オニの雷

　　　　　　アンタレス研究所訪問　

§3： 総本山修行の旅●五月の連休後半、火星観測の「武者修行」に総本山の門を叩くことになった。残念ながら初日は天気が悪く、雨が土産になったが、車窗から水をたたえた田植え時機の稲田が雨に煙って沿線に広く続いて印象深い。福井駅ではMn氏御夫妻、Ns氏、そして敦賀から仕事帰り間もないNj氏にお出迎えを受けた。Mn氏夫人、Nj氏とは初対面であった。遅い時間にもかかわらず歓迎の宴で楽しいひとときをいただいた。
　しかし、笑っていられたのはここまでで、早速土砂降りの中を「総本山」へ入山。ここには極めて厳しい作法があって、ドアの閉め方からドーム内での動作に至るまで、新参にはたいへん難しい掟があるのであった。これはMn氏とNj氏が長年掛かって効率よく無駄なく粗相無きよう作られたものだから、一日にしては馴染めない。オニのMn氏とホトケのNj氏のコンビも絶妙だが、今回はオニの雷の落ちること屡々であった。曇天の中を長く待って、やっと明け方にω=115°Wの火星を雲間で辛うじて捉え、20cmの解像力のおかげでソリス・ラクスをちゃんと分離して見ることができたのに、慌ててスケッチを取ったためか、Mn師匠に「ソリス・ラクスはそんなに高緯度に非ず」と一喝された。Nj氏に慰めていただいたが、濃淡の強い南極雲に惑わされて正しい南北線が取れていないのである。
　晴れれば晴れたで、観測はたいへんである。きっかり二十分ごとに出たり入ったり、戦場のようになる。地誌に通じているかいないかで時間の浪費が出る。予めこれから見る火星面のイメージが持てるか持てないかで差が出る。時間だけでなく、眼の届く深度が違う。位置取りなども訓練だろうが、地形模様を細描する度合い、「見えたまま」の意味を知ること、いわゆる火星図の参照の仕方等々は、高度な知的活動に属し、どうも火星観測は総合的な頭脳の激しい動きが必要とされるらしい。間髪を入れない諸作業、スリットや倍率の調整、身体の位置を固定など、必要な身のこなしもどうも年季が要るらしいというのも意外であった。太陽の黑點観測でも汗を掻くが、どうも汗の質が違う。「スケッチ」はまた一つの大きな問題で、これについても相当に喝を頂戴した。擦筆ではなく日ごろイラスト挿画で用いるペンで、独自の美しいスケッチを描けるように、と最終的な励ましをいただいたが。
　福井では空の曇っている間も無駄にはならない。老師の説法は続くのである。印象深かったものを一つだけ挙げると、望遠鏡内の火星は天文台のまわりの光景に比べて極小さいものでさほど色彩もなく美しいものではない、眺めも観測もさほど幸せなことでもない、むしろ朝日に匂う青葉若葉や、一寸した日常の刹那に至福がある、しかし、その移ろいやすさに対して、火星観測には確固とした「普遍性」があるというお話であった。前者は移ろう一瞬を表す俳句などを言葉として持つだろうが、理解や伝播の範囲は限定され、数はただ意味もなく膨大である。しかし、後者には万国の言葉を越え、火星面に固定された模様の網目に起こる現象の歴史を構成し、後代にも意味の続く恒久性がある、というわけである。太陽でも、時々刻々姿を変えていく黑点を描き、相対数を勘定する事などはむしろ前者に属する。たしかに、太陽の場合観測対象が形の無い変化そのものであり、地形図のような網もなくその膨大な記録はロッカーで眠る。俳句集や写真集は観測ではないというのが老師のお考えで、老師一句：「ホトトギス、籠に入れられ、過去の鳥」。
　幸い二晩は快晴に恵まれ、ホトケ様のNj氏に観測時間を譲って頂く形で、最終的に十九枚のスケッチを得る事ができた。後で伺うと、過去何回かの同人との協同観測会では、四十分観測をこれだけ続けられたのは稀であったそうである。ということは先輩諸氏に先だって厳しい初の洗礼を受けたということかも知れない。かくしてオニとホトケに揉まれた福井総本山修行行脚は光陰のごとく過ぎていった。近くで見ることが良いとは限らない、近づきすぎるとむしろ見えなくなるものもある、などという禅問答に接し、まだ踏み込んだばかりの火星観測の奥の深さを噛締めながら、有形無形のご教示をどっさり土産に背負い込んで、名残尽きない福井を後にした。

(Ts)

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