アンタレス研究所・訪問

 

§10 1781年の火星秋の彼岸である。猛暑といわれた夏も過ぎ、11秒角になった火星はアンタレスから遠ざかり、射手座から山羊座に向かっている。16 Augに衝を迎えた5.7等の天王星が秋の夜空、その山羊座に潜む。福井市自然史博物館の天文臺では九月の一般公開で来訪者に天王星を見せた様である。●Ed GRAFTON氏の天王星像(22 Aug)は実に綺麗である。触発されて、12.5cmフローライトで探してみたところ、翡翠の珠のように美しい青い小さな姿を捉えることができた。フローライトは素晴らしく、40×でも既に円盤状に見える。

●天王星は周知のように1781年三月13日午後10時半頃、William HERSCHELに依って発見された。「星雲状の星あるいは彗星と見られる変わった天体」と野帖に記されている(斉田博氏)。自作の7フィート鏡(口径15.7cm)に依った。観測場所はBathのニュー・キング街19番地。●HERSCHELは火星にも関心があり、1777年以降観測を欠かしていないようである。火星の極冠の変化の観測や地軸の公転面に対する角度、あるいは自転周期を24h39m21.67sとするなどの仕事がある。後者は1781年の論文にあるようで、実は1781年は火星の大接近の年であった。天王星の発見の日にも彼は20フィート鏡で火星も観測したという話がある(W SHEEHAN)。●Ns氏紹介のJean MEEUSの計算表によると1781年は12 Julyが衝、18 Julyの最接近時にはδ23.71"の大きさであったから、まさに大接近である。したがって、三月の観測ならば朝方の観測であろう。当時の暦がないから、205年という次善の回帰周期(CMO#106の「ときどきSOMETHING OLD」参照)を使うと、1986年の接近が当てはまる。1986年は10 July衝、16 July最接近(d23.19")であるから、確かに似ている。そこで、三月13日の火星の視赤緯を『天文年鑑』1986年版で見ると、−22°50'あたりである。BathLondonより170kmほど西だが、緯度は殆ど変わらない。北緯51.5°としてこの日の火星の南中高度を求めると、ほぼ16°ほどにしかならない。HERSCHELはこの年の三月初めにリバー街5番地からニュー・キング街の南側に建つ五階建ての団地の裏庭での観測に戻っているが、この高度の低い火星を観測するためであったとも考えられる。裏庭の南東の空は開けていたのだろうか。1781年の衝時の視赤緯は-2741'とあるから(MEEUS)、南中高度はほぼ11°である。この角度は今年のHEATHさんが『火星通信#249 p3103でこぼされている火星の高度である。それもその筈、1986年と2001年の類似は周知のことで(この話は昨年の横浜懇談会でNs氏が報告された)、粗っぽく言えば、1781年のハーシェルの火星は今年の火星に似ているわけで、英国にとっては悩みの年である。したがって、HERSCHELがこの年に火星をつぶさに観測したとは言えないであろう。

●『天文年鑑』1986年版を見ると、奇しくもこの1986年の13Marに「18h火星は天王星の北0°21′」とある。天王星発見当日は同じ空に火星は見えなかったわけであるが、205年後の同じ日に両者は近付いたということであろう。1986年当時の火星観測者で天王星をご覧になった方はいるであろうか。臺北のMn氏は当時曇・雨に連日悩まされたようだが、火星通信#005には火星すら「7秒角台で歯が立たない」「特筆することなし」とある。今年の13Marは少し事情が違い、δ=8.7"であった。#241に報告があり、福井のNs氏のCCD像が出ている。20:30GMT(5時半)の観測であった。
 ●賑やかに聞こえる虫の音に囲まれながら、秋の夜長、低く落ちていく火星の観測を終えたら、土星、木星が東の空高くに姿を現してくるまで、しばし翡翠色の天王星に目を転ずるのも一興であろう。十一月2619hには火星は天王星の南0°48'にやって来る。 (Ts)

・・・・『火星通信#251 (25 September 2001) p3137                                   

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