短尾の猫
・・・we
touched our midday halt, a wayside teahouse notched in a corner of the road
commanding a panoramic view over the sea. The place was kept by a deaf old lady
and her tailless cat. The old lady's peculiarity was personal; the cat's was not.
No self-respecting cat in this part of
P LOWELL, Noto, VII. Oya Shiradzu, Ko Shiradzu
ローヱルの『NOTO』のVII. Oya Shiradzu,
Ko Shiradzu (親不知、子不知)には幾つも興味深い記述があるが、なかにローヱルが短尾の猫に注目するところがある。直江津から能生を過ぎて親不知に至って、「如砥如矢」の壁書のあたりの、海を見渡せる道の佇みにteahouseがあって、そこで休憩するのだが、その茶店は聾唖の老婆が賄い、彼女の愛猫として短尾の猫(tailless cat)がいた。
試譯すると次のようになろう。
・・・われわれはお昼の休憩時に、海のパノラマ景色を瞠るかす道の角に佇んだ路傍の茶屋に到達した。茶店は耳の遠い老女と彼女の短尾の愛猫で賄われていた。年老いた耳の遠い婦人というのは特異な感じがしたが、猫の短尾という奇妙さはこの猫に限ったことではない。日本のこの地方ではすべての自尊心を保った猫は尾を持っていない可能性がある。猫のこの北の種族はかなり以前から実際に無用な長物を捨てている。もし犬が同じ状況になったら彼は感情を表現するのに悲しくも困ってしまうだろうが、猫は、伸びた尻尾が無くても紛れもなく猫なのである。
シーハン氏はこの文章を極めてローヱル的だと考えているようである。Peculiarityという語から推して、働いている聾唖の老女というものをローヱルがボストンで経験していなかった、と考えるようであるが、もう一つ対比して尻尾のない猫もローヱルには奇妙であり、ここで特有の文章が成立する。ローヱルにとって珍しいはずの短尾の猫について、愛情を込めてやや詳しく触れている。猫は気ままにゴロゴロのどを鳴らして、ローヱルの足に躰を擦りつけたりしている(the cat purred about in her offhand way and used me incidentally as a rubbing post). 立ち去るときに、tabby達(トラ猫と皮肉にもお喋り女)に次のような言葉を残す:I was sorry when lunch was over and we took leave of our gentle hostesses; tabbies both of them, yet no unpleasing pair.
短尾の猫というのは最近では余り見られなくなったが、明治の終わりまではそうではなかったようである。猫はもともと外来で、文獻に猫が現れるのは、889年のようだが、多分六世紀には大陸から入ってきていたであろうとされる。九世紀には「唐猫」という記述があるそうであるから、既に和猫はいたのであろうし、尾の長短についてとやかく言うことはなかったのではないかと思われる。江戸中期までは絵に描かれる猫はみな長い尻尾を保っているらしいが、十八世紀末、江戸後期になると、浮世絵に現れる猫は七割が短尾の猫になるようである。猫好きの国芳ほかの数多の猫の絵に関して詳しい統計があるようである。この江戸後期からの短尾の流行の理由は、鎌倉時代あたりから猫股伝説のようなものが流布し、長い尻尾の猫が化けるというような話があって、短尾が好まれるようになったということのようであるが、ほんとかどうかは分からない。短尾の遺伝子は劣性のようであるから、数が増えたということは短尾同士の交配で根気よく短尾猫を残したということであったろうと思う。
広重:浅草田圃酉の町詣
現在では長尾、短尾は遺伝的に同数になっているという話もあるが、江戸後期からの短尾に対して、その後長尾が増えるのは、明治末期に西洋猫が多数輸入されたことに依るようである。
1885年(明治18年)ドイツに渡った北里柴三郎はロベルト・コッホに師事、1892年帰朝して伝染病研究所の設立に関わるが、1893年には香港へ出掛けてペスト菌を発見している。実際にペスト菌が日本に上陸するのは1899年(明治32年)の様だが、猫との関わりで言えば、1908年にコッホ(骨保)が来日し、ネズミ退治のために飼い猫を奨励するのである。柴三郎は付きっきりでコッホを世話したことは言うまでもない。ドイツより當時一万五千匹の西洋猫が輸入されたほか、東南アジアからも多数入っているようである。翌年に掛けて、新聞などでも「飼い猫の奨励」が喧伝された。
いまでは多分純粋な和猫は見つけるのも難しいだろうし、事実、ウチの飼い猫は三匹とも雑種もきわまったような猫で、西洋の血が流れていることは見た目にも確か、どれも長尾である。更にソト猫が四匹訪ねてくるが、一匹は長毛の西洋猫そのもの、あと三匹の内一匹だけが短尾である。形はよくないが、短尾は指紋と同じで同じものはないようである。
