CMO ずれずれ艸 (南天・文臺) その十一
う ひ 山 ふ み
CMO
#88 p741 の「觀測野(次馬)帖」は、そこにも書いてある通り、少しずつ書き蓄めたもので、当時のフロッピーの文書登録には「うひ・xx・文」としていた筈である。xxは忘れて了ったが、火星か觀測か天文か、その邊りが入っていて、「文」は「ふみ」と読ませて、僭越にも本居宣長(1730〜1801)の『うひ山ふみ』を捩って(文字って?)いたのである。宣長の場合「うひ山ふみ」は「初山踏み」であって、初めて学問の道に踏み入ろうとする人の為に書かれたもので、こちらはxxの山が暗喩になっている。
私は宣長について特に読んで知っている譯ではないが、小林秀雄の『本居宣長』が本になったとき(1977年)は、大冊だが一気に読んだ。小林秀雄は宣長を遺言にしたようなもので、幾許の余命を感じて少し急ぎ過ぎの書き方だと思ったが、それだけ迫力があった。実際小林氏は、もう『源氏物語』を宣長が読んだ様には読む時間がないと嘆いていた。しかし、幸いに完成した。完成後の『補記』などは、自在だが、最早気分が緩んでしまっている。◆本居宣長については、吉川幸次郎 も一冊上梓していて、これも面白い。もともと宣長は「漢意(からごころ)」を忌み嫌う人で、吉川氏の様な中國語の碩学には似付かわしくないように思われるのだが、吉川氏は先ず宣長の学問の方法に感銘を受けた様である。1938年の例の水害の折り、夙川の母堂を見舞われての帰り、夙川駅前の本屋で岩波文庫本の『うひ山ふみ』を手にして、阪急線の中で眼を通して魅了されたのが初めらしい。少々引用すると「彼の方法が、私がそれまで主として清儒から学びとって、みずからの方法として来た方法と、符節を合するごとくであるのに、先ず感心し」、次いで「宣長とほぼ同じ方法は清儒にもあり、ことに宣長より五つ年下の段玉裁など、いわゆる乾嘉の学者の方法は、もっとも宣長と酷似することを、宣長は知らずにすごしたらしいが、それはさておき、清儒がこのようにみずからの方法を、明晰に総合的に書いた書物を、私は思い当らない、つまり清儒の言語としては現れない総合的な言語が、ここにある」と感心したのである。後漢の許慎の『説文解字』から清の段玉裁が『説文解字注』を編んだ方法は、吉川氏にとっては、まるで『古事記』から『古事記傳』が生まれた方法に似ているのであろう。尚、総合的な書物などとあれば大層な様だが、『うひ山ふみ』は文庫版で二十ページぐらいのものである。だだ、注がイからヤまで五十ページほど附いている。
『うひ山ふみ』は本居宣長六十九歳のときの小著で、丁度大著『古事記傳』を完成した年のものである。『古事記傳』は三十数年の年月を掛けた労作であり、それまで顧みられることの皆無であった『古事記』(漢字で書かれているが、漢文ではない)を訓読注釈したものだが、単に注釈書というだけでなく、宣長の古學の方法が散りばめられ、宣長の人となりがあらわれて、宣長第一の書と評価の高いものである。これは『古事記』の一字一句を直感により、また典故によって綿密に調べていったものであるから、個別的・各論的なものだが、『うひ山ふみ』は『古事記傳』を著しながら宣長がこころに抱いたであろう総括的な事柄を、もの学びの方法として、弟子達に請われて、(イヤイヤながら)したためたもので、逆に言えば、國學とは無縁な吉川氏の琴線にも触れる「国際的」なものを含んでいたというわけである。
