ジェフ・

ビーシュさん

來日

 ALPO Mars Section, Computing Section  

 

 ジェフリー・ビーシュ(JBs)さんの名はドン・パーカー(DPk)の名と並んで好く知られているが、パーカーさんほど觀測を熟さない所爲か馴染みは薄いかも知れない。然し、私の印象では文章の立つ人で論客でもあり、強引で單刀直入にものを言う人というイメージがあった。お會いした感じでは、實際には磊落な感じの方であったが。

 

 ALPOの大抵の火星レポートはJBs-DPkのコンビほかで一緒に書いている。JBs氏は觀測器やコンピュータに強いことでも知られている。アメリカの觀測者はJBs氏のソフトWIMPでωなど計算しているようである。

 

 私は通曉していないが、1981年にケープンとビーシュが火星大氣に關して"Computer Program"を書いていて、これは1983年から1988年に掛けての "The Meteorology of Mars" (J ALPO)三部作の觀測統計操作に結實している。

 CMO關係では1986年の火星のカラースライドを貰ったという記憶があるが、これは『火星通信』に載っているはずである(ただ、私がミススペルをしている爲に私は見たくない)。ビーシュ氏の1988年の南極冠のスケッチは『スカイウォッチャー』誌1989年の九月號かの報告(淺田正、南、中島孝)に引用されている。ここにはパーカーさんのTP火星像數葉と共にパーカーさんと彼の41cm望遠鏡の写真が出ているが、外装その他についてビーシュさんのアイデアが入っているとキャプションに書いてある(私が書いたのだが)。この雜誌は複數持っているので、一冊この際ビーシュ氏に進呈した。

 

 JBs氏は話によると1975年くらいから、DPk氏と一緒のようだが、1981年から火星課の幹事になり、1986年からはDPkさんと共にレコーダーを勤めている。暫く退いたこともあるようだが、昨年の公職引退前後から再び籍を置いているようである。大澤俊彦さんの消息に關する問い合わせをしてきたのは最近のビーシュ氏である。

 

 扨て、前號のLtEでご覧になるような經緯でお會いすることになったが、折角だからということで、お話を伺うという手筈を整えた。幸い横濱の中島守正(Nk)さん、常間地瞳(Ts)さんの協力が得られ、三月24日に會合することで計畫もたち、また實際この日は豫想以上に上手く進行した。

 集合場所は横濱駅西口のTGIFというレストランで、ここはビーシュ氏の御子息のドンさんのご存じのところで、實は日本側は誰も知らなかったのであるが、村上昌己(Mk)氏が向こうの指定する場所が一番無難でしょうということで決まった。そう分かりの好いところではなかったが、不思議と皆さん1時の豫定時刻通り、守正氏、常間地さん、村上氏のほか石橋 (Is)氏と西田昭徳(Ns)氏が駆けつけた。ビーシュさんの方は奥さん、御子息夫妻、それに一番小さいお孫さんをお連れになった。TGIFというのは外國人や若者に知られた處らしく、中はたいへんな賑わいで、この入り口附近で皆さん握手し挨拶を交わした譯であるが、適當な座席がなく、どういうことであったか、直ぐにワールド・ポーターズの方にタクシーで全員移動した。このビルはMM21地區にあって、既に中島(Nk)さんによって六階に小会議室を豫約していただいており、豫約時刻まで五階の美風レストランで休憩したが、ここに丁度十一人が座れる大きなテーブルがあり、暫く歡談と飲食の場として恰好であった。日本人の誰も知らない珍しい料理も出たが、例えば玉葱を、中心を殘して切れ目を入れて丸ごと揚げたもので、Ts氏によれば、ビーシュ夫人はアメリカの普通の家庭料理だと嬉しそうに紹介していたそうである。ピリカラのチーズフォンデュとか、矢張り横濱は洋風ですな。ここで中島守正(Nk)氏がJ ALPO32 (1988) p185JBs氏とDPk氏共著の1984年の觀測報告を示しながら、この中に守正氏が登場していることを自己紹介、JBs氏もどの號かピンと來たようで、何となくNakajimaも憶えていた。この報告にはNk氏の6 June 1984のスケッチが掲載されているほか、表紙はJBs氏の北極冠域の鳥瞰圖である。

 阿久津富夫氏森田行雄氏熊森照明氏2001年黄雲のカラープリントはここでMk氏や筆者などによりJBs氏に紹介された。ビーシュ氏の發音では、モリタがOKであった。アクツはアックツという感じか。序でにBEISHはどう發音するか、聞いたがビーシュに近い。ベーシュでもいいか。CAPENについても訊いたが、ケープンであった。佐伯恆夫氏はアレはカペンと言うんだよと言っておいでだったが、幾ら私の耳が悪いといってもそれはない(カッペンでは中國人が痰を痰壺に吐く時の擬音を思い出す)

 

 2時から六階の綺麗な小会議室に移って、JBs氏のお話を拝聴した。暫く講演をしたことがないとか、日本語を忘れてしまったとか言いながら(19601962年には那覇の基地に滞在、珍しいJBs氏の日本語といえば「キヲツケ!)、にこやかに話していたが、吃驚するような内容であった。

 

