◆實はオリュムピアに先行してもう一つ白い破片があることは、矢張り#202 p2259の右圖 20 Mar 1997 (093゚Ls) ω=137゚Wの部分スケッチに暗示されている。
筆者(Mn)の同様な觀測では
24 Mar 1997 (095゚Ls) ω=112゚W (Mn-427D/1997)
25 Mar 1997 (095゚Ls) ω=108゚W (Mn-437D)〜ω=128゚W(Mn-439D/1997)
27 Mar 1997 (096゚Ls) ω=115゚W (Mn-447D)〜ω=135゚W(Mn-449D/1997)
等で引っ掛かっている。
◆この破片はオリュムピアに比べて検出は遙に困難であるが、1999年の觀測では筆者の場合、16 May 1999 (140゚Ls)に好シーイングの下で検出、觀察した。この日は薄明直後の10:20GMTω=099゚W(Mn-572D/1999)から觀測を開始したが、朝方に分別できる。12:40GMT頃からこの白い破片がクッキリ見えるようになった。
スケッチではω=138゚W (13:50 GMT, Mn-572D)〜ω=157゚W (Mn-574D)で極めて明白であった。15:00GMT頃から足羽山天文臺南のテレヴィ塔を超えてシーイングは悪化し、オリュムピアしか見えない様になった。この日は17:00 GMTω=196゚W (Mn-578D)まで觀測した。
17 May 1999 (140゚Ls)にはω=109゚W(Mn-583D)、ω=119゚W (Mn-584D)で稍イメージは悪いが見えている。21 May 1999 (142゚Ls)にはω=130゚W (Mn-596D)、
22 May 1999 (142゚Ls)にはω=092゚W (Mn-604D)等でも捉えている。後者は朝方にある。
◆筆者の觀測ではオリュムピアとこの破片の間には北極冠本體に接して濃い暗斑がある。これはデウカリドニウス・ラクス(Deucalidonius L)であろう。そこから南にマグネス(Magnes)が走るのだが、實際にはこれはその西の暗部の境になっている。この暗部は赤味がかって、プロポンティスUの方へ延びる。マグネスの東は比較的赤が抜けている。
◆既に布哇でニコラ・ビヴェール(NBv)氏が15 May 1999 (139゚Ls)にω=103゚Wでこの破片を觀測している事をタイムリーに報告を受けた。福井では未だ薄明の10:00GMTであった。510×26cm spec。#218p2518(英文はp2523)に既報だが、15Mayが5Mayと誤植されている。スケッチの部分を引用する。原畫はカラーである。NBv氏はフランスのプロの天文家で、この時は布哇大學に出張していたが、火星はアマチュアとして觀測している。
◆オードゥアン・ドルフュス(ADl)氏の1946年から1952年に掛けてのピク・ドュ・ミディでの觀測による北極冠部の鳥瞰圖はIcarus 18 (1973)142に掲載されているが、CMO #183 (25 Jan 1997) p1083に引用してある。この内、108゚Lsの圖については原畫の写真を頂戴しているので、ここでコピーしてもう一度掲載する。上方が180゚Wである。デウカリドニウス・ラクスが濃い。
◆ADl氏は1984年(11May衝)にもピク・ドュ・ミディの200cm鏡でこの破片のスケッチを殘している。12 Apr 1984 (132゚Ls)ω=139゚W邊りの像である(l'Astronomie, juillet- août 1987號掲載)。1000倍使用。4:00GMTでの觀測だが、衝前であるから、未だ空高いのであろう。尚、この日ADl氏は105cm鏡でTPによる写真も撮っている(2:25 GMT)。舊く#031には同じ遠征時14 Aprに撮られた青色光TP写真を引用したことがある。
◆この破片の小中口徑での觀測はこれまで余り知られていないが、筆者の知る限りでは、1982年(31Mar衝)の大澤俊彦(Os)氏の例えば21 May 1982 (125゚Ls)ω=134゚W での見事な觀測がある。
31cm反射。Os氏のスケッチではこの破片は更に二つの細片からなっている(引用はJ DRAGESCO, La Planète Mars en 1981-1982, l'Astronomie, juillet-août 1986 pp327〜342から)。
◆HSTの1997年(17Mar衝)の映像には勿論この離れ小島がオリュムピアとは別に冩っている。何度も引用する30 Mar 1997 (097゚Ls)の写真(CMO #191 p2102參照)にはくっきり出ている。ω=094゚W ぐらいであろう。1999年の場合、28 Apr 1999 (131゚Ls)の波長502nmでの像をここに載せる。作動していたのが、ω=111゚W〜124゚W の間の四番目に紀録されているから、ω=115゚W邊りであろうか。この破片の詳細が出ており、可成り複雜な構成になっている。尚、午後にボンヤリと出ている圓形の雲は #227 p2666で扱ったバルティア雲の午後の衰退した形である。
◆この破片は通常イエルネ(Ierne)と呼ばれている。しかし、アントニアディの火星圖(Calotte polaire borealé)にはこの白い破片が描かれているものの、名前は附いていないようである。オリュムピア(Olympia)は1903年のアントニアディの命名で、これは記載されている。一方、イエルネという名稱は1886年のスキアパレルリの命名稱で、Φ=65゚N邊りのイッリスス(Illisus)(1888年スキアパレルリ)を南限とする地方に附けられているようである。この破片の部位は極小期の北極冠の外で、Φ=80゚N邊りで、正確に言えば、白破片はイエルネの一部の明斑ということになる。アントニアディの記述に依れば、スキアパレルリは1888年(11 Apr衝)にイエルネ上に明斑を(北極冠に接して)觀測し、一周り後の1903年(29 Mar衝)にローウェルとモールスワースが検出しているそうである。オリュムピアも當時はレムリア(Lemuria)の一部の明斑と謂われていたのであろう。
◆尚、マグネスもデウカリドニウス・ラクスも1888年のスキアパレルリの命名である。イエルネは聖なる島としてのアイルランド、デウカリドニウスはスコットランドの北部、カレドニアから來ている。
◆イエルネの白破片は恒常的なもので、分離時の問題の他は氣象的に然程問題でなく、詳細に關わることで、通常は無視して好いことである。只、20cm級でも検出されるということは記憶されるべきである。これは、これまでの觀測を評価する上で重要なことであるし、北極域の例えば黄塵觀測の際にイエルネの同時検出は規範になるということであって、もしイエルネを度外視して何らかの主張がなされていれば、疑って好いということである。例えば、Rima Teniusが云々されながら、イエルネが問題にならない、と言うような例は噴飯ものである。CCDによる像も、オリュムピアだけでなく、
イエルネの描冩が必要であるということである(例を擧げると、ピク・ドュ・ミディのCCD像としては24 Mar 1999 (114゜Ls)の像がω=059゜Wからω=132゜Wまで出ているが、イエルネは鮮明ではない:
http://www.bdl.fr/s2p/mars/ma23399a.gifを參照されたい)。