2001年の火星 (7)

 

南極冠は何時偏芯するか

 

from CMO #240 (25 February 2001)



  昔、『月刊天文』という雜誌に惚けた記事が出たことがある(1988年十二月號p66)。豊中の某氏が書いたもので、「西村20cm反射経緯台と私」という背中がムズ痒くなるキャプション附きの写真附きだが、所有物自慢の臭氣は我慢するとして、ここで枕になるところがあるのでその最後の部分を引用しよう:「'86年に火星が準大接近のとき、神戸市青少年科学館の25cm屈折で火星を見せてもらいましたが、私の20cm反射で毎夜見ていた火星像とほぼ同じでした。/ところで、昨年、ある天文誌に出た台北天文台25cm屈折による1986720日前後の火星のスケッチは、南極冠が大きすぎるようです。南極冠は真円でないので、火星が回転すると南北と東西の長さが変化します。そのことに興味を持って、私も同じ頃スケッチしていたので気が付きました。観測に有利な南にある台北天文台での観測から考えて、私の20cm高精度鏡は、観測に十分使える機材でしょう」。


はてさて、ここに出ている天文誌というのは『天文ガイド』のことで、昨年というのは1987年のことになり、私は臺北での觀測によって1986年のレポートを書いたことがあるから、臺北天文臺の25cm屈折に據る火星のスケッチの張本人は誰あろう懼れ多くも筆者、南政次なのである(今調べると『天文ガイド1987年二月號p7880である)筆者は普段天文誌を讀まないから、臺灣から歸った直後の福井での「觀測者懇談會」で宮崎勲さんが、某誌に妙な記事が載っていましたよ、と注意を喚起してくれたのだが、實は私は臺北に居るときから既に先刻承知という具合であった。圓山天文臺には日本のキリからピンまで天文誌が揃っていて、蔡章獻さんから直ちに、これどういうこと?と訊かれたからである。蔡さんにとっては私の名譽に關わる問題でなく臺北天文臺の面子の問題だった譯だが、一讀して恐れ入谷の鬼子母神、歯牙にも掛からない代物であることは明白、唾棄して然るべきものなので捨て置いた。


私はこの本屋の編集長と喧嘩をしていたから、これは意趣返しの一種だったのだろうが、書く方も何處で血肉を啖っている人間か知らないが、書き方も愚の骨頂、出す方も呆子で、よくこれでこの雜誌はK字が出せるものだと感心したが、愚の三乗というのも可能だから、可能なのだろう。毎號表紙に活動未知數の觀測所と有象無象の意味のない面が並んでいたのはこの頃ではなかったか。新聞の販賣力が落ちると、地方の「名士」を聯日写真附きで載せるというアノ末期的足掻きと同斷である。


序でに引用すると「鏡材も名人芸に相応しく西ドイツ・ショット社の極低膨張ガラス・ゼロドールにしました」という臭気芬々の解説附きだが、斷って置くが、作者の苗村敬夫さんもこんな外野は迷惑だろうと思ったものである。苗村さんの「誠心誠意、磨きました」という口上も引用されているが、私は苗村さんから直接「ゼロドール」なんざ、あんなもの特別なことありませんよ、と仰有るのを伺ったことがあるから、笑う。そりゃそうで、素材で出來が變わるようでは腕が疑われるのだから。


これを書きながら、松本直弥さんも田阪新鏡で本人さんから絶品自賛の保證を受けたという嬉しそうな話を書いていたのを思い出した。相手は商賣なのだから、普通は割り引いて聞くものだが、皆さんこういうときは何でも鵜呑みにしたがる様である。 筆者のCMO辛口が十五年後も續くとは思わなかった向きには氣の毒だが、然し、いま讀んでもよくもこんな種族がと呆れ返る。尤も、あれを讀んだ多くはそんなものかと思ったのだろうし(三乗目のバァーカ)、何處が可笑しいか分からなかったかも知れない、ので、好い機會だから何年かぶりでお勉強ガタガタ、ダシにしてみようという譯である。

 もし、1986年七月20日という日附に誤植がないならば、この日はAlmanacに據れば209°Lsである。前後というなら、210°Ls前後であろう。然し、この頃の南極冠は眞圓に近く、偏芯していない、のである。證明終わり。いまだ嘗て、この季の南極冠に關して然に非ずという報告にお目に掛かったことがない。

 お忘れの向きもあろうから、參考の爲1986年當該時期の南極冠の動向を載せたCMOの表紙をコピーする(#029 p022525 Mar 1987)。これは筆者の臺北での1 Julyから31 July 1986迄の最接近前後の一ヶ月の觀測から良質のものを140點選んで張麗霞さんが私の滯在中に測定し、CMO#003提示の數式に依って雪線を計算機で計算して鳥瞰圖にスパイラル?に描いたもので、季節は198°Lsから216°Lsの範囲である(この年の衝は10 July、最接近は16 Julyであった)。多いときで筆者は一夜に九回(90°W)の觀測をしているから、南極冠に本質的な歪みがあれば容易に捕捉されている筈である。