 2000年のCMO横濱懇談會でNs氏が2003年の大接近がメーウス(J MEEUS)氏の計算では、紀元後ここ2000年の中で最大の最接近であるという紹介があって以來、どうしてやろうなぁというのがわれわれの合い言葉になっていたが、JBs氏の話はそれどころでないのである。弐千年どころでなく、彼の計算によると三萬四千年ぐらいに遡っても2003年は最大の接近らしいのである。だから文字通り桁が違う。然し、もっと遡ると2003年程度の最接近は57537年前にあったようで、このときまで遡って最大視直徑は25.14秒角という値が出るようである。軽く見積もっても五萬年振りの大接近ということになる。

 勿論大接近は79年ごとの周期があるが、實は更に十萬年單位の大きな周期があって、更に遡ると79241年前には最大視直徑26.16秒の大接近があったようである。これも凄い話である。

 

 なお、基点は2001年十月17日のJBs氏の誕生日に取ってあるそうで、ユリウス日(JD)2452200.5に當たって、年取りはJDで行なったのであろう。

 プログラムには木星だけでなく、惑星全部の摂動が入っているようで、土星や天王星、或いは月は相當影響するらしいが、水星はゼロの由。計算は家庭用のコンピュータでは間に合わず、美國海軍天文臺當時の同僚のJim DeYOUNGという人とスーパー計算機を借りたようである。後で、Ns氏がプログラムは相當面倒なものかと訊いたらしいが、然程では無いという返事だったようである。こうした計算は少々の誤差や假説で大きな違いが出て來るであろうから、細かな數値にはズレがあろうけれど、もし一萬年、二萬年の誤差が出るとしても傾向を出したということで腑に落ちる興味深い結果である。

 

 

JBs氏は2003年から前後284(205年+79)のδ=25秒を越える接近表を挙げているが、2208年に2003と同じ接近が來ること、2287年にはそれを上回る接近が來ることなどはNs氏報告の通りである。

 メーウスとの違いは彼我の距離(AU)に關して、小數點以下五桁に出てくる:

 

 

 

 

AU(22Aug1924)    AU(27Aug2003)

MEEUS          0.37285             0.37272 

JBs            0.37284             0.37271 

 

この話の他の面白い點は、いまから三萬四千年前には火星は矢張り十五年とか、七十九年ごとに最接近を繰り返していたはずだが、視直徑が24秒を越えない時代が、二萬二千年ぐらい續いたということである。更に、次の最大の接近は25695年後に來るということで、この時は最大視直徑が26.04秒角になるようである。距離は0.359818AU。この話の他に、JBs氏からは彼の周りの人物についての話などが聞けた。

 

JBs氏の口から親しみを込めて唐那・派克氏の名前が何度も出る。これは奥さんもそうであったが、ケープンについては師匠として今も尊敬の念があるようで、亡くなったときのことは可成り詳しく話された(1986年五月28日のことで、彼は命日も憶えている。訃報は當時のCMOに出ている。享年六十歳であった)。ケーヴさんに關してもwonderful personと言っていた。ただ、早口のようである。ハースさんは八十五歳ぐらいになるらしい。まだ觀測していると言っていたから、美國で最長の觀測者であろう。因みにJBs氏は六十二歳。DPk氏は六十三歳。

 JBs氏の講演のあと、石橋(Is)氏の手配で、青少年センターへ向かい、4時から廣瀬洋治さんにお目に掛かって、超新星の發見事情などを伺った。廣瀬さんは25cmSCT29JanM74内に2002ap、續いて9MarNGC31902002boを發見したばかりで、毎日のように取材を受けるということであった。JBs氏も興味を示した。天文臺にも登った。矢張り天文臺があるというのは一寸した風格である。このセンターは廃止されるという話があるそうで、われわれは存續のための署名簿に署名した。

 

 われわれはこの後、中華街へ移動し、Ts氏が豫約された「白楽天」に直行した。この日は日曜日であったが、部屋は非常に静かで、ゆっくりと全員が圓卓を囲み、愉しい晩餐會であった。詳細は省くが、紹興酒も出て、JBs氏は杯を重ねて、奥さんに窘められていたそうである。血壓は私と同じく高い方である。

 ここでは柔道の話も花が咲いた。JBsさんが柔道家であることは1980年代のCMOに出ているが、今回、Nk氏が柔道や合氣道をやっていられるということで意氣投合があった。Nk氏は六十三歳であるからJBs氏と同年輩である。JBs氏が四段、Nk氏が三段だったかと思う。講道館關係では知人も含めて共通の話題があるようであった。Nk氏は星體写真入りの小冊子(『み空の花を星という』(土井晩翠による))をご家族に進呈したが、特に富士山上空のヘール・ボップ彗星の写真は好評であった。われわれは全員JBs氏の有名なHandbookを貰った。その他にALPOの刺繍作りのエンブレムを全員あとで禮状と共に送って貰った。

 歸りは皆で中華街から横浜スタジアムの横を通って關内驛に出たが、途中照明された櫻が滿開で綺麗であった。氣温も丁度頃合い、滞在中同じ様な天氣であったからビーシュご夫妻も好い時季に當ったと思う。この日はいろいろ移動したが、愉快な午後であった。ドン・ビーシュさんご一家も愉しく過過ごされているようであった。

 

  關内驛で輪になってお別れしたが、Is氏が厚木の近くというので電車などは案内した筈である。殘りのわれわれは「ルノワール」に立ち寄りしばし歡談した。

                    (南 政 記、写真はすべて村上 昌己氏撮影

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