CMO ずれずれ艸 (南天・文臺)
その陸
今年(2000年)六月でアントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリの生誕百年となる。『星の王子さま』の内藤濯譯は1953年の発刊以来、五百万部を越えたそうである。今年三月10日、生誕100年を記念して、岩波からオリジナル版(サン=テグジュペリ自身が出版を見届けている1943年版)の翻刻版が出された。既に十四万部売れているようである。
『火星通信』では、サン=テグジュペリが行方不明になってから五十年目の1994年に一文を載せた(CMO #143 25 March 1994)。それをここで、再録する。
岩波書店発行の生誕百年記念版表紙(2000年三月10日)
サン=テグジュペリ
◆ 先達ってのニューズで、アントワーヌ・ドゥ・サン=テグジュペリAntoine de Saint-Exupéryの搭乗機が地中海の藻屑の中から五十年ぶりに発見されたと知り、感慨があった。1944年七月にサン=テグジュペリ操縦の名機P38ライトニングが地中海に落ちて行き、彼が行方不明になったときから五十年、ということだが、当時撃墜の様子を見ていたドイツ人が場所を特定していたので、大体の地域は判っていたらしいが、今回、実際P38の機影が海中に確かに見い出されたということのようである。しかし、遺族の希望で、機体はそのまま海中に沈めたままになるらしい。
『星の王子さま』の読者には、あの「かわいい」王子の不思議な最後の場面と重なって、サン=テグジュペリの最期は印象深いのではないかと思う。彼は1900年の生まれ、帰還しなかったのは四十四歳の時であった。二十一歳頃から飛行機の操縦を始め、航空郵便の定期航路等を開拓するのだが、遭難や行方不明は絶え間無い。それらは『南方郵便機』や『夜間飛行』などの遭難死や行方不明に結実しているが、『人間の土地』での遭難と生還の物語はやはり胸を打つものがある。
彼の航路はトゥールーズ邊りから、アフリカ西端のカサブランカ、アガデール、ダカール、そのまま真っすぐ南米に方向をとって、ナタルからリオ・デ・ジャネイロ、ブエノス・アイレス、更には南米大陸南端に及ぶものだが、彼の小説の特長は、その歩幅の大きさにある。人が松林を歩む様に、彼はアトラス山脈を越え、サハラ砂漠を跨ぐ。夕陽に向って飛ぶことも出来る。事件は単純化されて来るが、しかし、それらは崇高な領域に昇華され、生と死について我われとは違う径庭を示す。
サン=テグジュペリの頃は計器飛行という譯ではなかったから、天候、気象には特別の触角をもっていた。夜間飛行においては「明かり」に特別の意味があった。月や明るい星は燈臺である。五里霧中を方向も分からず飛びながら、フッと天空に星を二つ三つ見付ける刹那、というのは我われが星を眺める瞬間とは譯が違うであろう。星の穴が「魚梁(ヤナ)の中の餌」のように陥穿(オトシアナ)であることもある(堀口大學譯)し、ときに星か燈臺か見分けがつかなく、機体が自然と傾くときもある。だから、逆に読者としては、静かな快晴の夜をサン=テグジュペリが何の苦労もなく操縦桿を握っているらしいと想像できるときはホッとする。そのとき、「明かり」として彼の視線の下にあるのは、ともし灯である。ともし灯は「山野にぽつりぽつりと光」りながら燈臺として彼の安全な航路を指し示すと同時に、人恋しいサン=テグジュペリに一軒々々の物語を指し示す。「影の中の一つ星、あれは離れ家だ。星の一つが消えた、あれは愛の上に閉ざされる一軒の家だ」(『夜間飛行』) 。アルゼンチンにおける最初の夜間飛行もその様であったようだ(『人間の土地』)。「ともし灯ばかりが輝く暗夜で....あのともし灯の一つ一つは、見渡すかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇跡が存在することを示していた。」 彼はそうしたともし灯の一軒で誰かが「アンドロメダ星雲に関する計算に没頭」する様を想像したりする。そして「これら生きた星々の間に交じって、閉ざされた窓々、消えた星々、眠る人々が何と夥しく存在することだろう....。」
