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世紀末、パリの天文学者は二つの天文台を利用していた。旧市街地の南端に1672年創立されたパリ天文台とパリの中心部から南西10キロの地に1876年設立のムードン天文台で、これは当時残っていた王宮の建造物を利用した。
1883年、カミーユ・フラマリオンは自分の天文台をパリから南へ20キロ行ったところにあるジュヴィジーに設置し、また、その屋上に24センチ屈折望遠鏡を取り付けた。かれはアマの天文家だが時折パリ天文台でも活動した。
1887年、かれはフランス天文学協会(SAF)を立ち上げた。SAFは天文学の促進を目指すアマとプロの観測者協会で、パリのカルチエ・ラタンの中心部にあるオテル・デ・ソシエテ・サヴァント(学会の寮)に設けた。1890年屋上にドームが取り付けられ、10.8センチ屈折望遠鏡、1900年に同種の望遠鏡が19センチ屈折望遠鏡と共に収納された。
同じ頃ソルボンヌ大学では全面的な再建が行われ、1901年に完成した。実はかねてルイ13世治下、リシュリューの政権時代1626年と1653年の間に再建されたことがあったが、中世以降リシュリューの改築の後ソルボンヌには何も残されなかった。1901年リシュリューの遺産とも言えるソルボンヌに残された唯一のものはかれが埋葬されている教会だけだった。日時計は1876年に設置されたもので、その後、中央中庭の北側、教会に面するいまの位置に再設された。
新設された構造物の中で一番高さがあるのは、二つのドームを冠する天文塔である。高い方のドームには観測用の24.1センチ屈折赤道儀と天体写真用の21.9センチの屈折赤道儀が備えられ、低い方のドームには子午線環が据付けられた。この二つのドームはオテル・デ・ソシエテ・サヴァントやエコール・ポリテクニク(理工科学校)、アンリ・ポアンカレ研究所の屋上と同様カルチエ・ラタンの上階からも見ることができる。
しかし、ソルボンヌ天文台は早くも1909年にその活動を中止した。ひとつには機器の手入れ、保護があまりに困難だったため、またひとつにはパリ中心部からの光害が増してきたことである。主要な機器はパリ天文台に搬送され、そこで1940年まで使用された。天文塔での天体観測は1980年まではもはや不可能だった。しかしパリ開放のための戦闘中、1944年8月、パリ天文台は観測定点として使用された。今も主要ドームの真下の壁の外側に弾痕がいくつか見られる。
一方、ジュヴィジーにあるカミーユ・フラマリオンの天文台は観測、天体撮影ともども活発に行われていた。1925年、カミーユの没した後は未亡人ガブリエルが1962年他界するまで天文台を管理してきた。著名な火星研究者ユジェーヌ・アントニアヂ が1895年と1902年の間、当天文台で活躍している。その後、フェルディナン・ケニッセは1951年まで多くの観測と天体写真を蓄えた。かれはまた、ジュヴィジー天文台で彗星を二個発見している。
1962年以降天文台の所有権はSAFとジュヴィジー市が共有することになった。70年代に屋根の修復がいくらか行われたが、財政難のため徐々に衰退していった。やっと最近になって《史跡》としての地位を確立し、ドームと屈折望遠鏡二つともが修復された。現在わたしは天文台再開の最終調整の責任者だが、まもなく最初の観測についての報告ができるものと願っている。建物のその他の部分はまだ多くの修繕を要する。
オテル・デ・ソシエテ・サヴァントの天文台もたいへん活気があり、週二回一般公開を行ってきた。この行事は通常SAFのプロの専門家が指導してきた。その他の活動は協会のアマの会員による写真観測や眼視観測で、その後、プロになった者も多い。1935年10.8センチ屈折儀がマノン(Manent)作の日周運動装置の付いた15.3センチ屈折儀に取り替えられた。ドイツ軍のパリ占領時代に19.0センチ屈折鏡のあるドームは活動を停止した。1952年に修理され、19.0センチ鏡は21.5センチ鏡と交代した。
残念なことに1968年、オテル・デ・ソシエテ・サヴァントの所有者だったパリのアカデミーは別の目的に使用するため建物を再生した。これは現在パリ・ソルボンヌ大学の研究塔となっている。場所はセルパント通りの28番地である。
その結果、SAFには十年間天文台がなかった。1976年新しい契約がパリのアカデミーと提携され、ソルボンヌの天文塔はSAFの自由裁量に任せられた。この契約は15年毎に更新しなければならない。
