ジョヴァンニ・アルベルト・クアッラ・サッコ氏

Inside the dome of the Fukui City Observatory
on 9 Aug 1996

 


福井便り CMO #178
村上昌己(Mk)氏は前々から盆の頃、福井へ来ることになっていて、忙しい中島孝(Nj)氏にも時間を空けて置いて貰っていたが、ご存じの様にそのころ Givannni Alberto QUARRA SACCOさんが來日することになり、e-mailのやりとりの結果、村上氏の都合の附く八月910日に全員集合と言うことになった。 結局、QUARRA氏は91011日と福井と三國に滞在された。
日岐敏明氏も京都にあって、福井へ立ち寄る計画であったが、大會の都合と11日には伊那に戻らねばならぬ事になり、今回は見合わせということになったのは残念であった。
QUARRA氏はagreeableな人柄で、お互い愉しい時間を過ごせたが、彼については近々「介紹」で紹介する。そこで今回は「だより」の一環として、二三の福井でのエピソードを書くに止める。

At a Japanese restaurant. Front row, from left to right:
MURAKAMI, QUARRA, NAKAJIMA; back: MINAMI

9QUARRA氏の福井到着時刻は前日まで判らず、Mk氏は予定通り朝の内に藤澤を出發したので、福井の次の駅の芦原温泉迄乗り継いで貰い、三國で數時間過ごし、それから17:35着のQUARRA氏を迎えに家内のセルボで福井駅に向かった.

Nj氏とは駅でうまく会え(駐車が儘ならない)、家内と四人で待った譯である。西田昭徳(Ns)氏は室堂に行っていて、午後9時頃でないと福井へ戻らない。そこで、先ず都合五人で足羽山山腹の京料理の店で夕食を摂った。
話は弾んだが、日が暮れかかり、頃合い、家内は別れて三國へ、われわれ四人は天文臺に向かった。

既に眼下の灯りは賑わっていた。先ず木星である。丁度赤斑が朝方にあって、Mk氏が何やら言いながら、スケッチするという。次いでQUARRA氏もスケッチする。シーイングは然程好い譯ではないが、通過する衛星の影を見ると、シンがしっかりしている。兩者とも赤斑に後續の白斑群を分かつ暗條の顕著な濃度に注目しているようである。

At the Fukui City Observatory on 9 August 1996.
From left to right: MURAKAMI, QUARRA, MINAMI, NAKAJIMA and NISHITA

この20cmEDQUARRAさんは、像が彼の30cm り、更にはどこかのツァイス(彼はザイスと発音する)より優れていると感心している。多分緯度の差だと思うが。スケッチは氣さくに準備室で丁寧に仕上げている。赤斑は夕方に移ったが、晴れ男のNs氏が駆けつけた頃には、逆に薄雲が彷徨するようになり(富山は雨の由)Mk氏は苦労して,圖に依ってHale-Boppを入れたが、入っただけでも奇跡のような状態になった。そこで早々と、夜半頃には三國に移動した。途中坂井の方が空は好く、土星が昇っていた。

三國ではビールを飲みながら、二夜とも遅くまで話し込んだ。淺田秀人氏の最新の(『天文ガイド』のだけでなく八月上旬の)木星の影像をMk氏がモニターで説明したり、QUARRA氏手持ちのフロッピーのイメージを出したりしていたが、私はその夜のあの濃い境界は再現されていないし、確かに、まだ CCDより肉眼の方がシャープかな、と感じた。
木星では比嘉保信(Hg)氏から最近送られてきたヴィデオを掛けた。これは延々と續くが、BGMが心地よい。火星もと言うので、1990年のHg氏の影像を披露したが、彼はこのシーイングに不満であった様である。それに、これには音楽はないのか、と言っていた。
序でに,Hg氏から送られた「五年古酒」の泡盛を試して貰ったが、これはGrappaというイタリアの酒に似ていて美味しい、と言っていた。