よく、猫の尾を仔猫のときに切るという話が出て、昭和の初めまでそういう風習があったなどと言われるがどんなものであろうか。猫の話は猫股の話に限らず、大袈裟なものが多いのがミソで、証拠が揃わなければ余り引用しない方がいいであろう。
面白いのは、日本の短尾の猫がいまアメリカでよく飼われていることである。純粋種の短尾の猫が珍しがられてアメリカに輸出されたのは古いことではなく、1967年頃に注目され、1968年の三匹というのが最初のようである。同時に、八匹が別のルートで輸出されている。最終的には百匹という記事もある。その後アメリカのブリーダーによって交配などが進められ、1971年に米国愛猫協会(CFA=The Cat Fanciers’ Association Inc:1906年設立)にJapanese Bobtail種として公認され、1976年には猫のコンテストに出る資格も得ている。日本より保存がなされているというべきか。短尾の妙に人気があるだけでなく、賢く、よく遊び、人に懐き、繊細であることなど好まれる要因があるようである。改良によって、四肢が長くなったということもあり、いまでは逆輸入もされているという。尾ナシの猫としてはマン島に発するManxという種もあるようだが、こちらの遺伝子は優性で、全く関係がないようである。
ローヱルが見慣れない短尾の猫について、無用の長物を既に長い間discardしていると書くのは彼の觀察が優れていると同時に、尾が切られたなどという残酷な結論を用いないことに注目したい。筆者はシーハン氏とホイットビィ氏に、ローヱルは尾が切られていると思ったかどうか、ローヱルの書き方から窺われることについて彼等の感想を訊いたが、シーハン氏は “・・・・・sound as if a short-tailed cat had been selected for and bred for in this part of Japan. He may have assumed that was the case and a breed like the bobtail existed here, but unless that's so I assume it may have been customary in this part of Japan to sever the tails, whether for aesthetic or ritual reasons (Bill SHEEHAN).”という感想で、ホイットビィ氏は “I think that by "discarded" Lowell meant that cat's had stopped growing tails, which he seemed to find useless anyway. This is using purposive language to describe a process that Lowell no doubt thought was due to evolution (Sam WHITBY).”と述べている。シーハン氏が正確だと思うが、ホイットビィ氏は日本人がかくも残酷とは思いたくないし、自然が突然変異の短尾を保存することぐらいの想像は出来るわけである。
ここで、数年後のラフカディオ・ハーンの記述を参照してみよう。ハーン氏は猫股伝説を知っている:
It is true that in Izumo some kittens are born with long tails; but it is very seldom that they are suffered to grow up with long tails. For the natural tendency of cats is to become goblins; and this tendency to metamorphosis can be checked only by cutting off their tails in kittenhood. Cats are magicians, tails or no tails, and have the power of making corpses dance. Cats are ungrateful. ・・・・. Cats are under a curse: only the cat and the venomous serpent wept not at the death of Buddah; and these shall never enter into the bliss of the Gokuraku. For all these reasons, and others too numerous to relate, cats are not much loved in Izumo, and are compelled to pass the greater part of their lives out of doors.