実際、『うひ山ふみ』は初心者用に述べられたものだから、極めて具体的であると同時に、一般的な内容を持つ。例えば、「文義の心得がたきところを、はじめより、一々に解せんとしては、とヾこほりて、すヽまぬことあれば、聞こえぬところは、まづそのまヽにて過ごすぞよき」というのは、誰にも経験があることについて言っているし、有り難い教えである。ただ、宣長は「よく聞こえたる所に、心をつけて、深く味ふべき也」と付け加えるし、また「こはよく聞こえたる事也と思ひて、なほざりに見過ごす」のは宜しくないとくれぐれも注意する。我々は、「聞こえる(解る)」を「見える」に直して読めばよい。更に、「聞こえぬ所」はそのまま放置するのではない。「初心のほどは、かたはしより文義を解せんとはすべからず」ではあるが、「まづは大抵にさらさらとみて、他の書にうつり、これやかれやと讀ては、又さきによみたる書に立かへりつヽ、幾遍もよむうちには、始メに聞こえざりし事も、そろそろと聞ゆるやうになりゆくもの也」。一体に、宣長の良さは、そのファジーなところにある。条件・結論が厳しくないのである。例えば、ある自然条件にピッタリ合った生物は、環境のチョットした変化で簡単に絶滅してしまう。生きるものにはファジーな部分があるのである。宣長も、学問の方法 は「大抵みづから思ひよれる方にまかすべき也」、「其人の心まかせにしてよき也」とし、「詮ずるところ學門は、ただ年月長く倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、學びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかヽはるまじきこと也」と言う。才不才、晩学も問題にせず、「暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」と逆説する。
ただ、宣長がはっきり言っているのは、古事記、日本書紀その他の古典をよく読め、という点である。二典の神代上代の巻は「くりかへしくりかへしよくよみ見るべし」。他も「つぎつぎに必ズよむべし」。ただ、巻多い大部のものは大変だろうから、後回しにして、易きから読め、と、上の「初心のほどは」に続くのである。「二典の次には萬葉集をよく學ぶべし」。
『万葉集』を学ぶには先ず読まねばならぬのは國学者にとって当たり前だが、自分でも歌を詠め、というのが宣長の面白いところである。「みづからも古風の哥をまなびてよむべし」、「哥をよまでは、古ヘの世のくはしき意、風雅(みやび)のおもむきはしりがたし」、「古哥をば、いかほど深く考へても、他のうへの事なれば、なほ深くいたらぬところあるを、みづからよむになりては、我ガ事なる故に、心を用ること格別にて、深き意味をしること也」。宣長の『うひ山ふみ』の中での和歌への思いはかなり詳しくて、古今新古今まで触れているが、引用したいのは次の言説である: 「よき哥をよまんとするには、數おほくよまずはあるべからず、多くよむには、題なくはあるべからず、これらもおのづから然るべきいきほい也」。(観測は多くしなさい、それもテーマを決めてやりなさい。)実際、宣長は七十一歳の時すら秋半ばから冬にかけて、 300餘首好きな櫻の歌ばかり詠んだという紀録があるそうである。
『古事記傳』は本格的な「注釈書」と言えるだろうが、宣長は普段の心掛けとして、書の注釋を旨としていたようである。漫然と読んでいたのでは、幾ら詳しく見ようとしても、限界があるが、注釈をしよう心掛けると、よく見えてくる、というのである:「書をよむにたヾ何となくてよむときは、いかほど委く見んと思ひても、限リあるものなるに、みづから物の注釋をもせんと、こヽろがけて見るときには、何れの書にても、格別に心にとまりて、見やうのくわしくなる物にて、それにつきて、又外にも得る事の多きもの也」。注釈だけでなく、何事も書くことを心掛けよ、と言っている。我々なら、スケッチせよ、メモせよ、更に報告文を書けということである。
一方、語釋についてはそっけない。「語釋は緊要にあらず」。諸々の言葉の本の意をガタガタ考えるな、ということである。例えば「天(アメ)」とか「地(ツチ)」とはいかなることかと釋く(とく)ことは緊要でない、というのである。これには説明が必要であろう。
