Forthcoming 2005 Mars
(6)

 

1990年の接近の場合

 

Masatsugu MINAMI


English here


 0° はじめに:今回の接近に似た接近で最も時期的に近いものは1988年の大接近の後の1990/91年接近である。但し、2005年の衝は7Nov(λ=329°Ls)であるのに對し、1990年には27Nov(λ=340°Ls)であったから、やや違っているのだが、これは1988年の大接近が2003年のそれと火星の季節も視直徑も相當違っていたことからも頷ける。但し大接近は一ヶ月も違っていた(衝のLs277°Ls (1988)250°Ls (2003)と大幅な違いであった)のに對し、今回は廿日に縮まり、Lsの差も半減である。というわけで、2005年の觀測のために少し1990年の接近を振り返る。以下、日付より、λ値に注意すると好い。出來れば、今年の火星?をひろげて參照されたい。

 

 1° 概況:『火星通信』は1990年四月5日號(#086)から1991年五月25日號(#105)まで月一回乃至二回のReportで廿回に亘って追っている。國内のレギュラーな觀測者は18名だが、1988年の34名より減っていることは確かである。觀測數も約2700點と前回比20%減であった。ただ、岩崎徹(Iw)氏は400枚の觀測數をコナした。中島孝(Nj)氏もこれまで最高の498枚のスケッチを殘している(當時51歳、Nj氏の最高枚数は1999年に來る)。筆者(Mn)はこの年、888枚だが、1986年、1988年より減らしている。中島氏の好調は、夏場に觀測が捗ったのと福井市自然史博物館が改築されてから準備室の居住性が増したことにも據ると思う。

 尚、BAAの理査・麥肯(RMk)氏の1990/91年接近の綜合報告(JBAA, vol 102, No 5, Oct 1992)によると英國内の觀測者數は33名で、われわれを凌いでいる。それでも1988年に比べ、觀測者も觀測數も半減した様である。

  觀測の開始は、筆者の場合大津で4Janからだが、軌道に乗るのは三月末からで、福井市自然史博物館天文台では29Mar(λ=193°Ls)からNj氏と協同觀測を開始している。以下、やや詳しく述べると、四月、五月と南極冠が明確明白でこれは励みになっている(1Aprilλ=195°Ls)。六月には圓くこぢんまりとして23°S)、月末には小さくなる。デプレッシオニス・ヘッレスポンティカエが濃い。2005年にも五月下旬φ25°S近くになる。δ8"に近い。

 當時前半はccdは活躍していなくて、矢張りわが国でも觀測が活發になったのはδ9"角を越えた八月からで、八月中だけでスケッチ・写真併せて約350點寄せられている。八月中旬にλ=280°Lsになっているから、南極冠が話題である。九月後半には颱風1920號がやって來て奮わないが、十月には天候は回復し、中旬にδ15"に達した。(1Octには土星に三十年ぶりの巨大白斑が出て、沖縄の伊舎堂(Id)氏、湧川(Wk)氏などが發見し、宮崎(My)氏が直ぐTPで撮影したのはこの年である。)

 十一月(λ=326°Ls~342°Ls)には國内だけで500點の觀測が報告された。ノドゥス・アルキュオニウスやギュンデス、プロポンティスIなどが捉えられている。ただ、ユウェンタエ・フォンスなどは1988年に比して難しくなった。但し、ニロケラスの雙葉型などはまだ容易である。十二月に入って沖縄は夏のような天氣であったようである。1991年一月(元旦でλ=358°Ls)にはδ13"に落ちたが、まだまだシーズンである。2006年元旦(λ=350°Ls)にもδ12.1"の視直徑である。1991年はIw氏は三月まで北極雲を追っている。福井ではNj氏の7May1991が最後になった。δ5"λ=057°Lsφ10°Nであった。

 