こんな具合だから、サン=テグジュペリの小説には「星」という単語はそれこそ星の數ほど出てくるが、二三を除いて特定されることはない。彼は実際には自然科学に強く、『城砦』にはプランクの定数hが出てくる程だから、実用上も星座や星の固有名について多くの知識があった筈だが、小説ではカサブランカなどの地名ほども重要とは考えなかったのであろう。寧ろ、そうした誰でも保てる様な知識より、遥かに違った空間を現出したかったに違いないと考えてよいであろう。
私が一等強く印象付けられている挿話は、『人間の土地』にある(のだが、実はこれを書こうと思って再読してみたら、やや印象が違う、というか詳しい経緯は憶えていなくて、やや内容が異なってしまっているのであるが、ここでは私の記憶の方のイマージュを採り上げることにする)。サハラの西端の海岸縁に底が円錐形になった台地が幾つも並んでいると想像してほしい。大小様々だが、高さは三百メートルばかりで一定している。上部は平らで、磨耗した貝殻が細かく堆積し、堅くなっている。その台地の一つに主人公は不時着したと想像してほしい。飛行機を降りて、縁を廻って下り口を探すのであるが、どこも絶壁に近く、下りられない。しかし、下り口がないとなると、逆にこの懸崖を昇ってテーブルに到達したものはこれまで誰も居無いであろうから、この台地は珍しくも処女地で、自分が足跡を印した最初の人間ということになる。これは子供地味ているかもしれないが、主人公にはしばしの感慨であった。ところが、暫らくして、彼はそのテーブルの上に決して無視出来ない石ころを見出すのである。これには些かガッカリであった。当然、この堆積台地には砂やサザレ石こそあれ、岩石の欠片が存在するはずはなく、存在するとすれば(実際そこにあるのだが)、それは誰かが外から持ち込んだものであり、ここは前人未到では無かったという事になるからである。しかし、その拳大の石ころは涙の形をしており、金属の様に重く、主人公にアッと思わせる。実際は、その石は何千万年も人に触れられる事無く、そこにあったのではないか。そして、林檎の樹の下に林檎が落ちるように、これらは天の林檎の樹から落ちたのではないか、と。もし、樹が揺すられて林檎が落ちるならば、統計的に幾つも落ちるように、天の林檎も規則的に落ち、それらは落ちたまま、そこに留まっているのではないか。主人公はさっそく調査を開始し、こうして一ヘクタールに一個の割合で、隕石を拾い集めて行くのである。「僕は....この星の雨量計の上に立って、千万年を一瞬に圧縮して、この悠々たる火の大雨を眺めるのであった。」 (このエピソードがサン=テグジュペリの中でどのように昇華しているかを公平に紹介するためには、その直後の次の文言を引用しておくべきであろう。「ここで最も驚嘆に値する事柄は、地球のまるい背中の上に、磁力のある卓布と星々の間に立って、人間の意識がそこにあり、この星の雨が、鏡に映るように、人間の意識に反映されたという點にある。」)
サン=テグジュペリはプロのパイロットであり、文筆家としてはどういうことになるのか私には判らないが、作品は優れたものでありながら、文体はどこか未完なところがあるのではないかと思う。饒舌かどうか分からぬが、先ず比喩が多いのはいかにも古臭い。上の例でも星はともし灯の隠喩であるし、「紙風船のような、内部(ナカミ)のまるでからっぽな彼」というような直喩を読まされるとゲンナリするが、実は数えあげると切りがない。
戦後、ヌーヴォー・ロマン(新小説)というのが生まれ、その旗手のアラン・ロブ=グリエが(いま手元にないが)或る評論の中で古典的手法を論破しているが、その中で特に隠喩を非難して、例えば「村が谷間にうずくまる」というような悪しき擬人法を排斥している。私はこれを読んだとき、てっきりサン=テグジュペリのことを言っていると思ったぐらいである。(ロブ=グリエはその他、古典的な時間順序の破壊を提唱した。例の『去年マリエンバードで』の原作はロブ=グリエであり、ロブ=グリエ自身もトランキニアンを使って古典的時間をズタズタにした映画を何本か制作・監督している。)
サン=テグジュペリ肖像入りの五十フラン札/ 『朝日新聞』1994年二月18日夕刊から
