優れたアマチュア天文家であり、芸術家にして、天文歴史著作家でもあったリチャード・ボームが2017年11月12日に他界した。彼はBAA (大英天文協会) に70年の長きに渡って在籍し、1979年から1991年まで地球型惑星課の課長を務め、1991年から2000年まで水星・金星課を課長として率いた。彼はまたALPO (Association of Lunar and Planetary Observers) でも同様の役目を何年かに渡って遂行した。1988年には多年の功労に対してBAAからリディア・ブラウン賞を受賞し、また同年ALPOのウォルター・ハース観測賞受賞の栄誉に浴している。
加えて彼は、天文歴史学会の名誉会員であった。群馬県大泉町の新天体捜索のエキスパート小林隆男によって1996年2月18日に発見された小惑星7966番は、Richardbaumと命名されて彼の栄誉を称えている。
彼の天体観測者としての強い熱意と類い稀な能力、そして優れた天文歴史エッセイや著作の数々は世界中の人々に知られていたし、それにもまして惜しみなく他者を励ます優しさは誰からも愛された。
ボームは第二次世界大戦中にイングランドのチェシャ―州の州都チェスターで育った。彼の父は警察官で、一家はブートン地区のディーバンクス1番地に住んでいた。ドイツ軍による度重なるロンドン大空襲に心を乱されながらも、十代前半にして彼は天文に興味を惹かれるようになった。最初に使った観測装置は“円柱かぎ爪スタンド”に載った口径わずか3インチの屈折式経緯台望遠鏡で、部屋の中から窓越しという限られた条件で許される対象―太陽や月を専ら観測していた。彼は美術専門学校に通い、また1948年から1950年にかけて英国空軍での義務兵役を果たした。その頃彼は既にBAAのメンバーになっていて、H.P.
ウィルキンスやその仲間のロバート・バーカーや、“Dai”アーサー
(譯者註1)らと付き合うようになっていた。そしてもちろんパトリック・ムーアとも。彼の1947年4月の大黒点群のスケッチは、未だに太陽観測史上最大の黒点群であるが、この年のF.J.
セラーズのBAAのレポートを飾った。ボームの最初の著述は、同年のムーアとの共著の論攷で、当時ダランベール山脈として知られていた月面地形に関するもので、現代ではオリエンターレ多重衝突盆地
(東の海)
の外縁のコルディレラ山脈リングの一部に相当する地域についての考察である。
1950年に故郷チェスター市に戻った彼は、チェスター自然科学文芸協会の天文部会の再興に興味を抱いた。この機会に彼はグロヴナー博物館に出入りするようになり、地下の倉庫で2台の望遠鏡を発見し、そのうちの1台―きちんとした三脚に載った3インチの屈折望遠鏡―を自分用に手に入れた。これがしばらく彼のメイン望遠鏡だったが、数年経って購入したクック社製の赤道儀に載った4.5インチのレイ社製の屈折がこれに取って代わった。 彼は生涯に渡って大型の望遠鏡を全く使わなかったので、彼が成し遂げた観測成果は、彼の鋭敏な眼力と、見分けたものを記録する並外れた能力の証に他ならない。早いうちから彼は金星に特別の興味を持つようになり、ALPOの機関誌The
Strolling Astronomer誌上で パトリック・ムーアとかなり熾烈な論争を繰り広げた:論争のポイントになったのは、ボームが金星面上に幅広い線状の模様を捉えて記録した一方、ムーアにはそのような模様を見分けられなかったという点についてである。当初、大型の望遠鏡での所見は小さな望遠鏡での印象に勝る、というムーアの議論が優勢に見えたが、最終的にはリチャード・ボームの観測結果が支持された。今では明らかになっていることだが、青色光の短波長側のはずれないしは近紫外波長域でのディテールの検出感度は観測者によって個人差があり、ボームは明らかにこの波長域に鋭敏な詳細検出能力を備えた一人だった。彼自身が書いたところでは、“パトリックが認識していなかったのは、現代科学が証明しているように、人々が見るものは互いに異なっていて、誰かが普通だと思っている見え方が、他者には全然そうでないことがある、という事実である。”
またこの時期、1950年代の半ばに、ボームは金星についての小冊子を著そうと計画していた。しかしながらこれは先を越されてしまった。のちに彼が述べたところによると、“1946年に初めて出席したBAAの例会でD.W.G.
Arthurが私に向けて発した警告をすっかり忘れて、このアイデアをうっかりパトリック・ムーアに話すという過ちを犯してしまった。彼は、けっこうなことだね、頑張って、という感じの返答をした。その二か月後、私は彼から手紙を受け取った。陳謝を並べ立てながら、ある出版社から金星についての本の執筆を依頼された、と書いてあった。まさか彼がそれを承諾するとは。私はあっけにとられたが…..しかしそれまでの友情を考えて私はイエスと返答して、自分の金星の本についてのアイデアを放棄した。….率直なところ、このムーアの要請に否と首を振らなかった自分が腹立たしかった。とにもかくにもパトリックは彼の著書を完成させ、1956年にフェイバー&フェイバー社から出版された。初版にはあいまいに“リチャードに捧ぐ….”と書かれていたが、Dr.
