CMOずれずれ艸(南天・文臺)        その十


地球中心主義者 ガリレオ・ガリレイ


 

チョット中途半端だが、今年(1992)はガリレオ・ガリレイ(GALILEO GALILEI)が死んで350年になるそうである。ということは、ニュートン(NEWTON)が生まれて同じく350年ということだが、どちらが話題になるのだろうか。1987年の『プリンキピア』発刊300年も別に話題に無らなかったぐらいだから、今年もどうということはないであろう。然し、プロジェクト等にガリレオの名を冠するという様なことは起こる。

 

こんにちニュートンが話題に無らないのは、彼の“古典”力学に関する寄与は決定的であったし、世俗的な成功者でもあったにも拘らず、彼の陰険、無愛想な性格が明るみになるにつれて、ニュートン神話が壊れてしまったからであろうと思う。ニュートンは英国の科学界の癌であった、というのはニュートン以後の沈滞ぶりで判るのだが、同時にその時代はニュートン神格化の時代そのものであったのである。「生前その功績が報いられたということはアイザック・ニュートン卿の格別の幸せであった。これは死ぬ前に何一つ栄誉を授から無かったデカルト(DESCARTES)とは正反対である」とフォントネル(FONTENELLE)は追悼文で述べたらしいが、これに対し、王立協会では「こともあろうに デカルトの如きを大ニュートンと同列に扱うとは」ナニ事かと「全員いきり立ったそうである」。いみじくもフォントネルは続けて「イギリス人は、....よってたかって天才を持ち上げようとする」と言っている由。

 

ニュートンの悪い意味での凄さは島尾永康著『ニュートン』(岩波新書)に、フック(HOOKE)との関係で遺憾無く著わされている。しかし、フックだけでなく、フラムスティード(FLAMSTEED)との往復書簡を見ても凄いものである。私はニュートン力学の良い意味での凄さについて、二、三時間ぐらいなら素手で話せたのだが、以来、機會も持たなくなったが、遠慮している。

 

ガリレオも評判の高い科学者であった。和譯者等は崇拝者の如きである。例の裁判悲話はよく作られても居る。然し私はケストラー(KOESTLER)の『ヨハネス・ケプラー』(小尾・木村譯、河出)を読んで以来、ガリレオも好きではない。ケプラー(KEPLER)のガリレオに対する純真な反応に対して、ガリレオのケプラーに対するそれは悪意に満ちているとは言わぬまでも、ピントを外し、フェアでない。いつかガリレオについて調べようと思って、資料も揃えたこともあるのだが、以来、繙いたこともないので、ガリレオについては兎や角言わない方が好いのだが、実はガリレオは過渡期の優秀な物理学者ではあったが、天文学者と呼べるものでは無かった、とも思っているのである。地動説を説いたが、相変わらず地球中心主義の地上物理屋さんに過ぎない、と思っているのである。

 

天文学とは何ぞやということになると困るのだが、私の感覚では、手の届かない茫洋とした世界を光信号だけを受けてその世界像を拵える学問であって、滑車に重石をブラ下げて何グラム等という商人擬いの算術学問とは違うのである。一方、現代物理学が形式的に良い意味の天文学に近いのは、ミクロの世界を同じように光や電子で探査したからである。逆に最新の天文学は文字通り素粒子物理学に近くなっている。時間的にも遠く離れるものを追うからである。天文学者は、だから、そういう遼遠の世界像を拵える人々である。私の範疇では、ホイヘンス(HUYGENS)は一流の物理学者であると同時に、一流の天文学者であった。何度も言うが、土星の環を、環として捉えて行った方法は、光信号を何枚も重ね合わせて、手の届かない環の実像を描いたからである。コペルニクス(COPERNICUS)も、朝永振一郎氏が述べた様に(彼の新書本に出ているかもしれないが、私は実際に講演で拝聴した)、もし惑星の動きを「太陽の上に立って眺める」ことが出来た為に地動説の合則性を確信したのであれば、正しく彼も天文学者だったと言える。

 

ガリレオは、実際に望遠鏡を作り、太陽の黒点を自称最初に見付け(異論あり)、月を観察し、火星の defect of illumination を悟り、何よりも木星の衛星を発見したのであるから、天文学に先駆的な寄与を為したことは確かだが、これだけでは不十分であろう。見つけるだけでは天文学ではない。ガリレオの観測はそれぞれ単発的で、特に勤勉でもなく、たまたま総花的になったもので、彗星が含まれないのはその不運な例だが、お陰で彗星は大気中の現象ということにしてしまう。ティコ・ブラーヘ(TYCHO BRAHE) の様な観測も、ケプラーと込みでなければ完結しないのと同断で、天文学的に完結しているとは言えない。一方、フラムスティードも観測家だが、彗星を朝夕で同一視し、彗星のリターンを描像し、これが ニュートンの彗星軌道の考えを導いたという意味では十分な天文家であった。

 

実際また、後年のガリレオの評価は彼の天體観測によって決まったのではない。数学者のラグランジュ(LAGRANGE)の次の文章に見られる評価が一般的なところであろう:「木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽の黒点などの発見は、望遠鏡と勤勉とを必要としたに過ぎなかった。しかし、常に眼の前にありながらいつの時代にも哲学者の探求を免れてきた現象のなかに、自然の法則を洞察する並み外れた天才を持っていた。」 この後半で意味するのは、ガリレオが得意とする思考実験による洞察で、摩擦とか空気の抵抗などを排して、慣性や落下などを理論化したことであって、天體発見物語と関係がない。(多分、彼の対話論集にあるのだろうが、)高校の物理の授業で、ガリレオの慣性による等速運動を、滑り台を徐々に低く長くすることによって、遂には極限で等速直線運動が実現できるという思考実験を聞いて、泥臭いが巧いものだと感心したものである。同時に、妙に数学的だと感じたものだが、ガリレオには数理的抽象化の先駆といった趣は在る。ラグランジュも 『解析力学』の完成者だが、厳然とした数学者である。