 では、この南極冠のサイズが大きすぎるのかも知れないと疑念をお持ちの方の爲に、ヴァイキングの結果をP B JAMES et al, JGR 84 (1979) 2889から一頁を引用する。Vikingは部分的な結果しか出していないが、219°Lsでも未だ眞圓であることが窺われる。235°Lsでも未だ大きな偏芯は起こっていない(がこの邊りが閾であろう−後述)

もう一つ下の圖はG E FISCHBACHER et al (1969)が纏めたものでローエル天文臺の1905年から1956年までの南極冠の写真から測定して得た「平均」像であるが、210°Lsの線を辿れば、60°S線のやや内側を殆ど圓形で走っているのがお分かりであろう。スパイラルと、平均像とは構造が違うのであるが(前者はLsが動き、後者は固定する)、意味するところに大差がないことは明らかであろう。勿論、當時から筆者達は大差が出なかったことを認識していたのであって、今更知ったから書いているのじゃありませんぜ。寧ろ、南極冠がこの季節で安定していることがこの當時の結論であったから淡々としていたに過ぎない。

 然し、未だ疑い深い偏屈が居て、上のJAMES達の結果は1986年以前の結果ではないか、1986年は違ったのではないか、という困ったことを言う向きがいないとも限らないから、花山天文臺の岩崎恭輔氏達の當時のBosscha等での結果から一圖引用させて貰おう(K IWASAKI, Y SAITO, Y NAKAI, T AKABANE, E PANJAITAN, I RADIMAN & S WIRAMIHARDJA, Behavior of the Martian South Polar Cap 1986, Publ.Astron.Soc.Japan 41 (1989) 1083)。これは205°Ls214°Lsに得られたものによる。誤差の範囲で變わらない。岩崎さん達の敢えてbest-fit circle(最適眞圓)を採ることにどういう意味があるのか解らないが、これは定義上當然圓である。尤も、中心は011°Wの方へ、僅か約1.5°偏芯している。もし、20cm「ゼロドール」で1.5°が検出できるというのなら、寧ろお笑いものである。尤も、中央緯度がDE-1.62°というような笑止もその後絶えないが。

 

 上の某氏の陳述で更に茶番なのは、臺灣が有利なこと、南極冠が偏芯する事を賢しくも知っていて、特に後者を使ったことである。勘違いも甚だしいが、同情して言えば多分、1988年のお話と混亂したのであろう。(實は芬々たる臭氣から、もう一つ當時見當を附けていたことだが、別方面で筆者より名のある觀測者の然しポッと出の南極冠のスケッチを參照して、アノ話を作った可能性があった。氣の毒に、確かだと踏んだ天秤が狂ってしまったのであろう。もっと高級な解釋をするなら、例えば『火星通信#0021954年のスケッチを見る機會があり、210°Ls邊りの南極冠の比較からこれ幸いと大きいと速斷した可能性もある。然し、お氣の毒に#237Comingで示したように、1954年と1986年ではφに相當の開きがあったのである。もっと低級な解釋もあって、當の『天文ガイド』の記事にスケッチの他、「七月20日前後」の臺北でわれわれが撮った火星の写真が載っていて、これの南極冠の描冩が不充分であるのを勘違いした可能性もある。周邊減光や極冠の描冩が乳材やフィルター、印畫材によって變わることは周知だが、そこまで賢しく無かったわけであろうか)

 

 序でに言えば、懲りない「・・・と私」と同じ頁に1988年九月8日のご本人の冴えないスケッチが載っている。季節は268°Lsに當たり、この時期はピッタシ、先刻CMO#007 p0048 (25 Apr 1986)という初期の段階でミッチェル山がどの様な様子であるか解説している時期と一致する(是非參照されたい)1988年當時私の記憶では伊舎堂弘(Id)氏がミッチェル山を検出していた(いま確認したところ、6 Sept 1988 (267°Ls) ω=290°W9 Sept 1988 (268°Ls) ω=289°Wなどがそれに當たる。見ると岩崎徹(Iw)氏も7 Sept 1988 (267°Ls) ω=287°W等でスケッチしていやはりますナァ。宮崎勲(My)氏もこの前後に當然スケッチしている。宮崎氏は40cmだが、IdIw氏は21cmである)。南極冠の大きさなど慣れない人間が云々するのは非常識であり、文字通り十年早いのだが、そのことを置いても高精度を競うならミッチェル山が検出でけなくてどないするんだい、ということになる。春秋の筆法をもってすれば、天下の苗村鏡がId氏やIw氏の平凡な鏡(失ッ禮!)に劣るというような失敬なことになるんだぜ。1988年のミッチェル山は、たった10cm屈折で、而も視直徑のもう少し劣る時點で村上昌己(Mk)氏が冩し出したことでも讀者は記憶があろう。29 Aug 1988 (262°Ls) ω=000°WCMO #116の表紙參照。