QUARRA氏は火星に矢張り強い関心がある様で、知識も深い。二夜に亘って色んな質問があったし、我々の方法も理解してくれた様である。CMO についても日本語だけでは駄目と言っていた。英文は翻訳でないことは断ったが、Mk 氏が和文も實は辞書が要るのだと茶化すと、じゃ三つに分けなければならないネと冗談を言っていた。

承前、更に「まえがき」 CMO #179
 クアッラ氏については、『天文ガイド』1994年四月号146,147頁にその月の応募写真の最優秀賞の作者として紹介されているからご存じの方も多いであろう。作品の CCD写真の他、望遠鏡やドーム、それに奥さん(弘美さん)との写真などがグラビアを飾っている。その後でも、宮崎滿明氏の『天体画像処理入門』の口絵にも木星や火星 (1993)CCD像が紹介されているし、新しいところでは Interactive Astronomy誌にも出ている。
そんな譯で、誠文堂新光社とは馴染みの様で、今年八月末の胎内星祭りには、東京から車で運んで貰ったようである。PKと同じように「日本天文指南専欄作家」(PKは自称している、指南はガイドのこと)にならないかと言われたようである。多分、l'Astronomiaというイタリアの雑誌で彼は最近ピクでの写真を基に画像解析などをアンドレア・レオ氏と書いていて、これを『天文ガイド』の編集者が見て、その力量を評価したものかと思う。この雑誌は、『天文ガイド』に見せたら、持って却って筆者(Mn)に渡すと言っていたのだが、九月1日京都で再会したときは、何処かに行っちゃった、スマンと云っていた。今号掲載のクアッラ氏のLtEのように後で新冊が送られてきた。クアッラ氏一家は九月2日に京都を発った。1日は慌ただしい中の再会で、一時間半ほど鴨川沿いの「からふねや」でコーヒーを飲みながら談笑した。
迂闊なことだが、この時初めて私は彼にあなたはスケッチは右手でしてましたよね、と訊いた。訊いた理由は、福井でのスナップ写真を何枚か持参していたのだが、写真では彼は腕時計を右手に(それも二個)填めていたからである。でも私にはどうしてもスケッチの時も食事の時も左ギッチョであったという記憶はないのである。答えは、食べる時と書くときは右だと言って笑った。

今度の福井での集まりは個人的なことではなかったのであるが、御免を蒙って、個人的なことを先に書くと、9日の夕方、福井天文臺で村上昌己(Mk)氏がスケッチしているときだったかに、クアッラ氏が中島孝氏とドームの外の屋上テラスで会話していて、多分福井の20cm屈折が五藤光学製であることに関して、クアッラ氏が臺北市立天文臺にも25cmのボロっちい五藤製屈折があるとか何とか言っているのが小耳に入り、彼が臺北を訪れた経験のあることを初めて知ったのである。彼によれば、臺北のその望遠鏡で数年前奇妙な日本人が火星を觀測していたという噂を聞いたというのだが、それがyouだとは思いもよらなかった、と言うのであった。
クアッラ氏の臺灣旅行は1993年の四月で、新婚旅行だったそうである。臺灣を選んだのは、奥さん弘美さんのお祖母ちゃんのお姉さんが臺北でご健在で、その縁であったようである。今年86歳のご高齢だが、戦後日本に還らず、いまも養老院(正確には救済院かも知れない)を運営なさってなさっておいでで、知名人であるということであった。あとでクアッラ氏が京都に戻られて、お礼かたがた奥さんからお電話があり、そのかたは「施照子」とおっしゃり、臺北の大理街に救済院をおもちで、「愛愛院」という名前であるということ等を伺った。
大理街というのは蔡章獻さんや臺灣大學の故H先生の故郷の萬華にあり、蔡さんが必ず誰をも案内するというあの龍山寺に近い処である。私も縁あらば臺北に再度(三度目か)行けたら、クアッラ氏の朋友ですとお訪ねしたいと思うが、ここにプライヴァシーに関わるような個人名まで出すのには理由がある。
クアッラ一家がイタリアにお帰りになって、丁度十日目の九月12日の夜であったが、大津で獨りでテレヴィのチャンネル回しをやっていたら、偶然臺灣らしい風景と「愛愛院」というテロップが目に飛び込んで來たのである。日本の写真ジャーナリストがインタヴューしている番組で、スポットが当てられているのは紛れもなく施照子さんであった。
86
歳、京都出身という説明も出ている。風景は愛愛院の中庭らしく、南国の植物が心地よげに茂っている。照子さんは1935年に嫁いできたが、ご主人は敗戦の直前1944年に亡くなり、その後ご主人の建てた愛愛院を五十年以上守ってきたということなどが放送される。ウチの病母よりご高齢なのだが、お元気そうで、キリッとされると、失礼な言い方だが昔の日本人老女の面立ちが匂う。日本語は関西訛りが出るが、関西訛りとボカすのは、私が京都辨を必ずしも知っている譯ではないからである。特別苦労話もされず、朗らかに應對されていた。印象に残るのは、最後にインタヴュアーに向かって、あなたのように「照子さん」「照子さん」と話し掛けられるのは(久しぶりに)嬉しいという意味のことを言われたことで、ご主人も「オイ」「オイ」で済ませていたということであった。私は思わず王永川氏にオオーイ、オオーイと呼ばれたことを思い出した(何處かに書いた)
この番組は筑紫哲也のニュース番組の中で出逢ったからTBS系の(大阪はMBS)TVが入るところなら全國で見られたわけである。ご覧になった方もいよう。

