アンタレス研究所・訪問
§5: 社交と多彩の影で●高等学校の生物の教科書を開けると、まず「すべての生物は細胞からできている」という話から始まる。「細胞」の英語は"cell"の訳語で、これは「Hookeの法則」のR.Hookeの命名に拠ると解説されている。彼が何故"cell"の名付け親になったのか、その由来は1665年にロンドン王立協会から刊行された著書"MICROGRAPHIA"(顕微鏡を使って観察研究された微小物体についての自然学的な記述)を見ると分かる。彼が"cell"と呼んだのはコルク片を顕微鏡で見たことに拠る。コルクの性質の起因を知ることは、弾力性について研究する物理学者にとって興味深い事であった。コルクは何故こんなに軽いのか。何故コルクは大変水を吸い込みにくく、形が変わらず、水の上に浮いているのか。何故コルクは押されるとあのような弾力性を示して膨らみ返す性質があるのか。何故大きな圧力に耐える事ができるのか。これらの性質を知るために、彼はコルク片の表面の様子をもっと細かく見る事を思いつき、自らの手で開発した光学顕微鏡を用いて、それが「空気が閉じ込められた小さな部屋(cell)からなるものである」ことに拠ることを発見するのである。●この"MICROGRAPHIA"には彼の手に拠る膨大な数の精密画が収められている。その世界は植物、昆虫、鉱物からプレアデス星団や月面のマクロの目によるものまで網羅している。島尾永康『ニュートン』(岩波新書)によると「それはなんらかの問題を体系的に扱ったものではなく、多彩な観察記録である」。HookeはNewtonのようにじっくりひとつの問題と取り組む事はなく、慌ただしく次から次へ、新しいアイデアに移っていったらしい。社交的な科学者であった彼は、1660年に英国に王政が復活して以来四十年間、ロンドン王立協会を牛耳り、年間200もの実験教示を生涯続けた。光学顕微鏡のほかに、シャルル・ボイルの法則も彼によるという話もある。氷点を0℃にすることを提唱したのもHookeである。
●Hookeは有名であるにも拘わらず、その肖像は何処にも残っていない。Newtonが嫌って全て廃棄したという話もある。Hookeは生まれつき病弱で、十六歳から背骨が曲がり、晩年は骨と皮ばかりであったというが、それもNewtonと違って社交的であった彼に対して作られた話であるかも知れない。両者は科学者として研究スタイルは全く対照的だったのだが、島尾氏は「科学者の集団的協力といったベイコン的ヴィジョンに沿った科学者は、NewtonではなくてHookeであった」と指摘する。この両者の対立は長い光学・重力論争によるらしいが、彼は最後までNewtonは自分の研究があってこそ存在できるのであるという考えを捨てなかったらしい。Hookeの没後王立協会はNewtonの手中に入り、Newtonは漸く光学論文を世に著すことができた、と同時に、妬み深いNewtonはHookeのすべてを払拭し、Hookeの足跡をたどる資料さへ葬り去ったという噂である。
(CMO#246、Ts)
§6: 描く論理●誰しもそうだろうが、子供の頃何かなりたいものに具体的な対象がある。私の場合は漫画家か絵描きになりたいと思っていた。●もともと描くという事が好きで、父親が持ってきてくれるレントゲンフィルムの保護紙にストーリー漫画を描いては楽しんだりしていた。想像の世界にいつもキャラクターと脚本、そしてテーマミュージックまで湧き上がり流れていた。大学を出てからもサトウサンペイの漫画教室に通っていたのだから、いささか念が入っている。●考えてみると、だから、ものを考えるときもパターン認識が強く働くように思う。傾向としては右脳優先であろう。図形も端から論理によって構成してゆくのではなく、どちらかと言えば、全体が先に出来上がる。描く時も普通下書きというものをするのだが、私の場合下書きの上に清書をするとどうも巧くない。なぞってしまうので線に勢いが失せ、初めに描きたいと思っていたものから遠ざかってしまうのである。したがっていきなり描く。成功か失敗か結果はひとつということになる。よほどのことが無い限り修正も入れない。部分を修正すると、全体が崩れてしまうのである。まず全体を描く。そして部分を仕上げる。部分修正は全体を壊してしまうのである。