 

ガリレオを読まず嫌いになったのはもう一つ、何かの本の影響があったのだが、実はそれがなかなか思い出せなかった。最初コリン・ウィルソン(C WILSON)の『スターシーカーズ(Starseekers)』だったかと思ったが、一寸違った。此の本は、ニュートンに関しては同国人記述なので駄目なのは憶えていて、これに対し、ガリレオの場合は別だった様に思ったのだが、読み返してみると、心理解剖が行き届いて面白いものの、これではなかった。面白いと言っても、ニュートンの記述がどうもピッタリせず、不適切なところを見ると、ガリレオの方も割り引かなくてはいけないかもしれない。

 

ところで、そのあと問題の本は山本義隆氏の『重力と力学的世界像』(現代数学社、1981年)だと思い当った。尤も、久しぶりに開いてみると、ガリレオを甚だ誉めている部分もあり意外であったが、要点は確かに明瞭であった。山本氏のこの本は、例の紛争の後遺症で大学等での専門書の閲覧が(断られたりしたりして)困難だったにも拘らず、広範囲の原典に当って、独創的な古典力学の著述となっている。彼のアジ演説は魅力的だったらしいが、文章も深みがあって、フランス啓蒙主義側の事情にも詳しいし、オイラー(EULER) についてもこれだけページを割いているのも珍しい。全体400頁を越えるが、数式よりも文章で埋まっている。尚、上のフォントネルの語句も、ラグランジュからの引用も、義隆氏の本からの孫引きである。彼自身(或いは友人)が原文に当っている(フランス語やラテン語は友人に依頼したらしいが、迷惑が掛かる恐れありと、本名は出ていない)。

 

扨てガリレオに就いてだが、山本氏はガリレオの潮汐論(地球の公転と自転の組合せから出そうとする可笑しなものだが、一方ガリレオは、重力に基づくケプラーの潮汐論を名指しで嗤う)から始め、重力がガリレオのアキレス腱だったとする。ガリレオには天體間に働く重力などというものは考えられない。しかし、他方、物体落下の法則や慣性法則について詳しい考察をしているという事実がある。そして、後者の考察の方法にガリレオの真骨頂があったわけである。山本氏は「たしかに、ガリレイの運動理論は時代を画している」と言う。それは、定律そのものよりも、「副次的要因を分別し捨象し、一連の思考実験を適用」したことにあるという訳である。このことは引用のラグランジュが匂わせていることと同じである。

 

しかしながら、逆に言えば、こうしたガリレオの(或いはガリレオの思考方法の)特長というのは、彼が「副次的要因」に充ち溢れている地球上の軋轢から自由でなかったということも示していると言える。重力が、アリストテレス的二元論でいえば、天空の中で発見されたものか、地上で見い出されたものか、難しいところであるが、少なくともガリレオにはそれを天空にまで押し上げる力は無かったのである。『新科学対話』で、「われわれは、どんな速度であっても、一旦運動體に与えられれば、加速あるいは減速の原因が取り去られているかぎり、不変に支持される」と的確に慣性の法則を明文化している。しかしながら、ガリレオは続けて「但し、こういう条件はただ水平面上でしか見出だされない」と付け加える:「何となれば、下向きの斜面の場合には、そこに加速の原因が加わり、上向きの斜面の場合には、既に減速の原因が在るからである。このことからして、水平面に沿う運動は永久的であることが判る。」間違いではないが、山本氏の言葉を借りれば「但し以下は全く不要である」。このことは、ガリレオが例えば宇宙空間での運動というものを想像も出来なかったことを示している。とすれば、惑星間の重力など思いもよらないし、物理的な惑星間という描像すら彼には不可能であったのではないかと言える。この水平方向は、絶対空間の直線を指すのならまだしも、彼の場合地球が球形であることを知っているが故に、更に始末が悪いのである。『天文対話』で、サルヴィチアが「... 上へも下へも傾いていない表面は、あらゆる部分において中心から等しい距離に在る筈です。ところで世界にそのような表面があるでしょうか」と問うと、シンプリチオが「無くはありません。この地球の表面がそうです。尤も、今在るような粗雑で山が多い表面でなく、ずっと滑らかであるとしての話ですが。しかし、凪いで穏やかな時の水面はそうです」と応えるわけだが、こうして彼の水平運動は地球表面から離れることは出来ず、水平は円運動を意味することになり、予想に反して絶対空間での直線運動を拒否し、惑星の運動も含めてプトレマイオス的円に合理性を与える結果になる。ピサでの草の根実験はかくして極めて局所的な性格を引き摺って、彼は地に着いた葦の様に、彼の運動論のどこからも、天文学者としての器量というものが見えてこない。ガリレオは地動説をどう信じていたのか、地に着いていたとは謂え、「太陽の上に立った」とは言えないし、少なくとも、軌道についてケプラーほどの合理的描像で腐心した風もない。ニュートン力学以後の物理学者も数学者も大抵天文学者であったのだが、ガリレオはその狭間にいたとは謂え、例外的である。たまたま錬金術師としてのニュートンは評価されないが、たまたま天體觀測家としてのガリレオは評価されたということであって、これは天體が錬金より素直であったからというに過ぎない。ガリレオは天文家としてはそんな程度であるということである。   

 


南 政  『夜毎餘言29 (火星通信#119 (1992年七月25日號) p1060 掲載)


 

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