CMO ずれずれ艸 (南天・文臺) 

                 その參

 


1998年夏日時計


 この夏は胃と歯を悪くし、クソ暑い中八月には三回も上洛しなければならぬ野暮用があったりして、滅法キツかった上、Ns氏との『天文年鑑』用の原稿、Nj氏との福井市自然史博物館紀要用の原稿が重なった。前者は〆切後になってしまい、迷惑をお掛けしているが、それでも未だ自信がない。後者は1997年の福井市自然史博物館天文臺に限った火星觀測報告で、來年でも遅くはないのだが、今回は『天界』用の綜合報告の前にこちらを整理してからということになったもので、勿論未完である。

 ★八月89日には廣島の森田 行雄(Mo)氏が來福し、勉強された。豫定通り、午後5時過ぎに「雷鳥」で福井駅着、中   (Nj)、西田 昭徳(Ns)兩氏と出迎えた。シーゲルさんの時やOAA総會の時と同じく、Nishimuraで食事と美味しいコーヒーを摂り、歡談するが、未だ暮れ泥む。その内小雨模様になるが、儀式として矢張り足羽山へ。今回はCCDなので、Ns氏が彼の撮像スタイルをドーム内で實地に披露する。冷却カメラは兩者同じだが、焦点合わせでは屈折と反射は體位的に違う様である。

 

(写真)On 8 August 1998 at the Fukui Observatory:
from left, NISHITA, MORITA, MINAMI and NAKAJIMA
 

 

廣島は聨日晴れて、前夜も木星撮影でMo氏は寝不足氣味の由。福井は、所謂梅雨明け宣言無しという妙な具合で、この夏霽れることは殆どない。そこで早々に天文臺は諦め、Nj氏とはお別れし、Ns氏の車で三人が三國に移動。そして、暫しCCD全體や青色光、emailのことなど雜談。最後にMo氏の觀測報告を點検し、どれを畫像處理に掛けるかなど選擇。雜談で遅くなったが、深夜Mo氏はNs氏宅に移動し、Maxlm DLに依る畫像處理の手解きを受ける。多分徹夜作業であろう。

翌日の昼、Mo氏が完成作品を携えて、Ns氏と緑ヶ丘へやってくる。Ns氏は迂闊にもMo氏に作業をさせたまま眠ってしまいました、と言っていたが、Mo氏は案外元氣。ただ、一番期待した火星像がなかなか綺麗に出てくれないとぼやいていたが、MEMは意外と時間が掛かる様で四點だけ完成。拝見。モニターではなかなかの像である。一點はここに紹介するものである。
 将來の青色光の問題ではまだMo氏は決着がつかない。Ns氏の考えではCV-04のチップの様に、青に感度のないものはどのように好いフィルターを使っても駄目で、精々400Eに換えねばならない、となると、少なくとも青色光ではMo氏はTPにシンチレーション・キャンセラ−をかけて撮った方が未だ意味があるのではないかという譯である。

 

Y MORITA's CCD image of Mars on 5 Mar 1997 (085°Ls) at ω=331°W by a 25cm spec with CV-04

 

 Mo氏は午後4時頃の「白鳥」で芦原温泉から廣島へ去った。三時間後、筆者も追っかけるような形で同じ站から、大津へ出た。

 

 21日午後3時頃、フランシス・オジェ(F OGER)氏が福井駅に降りたった。19日に私が京都(久々の京都駅)から還って來て、神戸(オジェ氏は神戸で數學の會議に出ていた)からの電話を受けた。Nj氏と聨絡を取り、當日Nj氏と筆者、筆者の家内の三人が出迎えた。空港から直行した様な荷物で、服装はオジェ氏らしい軽装。少し時間が早いので、オジェ氏好みかと福井市の「おさごえ民家園」へ案内。大變宜しい處でオジェさんは「よくここへきますか?」とお迅ねだが、實は日本側は誰も初めてであった。ここは、縣下の舊い庄屋屋敷みたいな處を移築再現したもので、八棟程あり、どれも興味深い。風通しの好い座敷が多いから、火星懇談會もここで内緒でやれるのではないか、と内緒で話したりする。夕食はまたNishimuraへ。この日は福井市自然史博物館天文臺の一般公開日で、夏の星座案内だが、途中空模様は然程好くないが中止にならず、家内とは別れて、オジェ氏、Nj氏と足羽山へ。一等星も儘ならない状態だが、7時頃からボチボチ入舘者がある。夏の三角形も必ずしも出て來ない。こんな時は話術が必要である。望遠鏡ではアルビレオを入れている。

 話術の一つは、オジェさんの「日時計」の話であった。オジェさんは"Cadrans Solaires des Alpes" (著者は写真のPierre PUTELATと解説のPaul GAGNAIRE、後者はSAF會員)という写真集を捲りながら、日本語で解説する(cadranは文字盤)。この本の各頁はアルプス地方に散在する日時計を全部カラーで見せるもので、161個の日時計が掲載されている。古いものでは1609年の壁日時計がある。壁日時計はどれも壁の窓と並んで装飾としても秀逸であり、風景としても興味ある。添えられている文面も面白い。Fugit Tempus Gavot l'Es Pas Qu Vouo (Le temps s'enfuit, Gavot, ne l'est pas qui veut, 1609), Nous passons comme l'ombre (1872), 或いは上部にL'amour fait passer le temps - 下部にle temps fait passer l'amour (1986)と記されたような洒落たのもある。何れにしても写真が綺麗で愉しい。表紙は1844年のもの。屋上に殘ってオジェさんの話を聞いた人は二十人に満たないと思うが、和氣藹々で好評であった。

 

 

 

 

 

