◆晩期の南極雲、初期の南極冠はヘッラス絡みで觀測するのが常道だが、φが深い場合はヘッラスと南極域との分離を狙う爲には、ヘッラスが午後端に來たときに集中して觀測すのが好い。この意味で南極域が日本から問題になり始めたのは6 July (166゚Ls)邊りであった。まだφ=22゚Nであったが、重要な觀測は7 July (166゚Ls)ω=335゚W、345゚W(それぞれMn-725D、726D)に得られている。午後端でヘッラスと南極雲の間に蔭が現れ、兩者が分離されたことが明確になったのである。南極雲が局所化している譯である。Mk氏は8 July (167゚Ls)ω=345゚W (Mk-188D)で似たような場面を見ている。Mnは8 July (167゚Ls)ω=343゚W (Mn-732D)、9 July (168゚Ls)ω=326゚Wでも蔭は見えている。Id氏の觀測では12 July (169゚Ls)ω=332゚Wに出會っているが、ヘッラス南中時に比べて觀測數が少ない。實はヘッラスが南中する頃は重要なのであるが、φが北へ寄っている爲に、却って觀測が難しく、上のケースの方が好いのである。Iw氏のこの頃のスケッチ報告はコピーが悪く判断が難しい。
◆七月中旬はヘッラスが中央で絡み、判断が難しかった。21 July (174゚Ls)の段階では南極雲が勝っているように思われた。南極雲から出た南端の南極冠の端の瞥見はId氏の23 July (175゚Ls)ω=224゚W (Id-138D)、Mnの24 July (176゚Ls)ω=173゚W (Mn- 760D)等で可能性があり、25 July (176゚Ls)ω=173゚W (Mn-767D)では殆ど南端の明るさは確かであると思われた。マレ・シレヌムの南である。然し、經度が換わると雲が垂れるところがある。31 July (180゚Ls)ω=113゚W (Mn-773D)では明確である。ここでδ=9.4"、φ=19゚Nであった。(CMO #222參照。)
◆殘念ながら、八月中旬はシーイングに惠まれなかった。Mk氏の8 Aug (184゚Ls)ω=041゚W等に明部が出ているが、Mk氏の場合南極のfixが出來ていない。
◆唐那・派克(DPk)氏のカラー像は早くから濃い南極雲を冩しだしているが、赤色光像は南極冠について何時も暗示的である。但し、六月下旬、七月中旬の觀測が抜けているのが難である。前號で引用した14 June (154゚Ls)ω=076゚W〜081゚Wの赤色光ではアルギュレがやや中心を外して明るいが、南極は不明。上で問題の 7 July (166゚Ls)ω=212゚Wでは南極雲が45゚Sまで張り出しているが、赤色光での南極冠は矢張り不明であるが、やや出ているかも知れない。28 July (178゚Ls)ω=007゚W〜011゚Wでは、南端が少し明るく見えている。南極冠の可能性がある。7 Aug (184゚Ls)ω=264゚Wの像にも可能性があるが、既にδ=9.0"で、以後収縮とφとδと競争で、難しくなる。
◆1999年の南極冠の初期の姿はMGSによって部分的に捉えられている。MGS MOC Release No. MOC2-165として發表されたもので、拍攝日の詳細は記載されていないが、南半球の春分180゚Ls (1 Aug)の一週間前の影像とあるから、175゚Lsぐらいであろう。影像は上を南にして、右下に見える火山がアルシア・モンスである。雪線の北にあるクレーター(矢印)はPorter (114゚W、50゚S)で、雪線は55゚S〜53゚Sであろう。周邊に黄塵があるらしいが、雪線は綺麗である。 (ポーターはRussell Williams PORTER, 1871〜 1949のこと)。
◆實はヴァイキングVO2が1977年に矢張り176゚Lsから南極冠の撮影を開始していて、矢張り雪線は55゚Sの外側にあり、變わりがないようである(G BRIGGS et al、JGR 84 (1979) 2889)。これはP B JAMES and K LUMMEの南極冠境界の論文(Icarus 50 (1982) 368)に觀測値との比較に使われている。ヴァイキングの方は撮影角度はMOCより更に東でアルギュレ盆地にはボケがあるが、矢張り330゚Wから030゚W迄は雪線が明確である。
◆φが赤道を超えたのは12 Oct (223゚Ls)頃であったが、その頃からは圓い南極冠が誰の眼にも明らかになった(#224)。また、この頃からデプレッシオネス・ヘッレスポンティカエの濃化が目立ってきており、南極冠内部にも暗蔭が推測された(#225)。然し、十月末にはδ=6.2"に落ちていたから、以後詳細な觀測は無理であったが、可成り遅くまで2001年に見られるような南半球と南極冠が觀望された。