天文塔のドームは何ヶ所か修理する必要があることがわかったので、SAFによって修復された。またドームを回転する新しい装置と望遠鏡を支えるコンクリートの架台も導入した。オテル・デ・ソシエテ・サヴァントから移送された15.3センチ屈折望遠鏡がその架台に据え付けられ、1980年10月から始まる観測に再び使用できるようになった。同じ所から来た21.5センチ屈折鏡はSAFから貸し出され、パリの西30キロ離れたトゥリエルでの一般公開を促すためで、現在も当地で稼働中である。
目下、天文塔の四つの階(レヴェル)は異なった二つの活動に占められている。即ち、上のドームにおける観測と下のレヴェルでの鏡面研磨作業である。
SAFの器械課員は50名近くの会員で構成されているが、大部分の会員は望遠鏡の自作に関心があり、全部ではないが一般的にニュートン式型である。会員は火曜日の夜と土曜日の午後天文塔に会合し、自分たちの器械の鏡面研磨や検査を行うことができる。鏡面一枚でやめてしまう者もいるが、一枚済んだらその後より大きな鏡を磨きたくなる者もいるし、主に他の人たちを手伝うために留まる人もいる。製作される鏡面はたいてい口径20センチから40センチである。
天文塔のレヴェル0はサン・ジャック通りから約20メートルの高さにあって、エレベーターで上がれる唯一の階であるが、現在は大学内の広範囲にわたる修理工事中で三ヶ年使用不能である。レヴェル0では鏡の放物面をチェックするためにフーコーテストが使用される。このテストは10ナノメーターの小さい傷までも検出できる。実際、この装置はまったくシンプルなのですべて手作業で製作されている。
レヴェル1は鏡面の研磨に使用される。これも完全に手作業で行われる。二枚のガラスを重ね、その間に研磨剤を入れて摺り合わせていく。下のガラスは凸形の盤になり上のガラスは凹形の鏡になる。レヴェル1は二つの部分に分かれている。第一の部屋は初め鏡の表面を削り球形にするために使われ、第二の部屋は円形で低い方のドームの真下に位置し、そこにはもはや子午線環はない。その部屋で鏡は最終的に磨かれて放物面が与えられる。今こそフーコーテストを行う時だ。鏡の表面形状が完璧になるまで何回も何回もテストしなければならない。それに続いて鏡面に金属メッキを施し、光が完全に反射するようなる。この工程はSAF所属の別の部屋で行われる。
レヴェル2は上の大きいドームの直ぐ下にある広い方形の部屋で、壁の四面に窓があり、ここからパリの旧市街の見事な眺望が得られる:パンテオンやノートルダム大聖堂、エッフェル塔、モンマルトルのサクレクール寺院が含まれる。かつてはこの階はいつでも観測できるよう待機する訪問者を受け入れてきた。レヴェル2とレヴェル3は狭い木製の螺旋階段を使って昇り降りし、訪問者の人数は六名に限られている。
レヴェル3は上のドームが被さった円形の部屋で、高さは路上から39メートルある。ドームの外回りを歩くことはできるが、必ずしもお勧めはしない。
ここは現在パリで定期的に一般公開をしているただひとつの天文台である。週に二回月曜日と金曜日の夕刻15.3センチ屈折望遠鏡を使って来館者と共に月面や惑星を、また二重星や明るい星雲のような遠い宇宙の天体を観望する。このような天体は大型の望遠鏡よりも星像がシャープなことが多い。右回りのモータードライヴ、これは地球の自転に合わせるように回転する装置だが多少の補正を要する。そのほかの7トンのブロンズ製ドームと器械は手で動かす。
わたしを含めて11名の指導者が、だいたい月に一回の割で一般の参加者を受け入れるようにしているが、わたしは観望会の運営を組織立てている。天気が好くないときは、たとえば遠くのビルの看板やエッフェル塔のレストランの中を歩いている人たちを望遠鏡で観察して見える像の反転を図解して見せることができるし、また、各指導者は自分の観測のために望遠鏡を使用もでき、また天文台に友人を迎えることができる。
わたしの場合を挙げると、わたしは太陽をスクリーンに投影して日没まで観察するのが好きだ。はじめは黒点がはっきり見える。つぎに、太陽は上部が緑色の線に下のほうは赤い色の線の卵形になっていく。鳥がつぎつぎと、ときには飛行機すら太陽の像を横切っていく。ときどき太陽の形が大気の屈折現象のせいでいびつになることがある。おわりに地平線の細部が太陽の中に現れる。たとえば冬至のころムードンの森の葉のない木々や夏至のころ凱旋門のテラスを歩む人たちの姿である。
謝辞:上梓にあたって私の執筆に校閲等の援助を戴いたチャールズ・ホワイト氏に深甚なる謝意を表す。また、上掲の写真は全て妻のヨーコ・オジェが撮った。
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