☆幸い、沖縄から比嘉保信(Hg)氏と伊舎堂弘(Id)氏、北九州から岩崎徹(Iw)氏が参加されることになり、関東からも阿久津富夫(Ak)氏と村上(Mk)が駆けつけたので、CMO Fukuiの三名(中島孝(Nj)氏、西田昭徳(Ns)氏、南(Mn))も含め都合八名が出席することになった。
☆もし、空が晴れて、観測が可能な場合、それぞれがいつものペースで観測すべきであろうから、それぞれが四十分ごとの観測時間を確保するには、望遠鏡は四台要ることになる。もし、20cm屈折しか稼働しない場合、一時間に三人しか捌けないのであるから、次は二時間以上待たねばならないわけである。
☆幸い、Ns氏の勤める福井県児童科学館が六月の開館を控えており、備品が整えられつつあったときで、調整がてらポータブルのミードの30cmシュミットカセグレイン一台、同25cm二台を拝借することになった。これらを屋上に据え付け、順繰りに四台の間を観測者が移動し、お好きな人は、12.5cm高橋フローライトもどうぞ、という寸法である。
★最接近の火星はそれぞれ地元で観測した上で、五月2日朝、まず沖縄のHg氏とId氏が9:40JST着の飛行機で名古屋に飛来し、JR「しらさぎ」で午後早く福井駅に到着された。CMO Fukuiの三人が出迎えた。Hg氏とは前年1998年のクアッラ氏を囲む「第六回懇談会」(#199参照)以来、Id氏とは1994年の福井でのOAA総会以来である。
☆この頃、Ak氏の車はMkを乗せて只管高速道を走っていた。二人は海老名SAで待ち合わせ、渋滞で出発が遅れたが、11時ころ海老名を離れ、浜名湖で昼食、名神から北陸道へ入って、17時頃、MkがNs氏の携帯に電話するが、この頃先着隊は既に福井市自然史博物館前に到着していた。Hg氏のVideoには玄関前で携帯に応答しているNs氏やMnが写っている。Ak氏の車は18時頃博物館に無事到着した。まだ、空は明るいが、やや空模様は怪しい。
☆ミード鏡はかなり大きいものである。特に30cmは相当である。鏡に詳しいHg氏が光軸を矯正したりして、三台について出した結論は、25cmミードの一台は可成り良像を結び、次は30cm、もう一台の25cmはさほどでないというものであった。これらはPC内蔵の赤道儀仕様である。二台はドームの西に、良質の25cmが東側に配置されることになる。
☆最初の楽しい夕食は、Nj氏の案内で足羽山の西の大きな(つの字)の蕎麦屋に降りる。かなり混んでいて、待たされたが、われわれは大きな和風テーブルに陣取って、各自お好みで腹ごしらえをした。Hg氏の注文が込み入って、ごゆっくり最後になった。
☆食後、外に出ると辺りは暗くなっており、金星が見えるが、薄雲を透しているような状態であった。
☆この夜は、晴れればフル回転で観測へ移行するはずであったが、空は冴えなかった。従って、薄雲の晴れるような時を狙って観測するだけの状態で、スケッチを連続して取り続けることは出来ず、シュルティス・マイヨルを中心にそれぞれ二回ほどスケッチ組が観測した程度であった。もっとも、觀測者を観察するという余裕もあって、また平生使い慣れない器械での観測でもあったから興趣があった。Id氏やIw氏持参の「灯り」も拝見した。Id氏のは自家製で、硫酸紙で光が拡散する。当夜、スケッチは不十分ながら次のように行われた:
Mk-126D 12:20 ω=251゚W 400×20cm Refractor Mn-478D 12:30 ω=254゚W 370×25cm Meade SC Iw-059D 12:35 ω=255゚W 400×20cm Refractor Id-060D 12:40 ω=256゚W 400×20cm Refractor Nj-257D 13:20 ω=266゚W 400×20cm Refractor Mk-127D 13:30 ω=268゚W 400×20cm Refractor Id-061D 13:30 ω=268゚W 370×25cm Meade SC Mn-479D 13:40 ω=271゚W 370×25cm Meade SC Iw-060D 13:50 ω=273゚W 400×20cm Refractor Id-062D 14:50 ω=288゚W 400×20cm Refractor Nj-258D 15:00 ω=290゚W 370×25cm Meade SC