 2° 第一の黄雲 大黄雲の季節に入っても、1990年には觀測されていない。北陸の梅雨明けは七月20日で標準、この年は久しぶりの夏らしい夏となった。琵琶湖が1939年以来の渇水という報道があったし、大阪も真夏日が續き1939年の紀録を更新したらしい(尤も1994年には更に猛暑が來る)。ソリス・ラクスは梅雨明けぐらいから好く觀測されるようになり(ソリス・ラクスはシーイングに依存し、寧ろ小接近の時の方が見えやすいことがある)、十月までに三度眺められた譯である。但し、十月はじめにはφ3°S迄下がったから、南半球は難しくなったのだが、下旬には南極冠がλ=317Ls~321°Lsで明確に捉えられている。この時期北半球が好く見えるようになったことで、4Oct(λ=310°Ls)にパーカー(DPk)氏とビーシュ(JBs)氏がクリュセからエオスに掛けて黄塵の擴がりが觀測されているが(IAUC5116他、ビーシュ氏のLtE on 6 Oct-CMO#095 p0808)、この黄雲は最近MGSの結果などから注目されている北半球起源、南半球へ廻る黄塵であったようである。ただ然程の規模でなく日本でもいろいろ觀測はあったがハッキリしない。

 

 3°北極雲の活動:十月下旬にはマレ・アキダリウム方面での北極雲の活動が激しく觀測されるようになり、注目された。筆者の連續觀測はCMO#096 p081620Oct23Octの動きを二十四圖で示している(λ=320~321°Ls)。なお、James MUIRDEN編の"Sky Watcher' Handbook, The Expert Reference Source for the Amateur Astronomer" (Freeman, Oxford, 1993)の筆者の稿にも此の圖を入れた。ここでは22Oct(λ=321°Ls)ω=030°Wφ=04°Sδ=16.1"のスケッチを引用する。マレ・アキダリウムの一部が北極雲を透かして見えるのであるが、毎日様子が異なる。このときのスケッチブックをあらためて見ると、この頃は氣流も好く、南極冠なども恒常的に見えているが、北極雲は毎日毎回實に激しい動きをしていることが記録されている。多分、南端の方にはアウトバーストがあり黄塵混じりの動きがあったかも知れない。このλ=310°Ls以降の北極域の觀測は重要なのである(2003年のλ=315°Lsの黄雲も北極域起源の黄雲であることはペリエ(CPl)氏が指摘している)、しかし、2005年の場合、1990年と違って、φ11°S迄しか行かない。λ=310°Ls(21 Oct)以降はφ13°Sより南になる。尤も、δ20"近くになっておりクリュセの監視には問題ないし、南半球は依然有利である。但し、日本からクリュセが夜半に見えてくるのは十一月に入ってからである。

 

 4° 第二の黄雲:なお、もう一つ日本からは縁遠い話であったが、2Nov(λ=326°Ls)にイタリアでアウロラエ・シヌスあたりに黄雲が出たという話があった後、3Novにはプラット(PLATT)によってccdでキャッチされ、ヨーロッパで追跡されている。これは明確な痕跡を残している。様子は先に引用のRMk氏の報告に詳しい(これらのレポートの要約はCMO#112#124參照)が、もっと整理されたものは矢張りRMk氏のMemoirs of the BAA, vol 44 (1999) Telescopic Martian Dust Storms; A Narrative and Catalogueにある(pp112~115)6Nov(λ=329°Ls)での圖を見ると(特にPicで撮られている)北半球にも及んでいるのであるが、案外これも北半球起源の黄塵かも知れない。なお、RMk氏の整理によるとこの年は三個黄雲が觀測されたようで、三番目は矢張りクリュセに4Dec(λ=344°Ls) ~ 16Dec(λ=350°Ls)。何れにしても、この時期300°Ls ~ 350°Ls)は重要である。

 とここまで書いて、實は十月下旬の北極雲の激しい動きは、周邊に黄塵混じりの嵐を呼んで、十一月上旬のクリュセ-エオス邊りの黄雲の前兆であったのではないか、と思われてきた。當時は考えもしなかったが、黄雲がヨーロッパで引っ掛かったといわれる、2Nov(λ=327°Ls)には筆者は大津でω=242°W(14:20GMT)から始めて19:40GMTまでつまりω=320°Wまで追っている他、My氏も3Novに同じ角度で追っている(写真參照)。マレ・アキダリウムが出てくるかというというところであるが、殘念ながらここまでであった。北極雲はこの日も相當強かったのである。アジアからヨーロッパまで、觀測地帯に空白があるのは好くないのだが、依然として解消されないだろう。