もともと『古事記』の冒頭「天地初發之時」を「アメツチノハジメノトキ」と訓んだのは宣長だが、アメと天とは同じではないという思いが宣長の根本にある分けである。天は仮の字であって、 もろこし(中国)から来たものであり、古人が本来アメと呼んでいたものと同じ筈がないというわけである。天を語釋すると必ず後の「漢意」が入り、間違う、というより、実はアメについての資料としては『古事記』が最初に残されたものである以上、アメについて識るには『古事記』をよく読むより外に道がないという状況にある。だから、「本の意をしらんことをのみ心がけて」語釋するより、「用いる意」の方をより重視する訳である。ツチも「地」であるかどうか分からない、「天地」という座りのよいもろこしの術語に騙されただけのことかも知れぬし、寧ろ、「天ツ神」「國ツ神」の「クニ」であったかも知れない。また、宣長は「初發之時」を「ハジメテヒラケシトキ」とか 「ハジメテオコリシトキ」などとは訓まない。単 に「ハジメノトキ」である。それは、天地開闢などという観念が漢風であると考えるからである。天地初發は「おほかたに」此の世の初めを伝えたもので、天と地の開闢を述べたものではない、そんなことは「やまとごころ」には無いと言うのである。◆逆に言えば、宣長が漢意を排斥するのは、偏に『古事記』から本来の語意を知らんが為であって、語釋は『古事記』からでなければならない。すると、『古事記』の中に埋没する必要がある。語釋などは後でやって來ることである。宣長の三十五年にわたる『古事記』解釈はまさにそういう生活だったわけであろう。アメをはじめ多くのやまとことばを古人はどのように用い、どのように感じていたか、それを感じ取る為に、日夜心を砕いていたのであろうと思う。尤も、結局のところ「かくてアメてふ名のココロは、いまだ思ひ得ず」と言うのだが、これは例えばアメについて宣長以上に心を砕いた人はいないだろう、自分以上に解ってたまるか、ということを意味していると思う。こういう風に、永年『古事記』の世界に生き、毎日歌まで作って心を動かして探っていたような人物は、餘人から可笑しく思われても仕方がない。
宣長の評価は殆ど固定しているが、悪評も最初から絶えない。直かに当った訳ではないが、同時代の上田秋成の批判などは引用で読んでも痛快で、確かに秋成の方が、「国際的」で平衡感覚があって、まっとうである。小林秀雄が秋成の鰯の頭信心説をどう料理していたか忘れてしまったが、宣長の信心にはどれも首肯できる理由があって、彼の古(いにしへ)に対する眼差しが正気であるかぎり、些末なことは言っていられないところがある様である。宣長の「やまとごころ」もああでなければ、気力が萎えるというものであろう。宣長は、しかし、漢學の素養ももっていたし(宣長の「字を古へ名といへり」は吉川氏によると漢の鄭玄の「古曰名、今曰字」から来たというような例)、前に全集を調べたとき、西洋の当時の天文知識についてのメモが載っていたりして驚いたことがある。教養人としての常識はあったし、どうみてもバランス感覚を持ち合わせていないとは言えないが、却ってそれらが、例えば古言の探求に邪魔になるという経験もしていたのであろう。
幸いなことに、彼は生来のアマチュアであった。生業(なりわい)は医術で、自家薬のCMのコピーが残っているくらいである。某藩からの召し抱えも断っている。だから、どのような批判にも自由、無縁であった。しかも、既に、儒学が官学めいていたのであるから、よくぞ強靭であったと言える。実際、彼が権力と繋がらなかったのは幸いであった。宣長の時代が國家神道や皇國史觀の時代であったら、堪ったものではなかったろう。
最近では『古事記』は『日本書紀』の後という説もあり、比較文化人類学がすすみ、日本神話そのもののルーツが外國=異国に求められてきており、また、國学の立場も儒教に対する道教に似た立場に近いとされ ることや、更には古来日本神道と信じられたものの中に道教の影響が色濃く落ちているらしいことなどから、宣長の遊んだ世界が究極をもたない到達不可能な世界であった可能性が別個にあり、評価はこれからも転変するであろうが、ものまなびせんとするともがらは(火星観測者も含む)、あなかしこ、宣長の道をなほざりに思ひ過すこと勿れ。
南 政 次 『夜毎餘言』28 『火星通信』#118 25 June 1992 號 p1045