☆天気が好くない以上、体力温存のために夜半過ぎこの日の行事はお開きとし、Iw氏はNj氏の車でホテルへ、CCD組のAk氏とHg氏は芦原町のNs宅へ、スケッチ組のId氏とMkは三國町へMnの車で分かれて引き上げた。三國には午前2時頃に帰着している。落ち着いてからも、CCD組、スケッチ組はそれぞれにまた談笑に入っている。
★翌五月3日の午前はゆっくり過ごし、昼食後福井の足羽川に架かる「九十九橋」で合流、午後1:30から、前回1998年正月の第六回と同じく博物館のレクチャールームで「第七回惑星観測者懇談会」を開いた。
Ak氏は四月など最新の火星のカラー画像のふんだんに盛り込まれた数種のプリントを用意し、参加者に配ったほか、Hg氏もプリントを用意された。Ak氏からは新しい冷却CCDカメラTeleris 2の構造や、その撮像の様子、画像処理についてかなり詳しい講話があった。Hg氏も話された。Mnは朝方・夕方の蒼いシュルティス・マイヨルについて、気象的・光学的原理を説明し、後半の観測のポイントなどについても話した。今後の問題点についても触れた。Mkが四月下旬のバルティアの朝雲について他の観測者に尋ねて廻ったのはこの時である。なお、この会で佐藤健氏から火星課に寄贈された火星に関する書物が紹介され、それぞれ希望者に貸し出された。アントニアディの英語本やスライファーの火星写真集などが含まれる。
☆懇談会は時間的に不十分であったが、第二部は5:00から、PC一式などを屋上の方に移動し、ドームの前で(空の案配を見ながら)の討論会となった。しかし、暗くなり涼しくなって(Ak氏はTシャツ姿であった)、今度は三階の準備室前の踊り場にモニターなどを移し、こちらに屯して画像を見ながら討論を続けた。Hg氏の火星画像の青色光転換法や、Mac用のシミュレーション・ソフトなどが披露された。このソフトは實に好くできているが、まだ、南極の辺りのデータが組み込まれていないようで、完成するのは2003年以降であろう。またAk氏によって、パーカー氏の火星像の色の合成法についての興味ある分析などがなされた。
☆この間、Nj氏が頻繁に屋上へ出て、空を監視していたが、この夜はついに観測可能には至らなかった。深更、二日目を終了した。
☆この間、夕食と望遠鏡の片付けが挟まっている。夕食は歓談の別編で、愉しいものだが、この日は「ピリケン」で全員中華卓を囲んだ。連休の所爲か駐車も含めて混んでいた。食事の様子はHg氏のVideoに残っている。
☆Iw氏は明朝出発のため、終了後、この夜皆さんとお別れし、Nj氏の車でホテルに向かった。残りの面々は前夜と同じく、芦原と三国に移動し、分宿した。
★五月4日は雨であった。朝方、Hg氏、Ak氏、Ns氏が三国のMn宅に到着、Id氏、Mk、Mnと最後の歓談をした。お昼、雨の中を三国の「盛安」におろし蕎麥を食べに出た。Hg氏が越前蕎麥をとのご希望であったからだが、Hg氏、Id氏は山菜おろし蕎麥であったと思う。「おろし」と言うのは大根おろしのことである。
☆午後2時45分の電車で、Hg、Id両氏はJR芦原温泉駅から名古屋へ向かった。名古屋空港から那覇へ向かう。三国ではAk氏、Mkが残り夕方まで畫像のことで最後の議論であった。午後10時前になって、Ak氏の車はMkを乗せて、依然しのつく雨の中Mnの先導で、金津ICへ向かい、そこで最後のお別れをし、北陸高速道に入った。
☆この頃那覇へ、Hg氏、Id氏を乗せた飛行機が近付いていた。Hg氏から無事お宅へ戻られた由のFAXが入った。しかし、Id氏の御尊父はId氏の帰宅を待つかのように、翌日亡くなられたと伺ったことは痛恨の極みであった。