 

 5°タルシス山系:ところで衝前のタルシス山系の動きは注目されるところであるが、幸いアルシア・モンス活動の第二のピーク期に當たるλ=310°Ls邊りは例えば18Oct(λ=318°Ls)に宮崎(My)氏によってω=110°Wなどで明白に捉えられている。もう一周り後はギリギリに衝前に來て、My氏の18Nov(λ=335°Ls)19NovIntRBは貴重である。アルシア・モンスはB光で前回や1988年のλ=280°Ls邊りの鋭さはなく、活動が「どん底」であることを示している。一方、雲のないオリュムプス・モンスも明確である。ただ、1988年の時のような反射の輝きはないように思った。なお、2005年には十月末λ=315°Ls邊りで日本からこの邊りが見えるので注意すると好い。但し、衝直前である。一周前の九月中旬からも待機すればλ=290°Ls邊りが狙える。尤も、第二のどん底は今回は衝後になるので難しい。(第一のどん底はλ=225°Ls~230°Ls邊り。視直徑が8"臺でこれも難しい、というのは無いものが無いと證明するのは數段難しいのである。)

 

 6° 雜題:序でに1990年のソリス・ラクス近邊は1986年、1988年型で、前回觀測している人たちには有利に働いている。パシスなど村上(Mk)氏の10cmでのTP写真にも出ている(Mk氏は十月20枚、十一月25枚を撮っている)

 この接近は南極冠の最終状況を見るのに適しているのであるが、ωや天候などで必ずしも完全ではない。福井では21Nov23Nov(λ=338°Ls)邊りが最後になった。ω=020°W~080°W邊りであった。次にこの邊りが見えたのは十二月下旬で最早δ15"以下で適わなかった。1988年にはMy氏などがλ=340°Lsまで追っているはずである。

 1990年の十月以降、日本からはλ=325°Ls以降になるが、ヘッラス西部から南に掛けて幅広い明るい帯が記録されるようになった。南半球の秋分000°Ls)を越えても見えていたようである。今回も詳細な紀録が望まれる。また、特に十二月になってから、ヘッラスが出て來た後の朝縁に白雲の塊が三つほど見えるということがあり、6Dec(λ=345°Ls)の宮崎(My)氏のB光には明白に出ており、前後して阿久津(Ak)氏などのB光などにも窺える。

 

 7° 終わりに:取り敢えずは以上、一應、大事なところは『火星通信』を參照したが、主に福井市自然史博物館研究報告第40(1993)1990/91年火星觀測概況報告(中島孝、南政次)」に據った。強調したいのは、λ300°Ls邊りから再びクリュセの見える範囲が南北共に重要であるというのは換わらないということである。大氣の動きについては、ccdの場合20分ごとでの觀測が望まれる。

  尚、1990年、福井では、最接近の日(20Nov)も衝の日(27Nov)も天氣が悪く觀測が適わなかった。CMO#098のレポートを見ると、日本は何處でも同じであったようである。但し、十一月後半の二週間で、七日から九日は晴れていたようである。十二月は、前述したように沖縄では夏場のシーイングであったようであるが、Iw氏のところ(宮崎市)も好く、筆者も大津と福井で1日から10日まで連續して觀測している。福井の冬は今年(2005)のような場合、どうしようもない感じであるが、1990/91年の時は比較的と好かったように思う。

 尚、Iw氏は7Dec、この年209枚目のスケッチで、1984年の火星觀測開始以來1000枚に達したとある。まだ髪もふさふさで三十歳になっていなかった。7Dec210枚目には次の名文句がある「Grace's Fonsとはこれで21世紀にまでお別れかも知れない。」多分、そうなったと思うが、扨て、21世紀に入ってご覧になっていましたっけ。

 


Back to the Index of the Coming 2005 Mars

Back to the CMO Home Page / Back to the CMO Façade