ジョヴァンニ・アルベルト・クアッラ・サッコ氏 介紹
クアッラさんは1953年にヴェネズエラのカラカスで生まれた。1961年にイタリアに移るのだが、その時父方のお祖母さんの名前のサッコが残ったらしい。クアッラは西班牙系の名前のようで、義大利では珍しいということであった。ジョヴァンニはドン・ジョヴァンニのそれだが、面倒だから、以下ジャンニと書くことにする。
 所謂國際結婚だから國際的というわけではないが、人種の混合だけでなく文化も付き合いも國際化しているようで、生活様式も、私たちと数夜寝起きを共にし、同じものを食べ違和感がない。子供さんは未だ九ヶ月と言うことであったが、名前(Claudio Luiji QUARRA SACCO)まで含めて、親父以上の國際派が出きるかも知れない。Luijiというのは日本風だと言っていたが、「ji」は「次」では如何なものか。
クアッラさんは、フィレンツェ(英語ではフローレンス)IEIと言う貿易会社を経営しているが、光学器械などを扱っているようである。IEIは英語でItalian Export Importの略だそうである。Lynxxは故障が多く拙い、修理に出すという話は五萬とある、これに比べてISISCCD800は大変宜しい、ということであったが、商賣としては拙いものも扱った方が得策であろうのに、正直なところである。「高橋」の義大利での総代理店になりたい意向のようであったが、法國で欧羅巴相手のそういう動きがあって困るという話であった。



クアッラさんは積極的な「付き合い」も廣く、彼の仲間のことは後で改めるとして、欧羅巴の天文家との付き合いもあるようである。最近では先述のようにピクにタンガ氏やレオ氏と行っているが、写真を見ると大勢で楽しそうである。フラ語とイタ語は似ているのか、法國人は仏語で話し、義大利人はイタ語で話して通じるのだそうである。クアッラ氏は理査・麥肯氏に1988年の大接近の時フィレンツェで出逢っている。麥肯氏がファロルニ氏のアルチェトリ天文臺に觀測に訪れたからである。翌年、今度はクアッラ氏が英國を訪れ、理査・麥肯氏の他ロジャーズ氏などに会っている。ケインブリッヂでは例のノーサムバランド望遠鏡を見ている。英国の望遠鏡はどれも古くてね、と言うのが感想らしい。

唐那・派克氏には未だ逢っていないが、これは一寸遠慮があったものか、實はマイアミにはご両親が引退されて、お住まいだそうで、好く出掛けるらしいく機会はあったようである。文通の中で派克氏は、それを知って残念がったようで、是非逢いたいというので、今年のクリスマスには逢いに行くそうである。宜しくお伝え下さいと伝言を頼んだ。