★Mk同乗のAk氏の車は順調に深夜米原から東に向かい、途中二時間ほど仮眠の後、冨士の夜明けを見つつ、5日朝無事藤沢に到着した。早朝Mkは三国に無事帰着の電話連絡をしたが、その際Ak氏はその朝Mk宅で『天文ガイド』六月号を目にし、彼の火星写真の印刷に不具合を見付け、その時の電話でぼやいている。Ak氏とMkは朝食後、仮眠もとらず石橋力氏宅を訪問した。Ak氏が烏山に帰着したのは、結局夕方6時となった由。二十時間に近い長旅であった。さすがその夜の観測はない。福井は皮肉なことに5日夜には晴れが戻り、午後8時から午前3時過ぎまで観測可能であった。
エピソード
(written by M MINAMI in CMO #227 (25 Jan 2000))
昨年五月の福井での懇談會の休憩の折、村上昌己(Mk)氏が、四月の下旬バルティアに異常があったとして、他の觀測者はどうかと觀測ノートを覗き廻っていた。筆者の處へも來て、フーン出ていますね、などと言っていた。このMk氏の紀録については#217(10Apr1999)p2498(英文はp2501)に次の様に紹介した:「Mk氏は26Apr(130゚Ls)ω=326゚W〜355゚Wでヒュペルボレウス・ラクスとマレ・アキダリウムに挟まれて、バルティアに濃い朝霧が出ていることを注意した」。彼の觀察は27Aprにも延長されている。 五月の下旬になって、或る夕方博物館天文臺で中島孝(Nj)氏と落ち合ったとき、Nj氏が27AprにHSTが發現したサイクロンの新聞に載った写真を挿頭しながら飛び込んできた。この写真は青色光像(『天文年鑑』2000年版p120の左圖)で、暗色模様が出ていないため俄には何處だか一見しては不明で、暫く迷ったのであるが、カスマ・ボレアレの位置から、マレ・アキダリウムの邊りだと知れ、そうだ、ムラカミだ!とMk氏の言説が蘇り、未だ薄暮の明るい屋上で二人で快哉を上げ、小躍りした。後聞によればMk氏も比嘉保信(Hg)氏も新聞で直ぐ氣附いた由である。HSTの紀録はこちらの觀測と共に#218(25May1999) p2518/19 (英文はp2524)に紹介した。 |
附記:五月の懇談会の折り、Mk氏を中心に相談が行われたらしく、あとになって、次の文面と共に、われわれ二人(Mn&Nj)はお揃いの赤いチョッキ(西洋風袖無し、西洋風チャンチャンコ)を頂戴し、恐縮しました。
南 政 次 様
中 島 孝 様
●・・・・・・拝啓、御還暦おめでとうございます。御祝いのお印に防寒着を同梱致しました。
御還暦とはいえ、お元気なお二人には、まだまだ観測をお続けくださるように祈念いたしまして、
厳冬期の観測が少しでも快適に過ごせるようにと考えました。今後も御健康に留意いただいて、
後進の我々への御指導・御鞭撻を宜しくお願い申し上げます。
直ちに、皆さんにemailでお礼を申し上げました。重ねて、Hg氏から次のようなお祝いと激励の言葉を頂きました。
1999年七月14日
阿久津富夫 (T AKUTSU 那須 Tochigi)
比嘉 保信 (Y HIGA 那覇 Okinawa)
伊舎堂 弘 (H ISHADOH 那覇 Okinawa)
岩 崎 徹 (T IWASAKI 小倉 Kitakyushu)
西田 昭徳、 (A NISHITA 福井 Fukui)
村上 昌己 (M MURAKAMI 藤澤 Kanagawa)
●・・・・・お達者で還暦を迎えられましたこと、お慶び申し上げます。人生の三分の二、火星を見続けてこられた訳ですね。私にとってもこれからの大きな一つの指針です。更に十年、二十年、お元気で活躍されますよう熱望致します。
チョッキは有り難く早速着用していますが、九月23日のNjの六十回目の誕生日に天文台で揃って記念撮影しましたので、ここで遅れ馳せながら披露します。 有り難うございました。