 1986年と1988年に南極冠の内部と外輪がどの様な見え方をしたかは、CMO #115 p1004に纏めてある。また、ミッチェル山の分離については、1988年の場合で詳しい報告をCMO#111p0963に掲載してあるから、何れも參照されたい。

南さん、過激に他人およびその文章をボケだの愚かだの呼ばわりしない方がいいですよ、と言われそうだから(というよりよく言われるが)、賢人の喧嘩の仕方を勉強しようと思って、河上肇の周知のところを一寸再讀してみたら「×××の昔物語を向きになって彼れ此れ言うのも大人氣ない譯だが、私は出鱈目を聞くのがこの上もなく嫌いなものだから、ついこんな事を書いてしまった」とある。×××は「婆さん」で、アルバート・ホールの三浦環のことである。内容は胡散臭い婆さんへの罵倒で實に痛快なのであるが、私は(饅頭好きの)肇さんのように潔癖性ではなく、鼻に附く臭氣は御免被りたいが、出鱈目を聞くのは嫌いではないし、今になってもどうでもよい單なる昔物語ではないし、「つい」こういう言い方をしたのでもない。私はタダ只管、南極冠の觀測案内を書こうとして、滿を持して枕を使い、それが折角だから長くなっただけである。實際これだけボディーブローを與えておけば、南極冠に就いて偏芯の時期もサイズの問題も嫌が上でも讀者の記憶に殘るだろうと思う。

 本題の南極冠の偏極はFISCHBACHER達の上の結果から察知がつくであろうが、CMO #008 p0057に豫告しているので、參照願いたい。236°LsでのA DOLLFUS氏の1956年の結果も勘案して、230°Lsから240°Lsに注意するように呼び掛けている。CMO #018 p0145 (10Oct1986)には再度圖入りで、その時期が來たことを喚起している。今年、230°Lsになるのは9 Sept 2001で、250°Ls10 Oct 2001である。從って、この初秋の一ヶ月は南極冠に集中すると好い。偏芯そのものより、早く溶解する地域の觀察が重要であると思う。ω=200°W前後から見た領域が速くなる。この邊りは夜半前に九月中旬、十月下旬に日本から見られるようである。ただ、視直徑は10秒角以下に落ちるから容易ではないが。

 

尚、糾弾された『天文ガイド』の記事は今から見ても好く書けていて、1986年の六月下旬から南極冠の東側1/3と西側2/3では明るさが違っていること等も、書かれている。190°Ls邊りであろうか。圖5にはその一ヶ月あとの様子が出ている。ナンダ、同じところに南極冠の偏極がはっきりしたのは十月とはっきり書いてあるじゃないか。十月なら250°Ls以降のことだから、先刻述べた通りである。漫畫世代でもあるまいに、繪だけで済ませて、文は讀まないのかい。

 前述のミッチェル山は2003年の課題とも言えるが、矢張り同じ頃から觀測に入ると好い。詳しい状況は前述の通り、CMO #007 p0047の豫告記事と#111 p0963の報告記事を參照願いたい(百號のズレとは氣の長い、のである)。ミッチェル山(ノウュス・モンス)は南極冠内に留まっているときから(#007には183°Lsの例)その形が明るいから、可成り初期から心に留めるのがより適切と言える。

 尚、件の210°Lsは今回8 Aug 2001邊りに相當する。CMO #237 p2845の表で比較した通り、1986年と2001年とは最接近が25°Ls程ずれている爲に、1986年の最接近頃に得られた情報は2001年には八月にずれ込むのである。その替わり、2001年の場合、もう少し早い180°Ls邊りを好條件で觀察出來る譯であるから、この邊りの南極冠の情報を千載一遇として四十分毎觀測で集めると好い譯である。勿論φが異なるから、何れも1986年の様相と見かけは違う事には注意して、輕薄な事は言わないこと。

 1986年南極冠のスパイラルの續編の八月分はCMO #040 p0335にある。216°Lsから235°Ls迄である。その後の縮小状況の結果も歸國後淺田正氏に圖示して頂いたように記憶している。偏芯も綺麗に出たが、特別異常が見られなかった爲に、發表する機會を失った。いずれ別の機會を見る。


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