CMOずれずれ艸(南天・文臺) その十二
Sousekiとは俺のことかと漱石
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私はときどき警察のことをケエサツと書いているが(p858など)、読み仮名としては落第で、ケイサツであろう。実際、オイコラ警察を払拭すべく、“××けいさつ”と看板を揚げているナウい警察署もあるようである。然し、もう標準語ではケ・イ・サ・ツと発音する人は少なく、ケーサツか、ーにアクセントをおけばケエサツだろうと思う。これはセンセーやヘーセーでも然りである。尤も、これは現在のところ未だ微妙で、手元の『現代国語例解辞典』(小学館)という書名の割に小さい辞書はアクセントも付けているが、曰く“長音は「ー」で表わした。「英語」、「尊敬」などのエ行音に続くイは、通常長音化する場合が多いが、イに発音する場合もあるので、便宜上、エイゴ、ソンケイの形で示した”とある。世代によって、また地方によって、未だ「通常」に収束していない向きもあるが、正則アナウンサー達は、通常エーゴのセンセー等と発音していることは明らかである。
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アルファベットは表音文字、漢字は表意文字というのは普通の分類だが、これに従うと仮名は表音文字であろう。実際、五十音は母音・子音に直結している。然しながら、必ずしも1:1でないことは、例えば舊(歴史的)仮名遣いで、蝶々を“てふてふ”としていたことからも判る。このやうに書いても、字の通りには発音しなかった。従って字音文字などという。尤も新(現代)仮名遣いでは“ちょうちょう”と綴って、如何にも音が近くなった様だが、然しこれでも未だ文字通りではない。ここでの“う”は長音を表す記号であって、“ウ”とは発音せず、“ちょうちょう”は“チョーチョー”なのである。但し、全ての“う”が長音を意味する譯ではない。“こうり”は高利では“コーリ”だが、小売りは“コ・ウ・リ”であるし、「結う」は“ユ・ウ”と発音する(これに対し、「言う」は“いう”または“ゆう”と仮名を付けて、“ユー”と発音する)。他に、“おう”の追うや負うも“ワウ”や“オウ”からくる王や応とは違って“オー”と発音しない。一方“オホ”の変形の“おお”は“オー”である。大いにや、多い、覆い等である。狼も“オホカミ”からくる“オーカミ”である。
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ことほど左様に、現代仮名遣いもまだ保守的なのだが、舊仮名遣いと比べると随分現代的であることは確かである。町長さんもいまでは“ちょうちょう”さんで“チョーチョー”さんだが、昔は夫々“ちゃうちゃう”さんで、“てふてふ”さんとは違った。長調は“ちゃうてう”で、これまた違い、如何に年配と雖ども私にもお手上げである。“長”に就いては別に述べる機會があろうと思うが、蝶が“てふ”であるのは、というより、何故これが“チョー”になるかは、大野晋氏によると、もともと蝶は中國語の発音を映してtefuであったらしいが、f が弱くなり、w になり、更に消失して teuとなり、これが→teô →tiô →tyô となった、ということである。但し、正確にはô は上の^の代わりに−が附いていて長音である。(このワープロには、不便なことに、o の上に−の附いた字が無いのである。)★これは、日本語の発音も時代的に変化しているということも示している。だから、戦後だけ取り上げても世代的に随分違っている筈である。よく化石として取り上げられる例は、北九州邊りで“先生”を“シェンシェイ”と発音することで(岩崎徹氏に確かめたことがある。Nj氏も北九州に詳しい)、シェンは中國語のxianにヨリ近い。だからセンの方が訛っているのである。J・ロドリゲス(1576年来日)は“さしすせそ”を“Sa Xi Su Xe So”と綴っているから、シとセはこの頃でも違っていたのであろう。但し、三河以東(縄文文化圏)では既にXe(シェ)はSe(せ)と発音されていたらしい。更に現代の若い女性の“さしすせそ”は更にずれて來ている。
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我々は最早オとヲを発音上区別できないが、この区別が古事記などで大切であること等は、大野晋氏などが再三述べている(オヲクニヌシはオオクニヌシではない。オケノミコとヲケノミコは別人、等など)。この区別が発音上無くなったのは何時の頃か知らないが、既に狂言では「顔を押し付ける」を“カオ・オ・オシツケル”と区別なく発音する筈だから相当昔からではないかと思う。顔は“カホ”だから、ここではオとホとヲが“オ”である。逆に言えば、現代のヲは長音化を防ぐ為に使用されている様なものである。
★NHKの日本語講座で、「紅茶を..」を“Koocha o...”と表記していたように憶えている。始めのooは長音で、普通なら oに上に−を冠せて表記するものである。これは外国人向けの講座で、ワープロにかぶれて、Koucha wo...等と仕無いのは流石と思った。ouと発音しては間違いだし、woは単に約束事で、「ん」をnnとするのとまったくおなじ慣習なのである。紅茶は“コーチャ”であって、Kôcha かKohchaなのである。ここでも oの上の−はないので、 ôで代用し、またohで長音を表わす慣習に従う。ohは oの上にバーが附いたものと同じと見做す。