(published
in July 1892, The Atlantic Monthly,
(譯:出雲にも、生まれつき長い尻尾の猫がいることはいる。しかし、尻尾が長いまま育てられることは滅多にない。化け猫になるのは、猫の生来の習性であると言われているから、それを抑えるには、仔猫のうちに尻尾を切るしかないとされている。もちろん、尻尾の有る無しにかかわらず、猫には魔性があり、死体を踊らせる力があるのだ。それに猫ほどの恩知らずもいない。・・・猫は呪われた動物なのだ。仏陀が入寂の際に、猫と毒蛇だけが涙を流さなかったことから、この二匹だけは極楽浄土に行けないという。これらに限らず、まだほかにもあれこれと理由があって、出雲では猫はそんなに可愛がられていない。大抵は野外に追いやられ、そのまま野良猫として一生を送らざるを得ない。(新編『日本の面影』池田雅之譯、角川ソフィア文庫)
これは「日本の庭にて」に収められるから、紀行文という分類には入らないであろうが、日本滞在二年で日本紹介を兼ねて英語圏の読者に向けての日本報告であることは確かである。短尾の猫に対する目はローヱルと一寸違っている。更に、文章の質も違っている。ハーンはホントのこと(短尾の猫が出雲にいる)、ホントかどうか分からないこと(出雲では猫はそんなに可愛がられてはいない)、本当でないこと(仏陀の入寂に猫と毒蛇だけが泣かなかった)を混然と書いている。多分、ハーンは、他の場合と同じように、これを好事な伝聞で描いているのであろうと思うが、私は當時の出雲の人たちの多くが「猫は死体を踊らせる」などということを知っていたとも信じていたとも思わない(臺灣にもこういう話があるらしいが)。また、ハーン自身が仔猫の尾を切るという行為を見聞している譯ではなかろうと思う。ここには新聞記者のような取材力はあるが、具体的な猫とハーンの繋がりがない。 (袖触れ合うも)多生の縁、もないわけである。猫が仏陀であろうがだれであろうが人間の死に泣かないことは日本人の誰もが知っているし、短尾の猫もいれば長尾の猫もいる。にもかかわらず、日本人は仔猫の尻尾を切るという呪いが存在するという物語を追加するというのがハーンの手、ということになろうか。
ハーンは取材型で、あらゆるものが入ってくるという感じがあるが、ローヱルの紀行文は探究型であって、結論や成果があるわけではないが、取捨選択が行われる。
(宮崎譯について):ローヱルの『能登』は多くは宮崎正明譯によって読まれるわけであるから、上の私譯との違いに疑問をもたたれる向きもあろうから、二三釋明しておく(筆者は翻譯が専門ではない)。宮崎氏には「猫は連続的に尻尾を振る必要はないわけだ」というワケの分からない譯があるが、「連続」は a continuationの譯であろうか。しかし、これは胴体からの続き、つまり尾そのもののことである。連続的に振るから尾なのではない。Be every whitは「どこからどこまでも」という成句だから、ここは全くの誤譯であって、単に「猫は尾がなくても何處から何處までも猫である」というに過ぎない。もっとローヱルの文章を壊しているのは「老婆の一風変わった様子には人間臭いものを感じたが、尻尾のない猫はあまり感心しなかった」というくだりである。老婆のpeculiarityはpersonalであるが、猫のそれはpersonalでなかった、という文章であるが、これをハーン式に読むと、人間臭くなろうが、personalというのは独自、独特ということであろう。強く譯せば老婆の方は例を知らないが、猫は普遍的である、ということである。だから、「感心しない」などということは何處からも出てこない。何故普遍的かということもローヱルは説明している。最大の無明な宮崎「解釋」は、尾を「切り捨てる」としていることである。ローヱルがそうは書いていないことは上に述べた。
南政次Masatsugu MINAMI, CMO Fukui
Key words: ローヱル、ローエル、ローウェル、親不知