Front Cover of "Cadrans solaires des Alpes" by P PUTELAT showing a vertical sundial at Samoens built in 1844 and restored in 1988 (Device says "Qua Hora Putatis Filius Hominis Veniet, St Luc 12")

 

 

 その夜はオジェさん早寝で、筆者はCMOの編集に入ったので、22日の午前はオジェさんを家内が東尋坊近くの雄島に案内した。岩場だと思うが、オジェさんは泳いだそうである。午後は、北潟湖吉崎御坊へ行った。その夜は晴れたが、NjNs氏とも用があり、筆者はCMO編集で、オジェさんも翌朝早いので天文臺はお休み。

 23()はオジェさんはemail友達に逢いに独りで(おめかしして?) 金澤へ、兼六園など回った後、夕方博物館歸着。Ns氏と今回初めて會う。空は好い様である。然し、土星は遅いので、オジェさんは假眠。Ns氏はMk氏にInternet用の原稿を送ったりし、筆者は編集、一應十六頁出來上がる。Nj氏も(宴會後のお酒を醒ましてから)到着し、觀望と、Ns氏は冷却カメラでCCD撮像を繰り返した。土星も暗いが、環が見事になって來ており、Ns氏は結局朝方まで徹夜で繰り返し土星を撮っていた。Ns氏はMEM畫像處理をドーム内で直ぐに實行したが、土星像は素早く出てくる。
 24日の朝は、CMO Fukuiの三人の見送りで、オジェさんはお馴染み早朝5:19の福井駅發唯一?の快速(米原行)で離福した。

 

 

NISHITA's CCD image of Saturn on 23 Aug 1998 at 16:42GMT (0.9 sec exp) by use of 20cm refractor at Fukui

 

 

 

On 23 August 1998 at the Fukui Observatory : from left, OGER, NISHITA, NAKAJIMA and MINAMI.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ジャンニ・クアッラ(G QUARRA)さんからは八月14日に京都から三國に電話があり(多分その前の日に日本に着いた)、月末か九月初めに京都でお會いすることになった。

月末は大津にいたのだが、こちらに野暮用があり、實際には九月2日に出町柳駅でクアッラ氏と落ち合った。家内のセルボで岩倉の方へ行き、Niftyという喫茶店で歡談した。クアッラさんは元氣そうで、東京でのビジネスの方も手廣く上手く行った様である。新潟のタイナイは天氣が悪かった由。クアッラさんからは阿久津氏や比嘉氏の消息を聞かれた。こちらからはMo氏の火星像とNs氏の23Augの土星像のプリントをNs氏から速達で受けていたので、それをクアッラ氏に渡した。Mo氏の像はピントが矢張り甘いようである。明るい恒星でピント合わせするのがよい、と彼は言っていた。Ns氏の土星については標準の出來で、福井の20cmは良いという感想。

 

Gianni QUARRA at Kyoto on 2 September 1998 (Minami Photo)

 

 

 

 

 

 

 

 

クアッラさんからは、"NUOVO ORIONE"の八月號と"ASTRONOMIA"の七-八月合併號を頂戴した。前者は初心者向けの天文雜誌だそうで、W FERRERIという人の「1997年の火星接近」という記事がある。Marco Falorni天文臺のCCD像とHST以外はスケッチであるが、質は低い。六,七人か。後者はUAIの機關誌でA4判、BAASAFの機關誌と遜色のない出來である。カラー頁は26Febの日全食。他に1996/97の土星の報告をLuigi TESTAが書いている。イタリアには十五人ぐらい眼視觀測者が居るようである。M CICOGNANIが最も觀測数が多い(37)EZ内の白斑は検出されて居る様だが、例の暗點については意識されて居ない様子。

 

 

Cover of "Astronomia" (Luglio-Agosto 1998)
showing a sundial in Brunico

 

 偶然、クアッラさんがこれは面白い報告だと言って、イタリア語文の解説をしてくれたのだが、この號には矢張り「日時計」が出ているのである。表紙もカラーで壁掛け日時計である。cacciaというのはscout (クアッラさんはhunterと言っていたと思う)ぐらいの意味らしいが、meridianaはここでは日時計だろう。UAIには1979年以來 Sezione Quadranti Solari (日時計課?)というセクションがあり、F AZZARITAなどが、アンケートなどで調査、イタリアの日時計全部のカタログを作る努力をしているらしい。來年正式にCatalogo Nazionale dei Quadranti Solari Italianiの第一版が出る様だが、この號に依ると 既に全體で4793個登録されているようである。その内ミラノを中心とするロムバルディアで1379個見付かっている。トリノを含むピエモンテでの953がそれを次ぐが、その中にアオスタと言う處があり、トリノの北、アルプスに近い處だが、ここは272。實はオジェさんに頂戴した写真集に"Alpes italiennes (Piemont Val d'Aosta)"と言う數頁があり、cr en 1917 par le Capitaine E A d'Albertisとある日時計が、偶然この雜誌にも出ているのである(義太利語では meridiana verticale tracciata nel 1917 dal capitano d'Albertis all'Hotel de ville di Aosta)。雜誌の方にはもっと東のヴィチェンツァVicenzaの周りの地圖が載っているが、日時計の分布は點點という感じである。ここもアルプスの南で、フランスの北アルプス、南アルプス、北イタリアにかけて日時計が傳統的に多く分布するのであろう。

 

 

 

 

 

 

Distribution of sundials in the province of Vicenza
(Fig 3 of AZZARITA's article)

 

 

 

 

 クアッラ氏のご子息Claudio Luigi君は幼稚園やTVで二ヶ月ばかりの内に日本語が上手になり、クアッラ氏には日本語で話しかけるのだそうで、クアッラ氏は日本語が解るのかどうか、イタリア語で應えるのだそうである。

(Mn)

 


南 政 次「時時間間:火星通信』207号(25 September 1998)より


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