●天文の世界でも、やはり私はこの傾向が出るようになった。計測や写眞にも興味が無かった訳ではなかったが、気がついたら描く事に落ち着いていた。太陽黒点の観測では相対数観測をかなり長くやったが、途切れたことがきっかけで、逆に直視でじっくり見るようになり、スケッチの面白さを再認識する事になった。●相対数に着目していた頃は、一日一回確認すればよいと思っていた。数値自体に着目していたわけである。しかし黒点は刻々と変化する太陽表面の活動現象なのだから、うっかりすると一瞬後には突発的に変化が生じていることがある。全体を瞬時に捉え、その瞬時をコマ取りしてゆくことにより、太陽表面活動を「流れ」として把握してゆくことができるようになるのではないか、と最近はそんな風に思っている。
●機械化されデジタル化された数値論理の時代の中で、描写ということは意味を失いがちである。しかし、描くという行為はあるひとつの視点を全体的に提供するものであり、結局は数値の世界をリードするのではないかと思う。着目点によって描かれたものは変わってくる。テーマを明確に持って描かれたものはそれが浮き彫りされることがあったり、またテーマを持たずに描けば何かを見失い、缺けたものが描かれることになったりする。●簡単に言えば、描く人により表現も違う、という点が大切なのではないか。可視光線の幅すら個人差があるという。だから、各人がその人の目で全体を把握して、そこから部分を描くという営みは、「スケッチ職人」観測者ならではの貴重な情報なのであって、それだけに数多くの眼視観測者が情報を寄せ合うことが大切になってくるのだろう。(CMO#247、Ts)
§7: 安謝にて●惑星觀測者懇談会「CMO夏の学校」で、沖縄をはじめて訪れた。●那覇空港に近づき飛行機が高度を下げた時、紫紺から浅葱色まで変化に富んだ海の中に白い珊瑚礁を周囲に持つ小さな島々の点在する光景が視界に飛び込んできた。既に別世界である。●遠く街中の建造物は白い。周りに目をやると、一つ一つの色がくっきり鮮烈である。いずれも陽射しが刺すように強いためか。緯度が10゚違うだけで植生もかなり異なり、そこここに生えている植物の葉や花まで鮮やかな色調をしている。蔭を求めて一つ路地を入ると、白い漆喰に固められた瓦屋根の上に、守り神「シーサー」が乗っている。
●三線の音色も沖縄の言葉も優しくゆったりして、心が落ち着いてくる。街を歩いていても食べ物屋に入っても何故かみな不思議なほどのんびりしている。●島豆腐とニガウリのゴーヤーチャンプルー、落花生で作ったジーマミー、フーチバー(蓬)やイカ墨のジューシー(雑炊)、ソーキ(骨付き肉)やテビチ(足)、ミミガー(耳)などの豚料理。懇談会で会食した「いじゅの花」、民宿の近くの「あじゃず(JAZZを聴かせる安謝の沖縄そば屋)」、首里城の近くの「わらじ屋」、沖映通りの「レキオス(ポルトガル語で琉球のことらしい)」などで初めて味わう沖縄料理の数々も、民宿の手料理も、みな身体に優しい。そして、ウコンやジャスミン花のお茶やゴーヤージュース。この暑さの中でも元気で穏やかでいられる秘訣なのかもしれない。●沖縄の陽射しと、色彩のコントラスト。そして、ゆったりした風土と優しい音色。Id氏もHg氏もWk氏も、静かな物腰で、元気で心優しい。