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字音文字をそのままローマ字に当て嵌めて行くなら、戦前は、東京は“とうきゃう”であったから、Toukyau とでもなってしまう。現在でもワープロ方式を採ると、Toukyou であるが、昔から東京は Tôkyoないし Tokyo、Tokio であって、音を採っている。長音はもともと例えば英語には無いそうだから、親しんで貰わなくては、外国人は発音できないのであろう。同じく徹さんの“とおる”もToruか Tohruとならざるを得ない。芳賀徹氏は前者を使っていられる。
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長音を hで表わすのも煩わしいことのほか、万能と言えない所もある。飯塚さんは矢張りIizukaさんであろうし、大石さんをOhishiさんとすると、尾菱さんと区別がつかないから、真一さんのShin'ichi さんを真似て Oh'ishiさんぐらいにせねばならないだろう。Osaka の様に慣習化できれば、h を無くしたいところだが、五藤さんを強盗さんと区別する必要もある上、大野さんと小野さんを区別しようとすれば、(このワープロでは)前者の場合Ooとするか、Ohとするより外ないのである。
★扨て、漱石さんこと“さうせき”さんとなると、ご本人のサインを一寸調べる暇がないが、手元の『比較文学』32巻(日本比較文学会1989年)がたまたま漱石小特集で、その欧文論文や梗概を見てみるとSosekiとSôseki、それに ôのハットをバーに換えたo の三種類があった。他に外国人向け発音記号として Soosekiというのも可能かもしれないが、表記の場合却って混乱を齎らすだろう。Souseki が話にならない事は上の論から明らかであろう。
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テフテフはchôchôかtyôtyôであろうが、この違いは所謂ヘボン式と日本式の違いである。我々はヘボン式を使うので、而もこのワープロの能力不足の為、長音を考慮するとchoh-choh と甚だ可笑しな表記になる。多分cho-choで十分だろう。★先の飯塚さんのIizukaさんで、この長音が井伊さんと区別が附かないことの他に、ワープロと違う点は、塚がワープロではdukaと打たなくては出てこないこと。一方“地震”はワープロでは“じしん”と打つが、字面からは“ぢしん”だったのではないか、この辺が解らない。いまは“水”を“ミズ”と讀むが、昔は“ミドゥ”に近かったことが、地方によって今でも化石として残っている事から判断されるとのことである。先に引用のロドリゲスでも“ず”の zu に對して、“づ”のdzu となっているので、水は昔ならmidu乃至midzu だったのではないか。日本式では“ず”がzuで“づ”がduでワープロと合っているのだが、読みが違ってきているのである。
★ヘボン式はどうせ英語圏の周囲に限られるであろうし、外国語の発音を字音で表記する(またはその逆)のは不可能なのだから、日本式で十分という考え方もある。外国人に習って貰えばよいわけである。cha chi chu cho はチャの系列でロドリゲスにも出てくるが、cha 等は佛國ではシャであって、俵万智さんがMachi ならば、マシさんになるだろう。まだtiの方がマシという譯である。 Sousekiならスーゼキである。だから、ヘボン式がヨリ好い譯でもない。せいぜい英語読みに近かろうというだけである。更に、習ってもらうと云っても易しくはない。“北京”のBeijing の外人の發話ではベージンとしか聞こえないことからみると、ヘボン式といえども怪しいものである。
★元に戻って、ケーサツだが、これは先の辞書の宣わく通り、今の所 Keisatsu
とするのが、普通であろう。然し、Késatsu というのもいずれは可能であろう。eiは子音に先立てば大体エーかアイかイーといったところであろう。tsu は日本式ではtuである。ヘボン式に慣れると、tuはトゥになっているようだが、それはこちらの勝手な慣れである。山本天文台はOtu に在る。CMO はOtsuかOhtsu となる。
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尚、序でに主張しておくと、仮名は所詮字音文字なのであって、外国語の音質やシラブルにうまく対抗し得ないことは明らかである。light はワンシラブルだが、ライトは三つに別れている。しかも、ラは lに対応するのか rに対応するのか分かりはしない。それに tはト=toでは無いのである。然し、仮名とはこういう記号なのである。従って、無闇に発音を仮名で再現しようとするのは、不可能なだけに愚かである。愚の第一號は上のヘボンさんであって、もともとは Hepburnさんなのであるから、記号としてヘプバーンなり、ヘバーンなりにしておいてくれたほうが好かったのである。ヘボンなどと矢鱈微妙な音を再現するのは、アメリカンのアクセントを聞いて、メリケンとする様なもので、日本の如き識字文化圏には結局は合わないのである。トラック(truck)も、そりゃ聞き様によっては、トロッコと聞こえるだろうけれども、torokko としか再現できない。尤も地下のヘボン先生は嘆くでしょうナ:ヘップバーンとは俺のことかとヘボン。
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(Zheng-Ci NAN)
南 政 次 『夜毎餘言』24 (『火星通信』#112
(1991年十二月25日號) p982 掲載)