ヴェネズエラはアンデスの2700mの高地に國立のCIDAという天文臺を持っていて、ここに100cmのクーデと、ツァイスの65cm屈折があるそうで、前者はピクの100cm鏡に劣らず、良いそうである。1990年の十一月末から十二月初旬まで滞在したが、誕生日の十二月1日は曇りであったそうである。アマチュアも使えるらしいが、矢張り天候が難しいらしい。Why don't you go...(いきましょうよ)と言われたが、母親が死ななくてはね、と言っておいた。

SGPG/SGPO
Recent CCD image of Jupiter by the SGPG


クアッラ氏の名前の代わりにSGPOとかSGPGという暗号が出て、迷うことがある。最初のSGは町の名前で、サン・ジェルソレの略、 ジャンニとその仲間のドームのあるところ。後はPがプラネタリー、Oは天文臺、最後のGはグループである。全部英語になるのはジャンニ流か。グループは1988年創立。アンドレア・レオ氏などが仲間で、他のメムバーは英文の方を参照していただくが、実はインターネットの ホームページ に仲間の集合写真と紹介がある。皆ジャンニより若い。アンドレア・レオ氏は電脳に強く、木星の展開圖など作っている。ホームページの体裁やロゴも洒落ている。尚アンドレアなんて女性っぽいと思ったが、義大利では皆男性だそうである。
尚、SGPOの方は、最近Marco Falorni Planetary Observatoryと改名したようである。ファロルニ(1944 1995)はジャンニより年長で、師匠であったようであるが、ヘヴィースモーカーで昨年末に肺癌で亡くなった。(ObituaryJBAAの六月號に麥肯氏とタンガ氏が書いている)

30cm Cass. used by the SGPG -->

この天文臺の位置は地圖を手書きして貰ったが、フィレンツエ市街から10km ほど離れるようである。仲間のデル・ザンナ氏の家の近くで、黒丸が書いてある。主力機はイタリア製の30cmカセグレインで、性能は良いそうである。他にポータブルのアストロフィジックスの13cm屈折がある。CCD1989年以来試みているようで、イタリアでは先駆である。

承前、そして「あとがき」
クアッラ氏は火星についてなかなか関心が高い。最初の火星觀測は1971年だそうである。地名や方法については十分に詳しい。トリノのタンガ氏とも連絡が良くあるらしく、今回もタンガ氏から色々指示されてきていて、(中に我々への挨拶もある)例えば、タンガ氏はファロルニ氏の遺産を引き継いでいるようだが、宮崎勲氏の 1988年の写真のデータについて欠落している分を,OAAのファイルから写して行ったりした。帰ったら集会があるような風であった。
火星は1995年も可成り撮っているようだが、気流が好くなかったようで、発表は一枚になったようである。後も送りましょうか、と言う事であったが、今後を期待したい。

クアッラ氏は11日に福井を離れたわけだが、殆ど八ヶ岳行きのMk氏の列車と同じ頃で(というか指定を替えたわけ)、私はクアッラ氏をプラットホームまで送って行ったが、目の前をMk氏の乗った名古屋行きがすっ飛んでいった。近く過ぎて見えなかったが、改札口にいたNj氏や家内からはMk氏が座っているのが見えたそうである。盆前で心配したが、どちらもガラガラであった。この日も暑い日であった。

盆は親戚に会いまくっていたのではないかと思う。16日の大文字の「送り火」は北の妙法なども見える位置で見たようで、印象深く語っていた。

黒川村では寒かったそうである。色々話は聞いたが、彼は日本人+臺灣人の名前をよく覚えないので、ここでは割愛する。

九月1 日では程良い気温になっていた。私は河原町の方に用があったので「からふねや」を出て、三条大橋の西詰めで、旅行の無事を祈って別れた。来年秋、火星の接近後にまた逢えそうであった。今度は、日時を早くから決めて、多くの火星觀測者と会えるようにすると好いと思う。

 ( 南 政次 )


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