年が火星の大接近であったために、われわれ火星課のローヱルについての探究や考察が未だ準備不十分であったことは否めません。今後機会を見て、ローヱルの問題についてはわれわれも研鑽を積むつもりでいますが、シーハン氏も提案されているように、今後ローヱル会議は4年に一度ほどの頻度でアメリカ側と交互に開催してゆければと思っています。4×3年後の2016年はローヱルの没後百年になります。ローヱルは火星観測家に留まらず、プラネットロジィーを志向する思想家でもありましたから、今後とも現代的な意味を持ち続けるであろうと思われますが、今回のローヱル会議でその点を確認し、単にある地方に足跡を残した人物として矮小化すべきものではないということを新たに発信できたのは会議の一つの功績になるかと思います。
なお、聴衆に日本語の分からない外国人が参加しているときは、発表者はタイトルも含めて英語で書かれたポスターを使ったりすべきで、パワーポイント使用でも画面は英文混じりにすべきだと感じました。全くの日本語ばかりでは何を話しているかすら分からないわけですから、無礼でもあります。
ローヱルという名は、日本では殆どパーシヴァル・ローヱルのことでしょうが、本国においては、ローヱル家は矢張り燦然とボストン・ブラーミンの一族であり、おのずとアメリカでは「ローヱル」は更に広い意味を保つものと思われます。今後この方面の繋がりの開拓が出来れば、今回の会議の意味は更に高まるでしょう。
最後に、今回のローヱル会議の開催の趣旨に関して、前もって特別のご理解を戴いた金沢工業大学学園長・総長の黒田壽二氏に御礼を申し上げます。氏は現在中央教育審議会大学分科会の委員として東奔西走のご多忙の毎日であるにもかかわらず、この会議のためにそのときどきにさまざまな便宜を配慮していただきました。また会場使用について金沢工大穴水湾自然学苑の斉藤教授、米田室長ほか三井船長の皆さまにもたいへんお世話になりました。末尾ながら感謝の意を表します。
なお、この報告を草するにあたり、資料・閲読などで『火星通信』のメンバーにはお世話になりました。とくに『火星通信』主筆の南政次氏には補筆などをお願いしたことを申し添えます。
以下のCMOのInternetのサイトには穴水ローヱル会議に関する記事が掲載されているほか、ローヱル頁も設けられています。ローエル街道のことなど幾つかの記事が出ていますのでご覧下さい。
http://www.mars.dti.ne.jp/~cmo/ISMO.html
会議当日のプログラムは次をご覧下さい:
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn4/LCAnnounce_j_5Mar.htm