アンタレス研究所・訪問

 

§21神の島 暑い夏が来た。CMO沖縄懇談会が那覇で行われて早くも一年が経つ。半月の沖縄滞在中一度も颱風にお目にかからなかったが、今年(2002)は七月半ばのいままでに既に数回通過して、本島や離島の受けた作物被害も大きく心が痛む。今年の異常はエルニーニョ現象によるものらしい。●お世話になった民宿のおかみさんの話では、沖縄の人にとって颱風は一種のイヴェントみたいなもので、正月を迎えるように数日分の食料を買いだめして家に篭って颱風を迎え、やり過ごすのだそうである。折角沖縄にいらしたのだから一度は経験して行かれたら?と笑って言われたが、一度颱風が来ると一週間はお客の滞在が伸びるそうである。●颱風も無く観測に充実した日々であった昨夏は、折角の長滞在中ほとんど那覇から動くことが無かった。そのためか、あの刺すような強い陽射し、まったりした三線の琉球音楽のような時の流れ、眩く輝く海の色を懐かしく思いつつも、案外その他の沖縄の印象が少なく、Id氏お薦めの離島へ足を伸ばさなかったことが心残りになっている。

 

●司馬遼太郎の街道シリーズに『沖縄先島への道』という一冊がある。モンゴルから帰り、書斎に戻った司馬遼太郎が発作的に須田画伯と計画した、八重山諸島最南端の島への旅であった。沖縄本島の南西にある与那国島の、そのまた南の波照間島。そのまた南にあるという幻の島「南波照間島」への思いがつのり、離島への旅となる。「波照」というのはその読みの如く、沖縄諸島がそこで「涯てしまう」という意味であるようだ。先島諸島にとって最寄りの大都市は那覇ではなく、台北であるという。●司馬遼は那覇から石垣島に渡り、竹富島、与那国島まで足を伸ばす。

 

●沖縄では、神の前では女がより神に近い。かつて首里王朝が原始神道を整備して、祭祀を取り仕切る祝女(のろ)-先島では司(つかさ)-という制度を任命制にして、離島の統御に成功したという歴史がある。神と交わる祝女は今でも離島にはあって、御嶽(うたき)と呼ばれる聖所で祭を取り仕切る。久高島の「イザイホー」と呼ばれる十二年ごとに行われる神事のことは、岡本太郎の『沖縄文化論--忘れられた日本』に生々しい。●岡本は1959年に沖縄へ行っている。もともと民俗学の素養のあった彼は石垣島について司馬とは違う趣の名レポートを残している。しかし、なかでも久高島の体験は格別であったらしい。皺深い久高のろに面会し、無に近い大御嶽(クボー御嶽)を訪れて、岡本太郎は一変したという。「神は自分の周りに満ち満ちている。静寂の中にほとばしる清冽な生命の、その流れの中にともにある」。岡本は1966年のイザイホーに再訪した。しかし、そのイザイホーも1978年が最後になったようだ。

 

●あとで、沖縄本島にも神聖な御嶽が六百数カ所もあることを知った。われわれは知らずにそういう島で観測していたのである。南国の守宮の甲高い啼き声の響く、熱く静かな沖縄での観測の夜を思い出す。

(20 July 2002 Ts)

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アンタレス研究所訪問目次

 

 

アンタレス研究所訪問§01

アンタレス研究所訪問§02

アンタレス研究所訪問§03

アンタレス研究所訪問§04

アンタレス研究所訪問§§5〜8

アンタレス研究所訪問§09

アンタレス研究所訪問§10

アンタレス研究所訪問§11

アンタレス研究所訪問§12

アンタレス研究所訪問§13

アンタレス研究所訪問§14

アンタレス研究所訪問§15

アンタレス研究所訪問§16

アンタレス研究所訪問§17

アンタレス研究所訪問§18

アンタレス研究所訪問§19

アンタレス研究所訪問§20