しかし、サン=テグジュペリの譬喩的作法が成功した例は『星の王子さま』である。これは形式上童話絵本であるから、その兼ね合いが功を奏しているのだと思う。最新の五十フラン札はサン=テグジュペリ死後五十年を紀念して、彼の肖像が描かれているらしいが、『星の王子さま』からの挿画も見える(他にブレゲー14型機)。
今からもう三十年にもなると思うが、岡潔(オカ・キヨシ)氏が奈良女子大学から週一回京都大学においでになり、数学教室で多変数函数論の講義をされていた。毎年そうであったのかどうかは知らないが、私どもが拝聴していた当時、彼は時実利彦著『脳の話』(岩波新書、1962) に心酔されていた頃で、前頭葉を使って考えよ(或いは前頭葉に体重をかけるな)と喧しくおっしゃっていられた時期だが、ある時限『星の王子さま』の話で全部潰されたのを憶えている。岡先生のもう一つ推奨されるのは道元の『正法眼蔵』で、禪の言葉で言えば、「解」の奥に「悟」があるが、まさしく『星の王子さま』はこの「悟」にあたるとおっしゃった様に憶えている。
彼の紹介は実に丁寧であった。先ず、サン=テグジュペリというのは発音し難く、可笑しな名前だと思った(のだそうだ)が、実は仏語ではこう書くと綴りを示され、リエゾンが入っているンだナ、といった調子である。因みに岡先生の論文は全部仏語である。
しかし、『星の王子さま』の方は、内藤濯(ナイトウ・アロウ)氏譯の岩波少年文庫版で、これをお開きになって、最初から朗読し始められる。それだけでない。どうも苦手なのだがとおっしゃって、黒板に挿し絵を大きくお写しになるのである。大人のいう帽子と、上のお札にも出ているが、ウワバミに飲み込まれた象、もキッチリとお画きになる。ネー、ヒツジの絵をかいて、と音読されながら、幾つかのよぼよぼのヒツジも矢張り必要だからと、苦労して模写なさるのである。そして、例のあの穴の三つほど開いた直方体の箱をお画きになって、君の描いてほしいヒツジはこの中に入っているよ、とニンマリされたわけである。多分、この箱を無性に描きたかったのではないかと思ったが、そのためには前提や補題が必要で、可成りの無駄な絵を無理してでも描かれたのであろう。しかし、この『星の王子さま』の有名な話と岡さんの前頭葉内の回路の繋がりを見るのはそうたやすくはない。多分、心に埋め込んだ課題がひとりで成長して、あの箱の話のように軟着陸するのは、一つの悟りなのかもしれないと思ったが、岡潔の幾つかの定理や業績を大体は知っているものの、その推論の過程などはとても追えることではないので、実体験など私には無縁である。大学院の数学の講義で『星の王子さま』とは、と思われる向きには一層解けやしまい。岡氏は亡くなって久しいが(1978年歿)、依然わが国の歴代の数学者の五指には入ると思うし、『春宵十話』や『紫の火花』などの奥行、味わいの深さは依然ユニークである。(ただ、『春風夏雨』に下ると駄目カナ。)
『星の王子さま』は案外、年寄り好みなのかもしれない。岡氏は湯川秀樹氏も教わったという高奇で、もはや枯淡の老人であったし(岡氏の歳は実はサン=テグジュペリと一つ違いで、もしサン=テグジュペリが生きていれば、骨格は違うが同じような老人であったことになる)、譯者の内藤濯氏の方はサン=テグジュペリより遥かに年上で、翻譯出版のころ既に古希だったそうで、晩年、「星のお爺さま」と呼ばれると喜んだという逸話がある。
ただ、サン=テグジュペリを『星の王子さま』に矮小化して狭めてしまうのはどんなものかとも思う。それに「星」というのもやや違うような気がする。原題がそうでないからというのではなく、内藤氏の置き換えは名譯だとは思うが、星の暗喩が消えて、矢鱈「星」が真面に出てきてはいないか、と思うのである。『人間の土地』は「僕ら人間について、大地が、萬巻の書より多くを教える」という力強い文言で始まるのをみると、この大地もしくはその抵抗こそ、サン=テグジュペリの主題であった筈で、天空に散りばめられる星はいつも隠喩でしかないのである。面倒臭くなって来たから、サン=テグジュペリは黄色い椅子に腰掛けて、チョコチョコ何処へでも行くが、決して宇宙へなど飛び出さなかった人間である、と言ってお仕舞いにしよう。
(南 政 次、『火星通信』 #143 1994年三月25日号) 「夜毎餘言」44 から)