●沖縄の空は変化が早く、抜けるような青い空に白い雲が急速に流れ、激しく雨を降らせたかと思うと、一瞬にして強烈な陽射しが戻ってくる。夜も然りである。だから沖縄の觀測者は、風と雲の流れに対して読みが深い。望遠鏡は大なり小なり露天だから、通り雨を予見しなければならないからだ。Hg氏の安謝地域とId氏の首里では雲の流れが違うらしい。滞在する安謝の晴天率は驚異的に高く、通り雨で中断することはあってもいまのところ缺測する日はない。しかし、むかし王様の住んだという遙か遠く東に見える首里城上空には毎晩のように怪しげな雲が湧き上がる。●陽が落ちても、熱気は去らず、望遠鏡の筒内気流もなかなか落ち着かない。ゆらゆら揺れる火星をじっと見つめながら、暖かい沖縄の夜風を身体に感じ、和んだ時間が流れ、いつしか没頭する。●真夏の空にまるで秋のような月が澄んだ光を放つ。さしもの高度の高かった火星もアンタレスを追いかけて、いつしか西の空に傾き、今夜も望遠鏡に覆いを被せて觀測を終える。
● (CMO#248、Ts)
§8: CMO-Okinawaは親切な魔法使い(安謝にて:その2)●私(Mn)が那覇のA荘で陣取った部屋は不可思議な部屋で、ベッドと冷蔵庫と流しがあるほか何もなくて、先ずパソコンの置き場がない。というより空間がないのである。そこで、Id氏が畫板の様なものを持ち込んだ。すると瞬く間にそれが簡易机に變身するのであった。直ぐにノートパソコンと書類で埋まった。●暫くして、屋上で觀測していると暗闇にニューと入道の様な人物が現れ、怯んだが、Wkです、と聲を掛けてくれた。あぁ湧川さん、と納得すると(相撲好きのTs氏は關取とか横綱とか言っている)、小脇の畫板の様なものをガタガタして、瞬く間に四人掛けのテーブルを拵えたのである。これはその後休息その他に重寶した。●もともとHg氏から最初の日の計畫をFAXで頂いたとき心強く思ったが、屋上に望遠鏡が設置される手際の良さには感心した。25cmf8.5反射はWk氏の作で、お岩さんと綽名される疵だらけの鏡だそうだが、私が沖縄で覗いた三枚の田阪鏡に比してコントラストが抜群なのである。筒のお尻は鍋の底、鍋の上部は筒の上部に嵌め込まれている誠に魔法の反射鏡である。●赤道儀は高橋製らしいが、音一つしない。これは好かった。傑作はHg氏が用意してくれた漬物樽(未使用)で、スコールが來そうな時は皆これに入れて蓋を閉める。●Hg氏からは細々と必需品の提供を受けた。大物では椅子、小物では爪切りまで。食料の差し入れも屡々受けたが、Hg氏の好物は私の口に合うのである。●Id氏も状況を?むと何が必要か頭に描けるようで、大きなものでは風除けの壁をシートで作ってくれた。シートやブロックや垂木を必要なだけ持ち込むのである。小さなものでは、蛸の吸い口の様な三つ又。變な話だが私の初めて見るもので感心した。灯取りの爲にコードを引くのだがその長さも目算通りの様である。●雜多な部屋で一品優雅だったのは小さな長方形のお盆で、急須が附いていた。これはId氏の奥さんの心尽くしであろう。●最後に大きな魔法の器械が登場する。---福井のNj氏は、沖縄で『火星通信』を一ヶ月に三回も發行していただいて、福井の苦勞を解って貰えると言っているらしいが、それは見當違いである。二十四頁ならば十二回印刷し、六回折り目を入れ丁合するのであるが、沖縄ではWk氏の勤務先に上がり込んで、Wk氏がA3原稿を十二枚一遍にその魔法の器械に入れると、86%に縮んでB4一冊ずつ裏表印刷されて出てきて、それをId氏が一回折り目を入れ、扱き、私がホッチキスで留め、Hg氏が糊附けする、それでお仕舞いなのである。だから苦勞が解らないと言えばヘンだが、兎に角必要時間は1/3ぐらいであろう。尤もそれからA&W(24h)に繰り出すが。尚、觀測後の仕事だから、始めるのは夜半過ぎである。誠に魔法遣いに相應しい時間帶である。斯くして、還暦過ぎて些か心配であったが、魔法使いに囲まれながら事なきを得て觀測三昧である。
(CMO#249、Mn)