Whoじゃあるまいし、
リチャード?誰?それ?….という扱いだった‼”
(譯者註2)
リチャードと愛妻オードリーは1956年に結婚した―彼らがハネムーンで滞在していたロンドンでは、パトリック・ムーアがBBCのインタビューを受けていて、これがのちのムーアのTV人気番組“Sky
at Night”と彼の名声につながった。彼らが引っ越したのはチェスター市フィットチャーチロード25番地―この住所は天文や天文歴史学の多数の友人たちにとって有名なものになった―リチャードはここに居を定め、1981年まで郵便局を経営した。彼らはここでずっと暮らし続け、三人の子供、エイドリアン、ジャクリーン、ジュリアンを育て上げた―ジュリアンはリチャードの足跡を追って傑出した宇宙アーティストとなった。
リチャードはBAA会誌に興味を引く宇宙の話題についてのエッセイを数多く執筆し、1973年には革新的な最初の著書“諸惑星:神話と実態”を出版し、他ならぬ偉大なカール・セイガンがサイエンス誌の書評で絶賛した。その後彼が世に問うた著書には、1997年の“惑星ヴァルカンを捜して:ニュートンの時計仕掛けの宇宙の幽霊”(ウィリアム・シーハンと共著)、そして2007年の彼の最高傑作“幽霊天文台”などが挙げられる。これらの著書は非常に深くリサーチされていて、しかも極めてユニークなスタイルの文章で綴られており、マーティン・モバリーの言葉を借りれば“天文歴史著作家にして、目の覚めるような言葉使いの達人”という定評が確立した。
おそらく彼の最大の遺産は、彼が啓発して月や惑星に熱烈な興味を持つようになった若い世代の多数の人財だろう。これらの人々には有能な観測者たち、BAAの課長たち、ALPOの課長たち、たとえばデイヴィッド・L.グラハム、フランク・メッリロ、リチャード・マッキムらが含まれる。彼は最後の最後まで活動的だった。実際のところ彼は、死の二日前に、中国のジンミン・リンからのEメールによるヴァルカンについての質問に回答を試みている。彼は常に自分の業績に対して控えめで、そして非常にしばしば過剰に自己を批判する傾向があったにもかかわらず、彼の死後、世界中から賞賛の声が押し寄せた。ノートルダム大学のマイケル・クロウ教授の記すところでは、“彼の著述は….私の知る限り、大学で教育を受けていない人としては際立って洗練されていた。” カナダ王立天文学会の公文書記録人ランドール・ローゼンフェルトの述べるところでは、“彼は研究に値する問いかけを尋常でなく明確にまとめることができて、他者が見逃すようなテーマをありふれた情報源に見出し、そして見過ごされた情報源そのものを発見する能力に長けていた。”アリゾナ州トゥーソンのジェット推進研究所の惑星科学者にして芸術家のウィリアム・K.ハートマンが物語るには、“ ボームの望遠鏡による惑星スケッチの数々は素晴らしく美しく表現され、望遠鏡が欲しくなり、天文学の道を選ぶことになった原動力の一つだった。私が十代の頃の話です。”
惜しみない気前の良さや、賞賛に値する能力だけで偉大だったわけではなく、彼は愛すべき人だった。ここ数年の間に我々は何人かの伝説的な人物を失った:アーサー・C.クラーク、パトリック・ムーア、ユーエン・ウィタカー。リチャードは最後に残った大物だったろう。今や彼が逝き、“魔法の時代”…..アマチュアが月や惑星の主たる番人であった時代は過ぎ去り、ほどなく薄れゆく記憶となろう。しかしながら、誰もがリチャード・ボームのエッセイや著作を紐解き、あるいはかって彼の目に映った太陽系の天体の絶妙な表現を目の当たりにするとき、かの魔法の時代の記憶は誰にも鮮やかに蘇るだろう、彼の言葉“神話と伝説はことごとく一掃された”とともに。
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譯者註1:イギリスのSF仕立てのラグビー映画“Ymadawiad
Arthur (1994)”に
登場するラグビーヒーロー“Dai Arthur”を意識したか? 機会があれば著者に確認してみたい。
譯者註2:水元 伸二氏に紹介していただいたウェブサイトで“The Planet
Venus”の第三版の電子版を閲覧できる:
https://archive.org/details/ThePlanetVenus
譯者の読んだところでは、どこにも“Dedicated
to Richard…..”とは書かれていない。