東 風 吹 か ば
★☆二月始めの「立春」から季節は進み、はや「雨水」(黄経230゚)を過ぎて、冬も終わりに近づき陽光は眩しくなり寒さもゆるんできた。一月の下旬に和泉川に寄る鴨、鴫(鷸)、翡翠など水鳥を眺めて川辺を歩いている時に、相鉄線高架沿いの殺風景な場所に白梅の古木を見付けた。遠目には桜の樹と見紛うばかりの大きさで、ちらほら開いている白い花に気が付いて近寄ると立派な梅の木であった。★☆このところの暖かさで此の古木も満開となり見事な姿を見せている。ご近所の方の話では、線路が通る前は旧家の庭木であったとのことで、切り倒すに惜しく残してあるものと思われる。長後街道(大山路)と和泉川の交差している場所近くの川の土堤にあり、高架を挟んで高台側には孟宗竹の竹林が残っていて、昔日には良い眺めの景色だったろうと思われるが、いまは周囲には貸倉庫置き場などがあって、時代とはいえ無粋な姿で無惨である。★☆梅の花と言えば、菅原道眞の和歌「東風吹かば にほいおこせよ梅花 主なしとて春を忘するな」が思い出される。東風と書いて「こち」とよみ、南風の「はえ」と対である。沖縄の地名にも残っていて、『火星通信』の中では幾度か取り上げらているのでご存知のとおり、2001年に観測でお邪魔した湧川哲雄氏お住まいの東風平(こちんだ)の他、南風原(はえばる)など。★☆菅原道眞は、藤原氏一族隆興の頃、右大臣職にあったが、讒言により昌泰四年(901年)太宰権帥に左遷され、延喜三年(903年)流謫の太宰府で病没した。薨年五十九歳。この和歌は、筑紫に配流される際に愛着深かった邸宅の梅に向かって詠んだ歌とされ、「拾遺和歌集 雑春」に採り上げられている。道眞は没後に左大臣、太政大臣と官位を追贈されたのだが、それは祟りを懼れた為とされている。また、北野天満宮の祭神として祀られ天神信仰の対象となった。各地にも分祀されて天満宮が造営され、学問の神として今でも受験生の詣でるところである。天満宮には縁の梅の樹が植えられる事が多く、「湯島の白梅」は湯島天神にあり、江戸の梅の名所でもあった。★☆拾遺和歌集には、他にも道眞の流竄のみぎりに詠まれた歌がいくつか採録されており、「星」の言葉の入った和歌として巻第八 雑上から「流され侍ける道にて詠み侍ける」歌を紹介しておこう:
天つ星
道も宿も有りながら
空に浮きてもおもほゆる哉
村上 昌己 (Mk)