巻頭論攷
火星の1954年、1969年、1986年、2001年接近時の集中観測
に関する私的な思い出 (第一部、1954年と1969年)
南 政 次
CMO/ISMO #437 (
序論
来年2016年の接近は、2018年の大接近(27 July 2018衝、31 July 2018最接近、最大視直径24.3秒角)の前の年の接近である。少しデータを並べると、衝日 視赤緯 最接近日 視直径 火星の季節はそれぞれ、
22 May 2016 21.5°S 30 May
2016 18.6” λ=161°Ls
となる。(以上以下、Almanac的データは西田昭徳氏のご教示に拠る。) これに似た接近は、79年周期でみると、1937年の接近で、このときは
19 May 1937 20.6°S 28 May
1937 18.4” λ=158°Ls
であった。1937年は佐伯恒夫氏が花山天文台の31cmクック鏡で2 June
(λ=161°Ls)に素晴らしいシーイングに出会った年である。さらにもっと近い284年周期案を採ると、2016年接近は1732年の接近に似ており, それぞれ
20 May 1732 21.1°S 28 May
1732 18.9” λ=161°Ls
で、実際(1732、1734)のセットは視赤緯に関して、(2016, 2018)のセットとよく似ている。
実際、2018年大接近の要素を書きだすと
一方、1734年大接近の要素は
となっているわけである。
ところで筆者の経験した範囲では大接近の前の接近としてはこの2016年接近は遡って1954年(筆者15歳)、1969年(30歳)、1986年(47歳)、2001年(62歳)の接近があり、今回はこれらを回顧して見ようと思う。(但し、複数回に分け、第一部は1954年と1969年に限る。) 筆者は2016年の観測が可能かどうかわからないが、生きていても77歳である。
上に上げた四回は、しかし、実際にはデータ上いくらか違いがある。
先ず、対衝、最接近日のデータを比べてみる。
1954
衝日 視赤緯 最接近日 視直径 火星の季節
24
June 27.5°S 2
July 21.9” λ=189°Ls
1969
31
May 24.0°S 9
June 19.5” λ=170°Ls
1986
10
July 27.7°S 16
July 23.2” λ=206°Ls
2001
13
June 26.5°S 21
June
20.8” λ=182°Ls
尚、既にCMO #327で引用した村上昌己氏の作成になる興味深い比較図があるのでここで再引用する。
1954年の場合
筆者が初めて足羽山の15cm屈折望遠鏡で火星を覗いたのは1952年(この年に天文台付博物館設立)であったが、何度か火星を覗いたもののまだ仲間に入れて貰えなくて、スケッチなどはしていない。ただ佐伯恒夫氏や村山定男氏の1952年のスケッチは雑誌などで見られる限り何度も見ていた。足羽山の博物館と私どもとの縁は、私どもの通っていた福井市光陽中学校の校長・堀芳孝先生が植物分類などの大家で、既に博物館の初代の館長であったことにあると思う。花山豪氏や筆者、それに中島孝氏はいずれも光陽中学の出身で、サイエンス:クラブに属していた。尤も、光陽中学だけではなく、当時明道中学校の生徒・黒田壽二氏も博物館に出入りしていて、1954年の博物館の記録によれば、観測者名簿に彼の名が記載されている。黒田氏と筆者は藤島高校1年の時、偶々同級になったのだが、既に私は彼とは中学生時代、ドーム内で既に会っていたわけである。彼は後に学校法人金沢工業大学(KIT)の学園長・総長を勤めたかたで、後年、2004年にW.
Sheehan氏を呼んで石川県穴水でLowell
Conferenceを催した時、会議場やローヱルの辿った海の道に関してKITの施設や船の手配などで黒田さんにはたいへんお世話になったのだが、出会いのもとは足羽山の天文台ということになる。
1954年の筆者の観測は極めて不十分ながら少し系統立てて火星観測を行った最初の機会であった。筆者は当時15歳で藤島高校1年であった。従って、然程客観的に参考になるような内容にはなり得ないが、私がどのような方法でこの道を続け、どのように成長していったかという点で幾らかでも示唆が含まれれば幸いと思って綴ることにする。当時、足羽山では一年先輩の花山豪さん(乾徳高2年)や、一年後輩の中島孝氏(中3)とチームを作っていた。
扨て、筆者の最初の観測(No.1)は4 April 1954
(λ=140°Ls)の朝5:11から5:30JSTまで行っている。集中して覗いていた時間をObservation
Timeとして真ん中に5:12から5:24までを記載しているが、この複数時刻記述は不都合とOAAの佐伯恒夫・火星課長からご指摘を受け、No.15からは観測時として、平均した単独時を選んでいる。この年の観測帳はB5の白紙のノート(皆さんの日章ノート)片面全部に自分で勝手に作った日付欄、時刻欄、望遠鏡・倍率など、シーイング、透明度、天気、ω、φなどのデータ欄、などを謄写版で印刷していた。このノートはこの年6冊存在する。一冊に26観測ぐらいが入る。一頁が一観測に関する。スケッチは画用紙で行い、清書も同じ画用紙で、別に保存した。あとメモや、色彩記述、Depth、Remarksなど整理された内容ではないが、ノート片面を左欄と右欄に分け、各項目を線で仕切っている。このNo.1時の火星中央点は(ω=157°W、φ=0.3°S)で、視直径δは10.1”、火星の季節はλ=140°Lsであった。視直径からみると、出発は早くない。SeeingはPoor、倍率は250×、375×、薄明まで見ていたようである。天気は晴れとあり、雲量3、風0~1とある。福井市湊小学校の5、6年時に毎日午前10時ころ理科の林先生の指導で百葉箱を預かって気象観測をしていたから、雲量の計測はその時の名残だが、風力をどう判断したか覚えていない。但し、記録は最後まで続いている。朝の観測の場合、朝方に天文台へ向かったということはないので、夕方から三階の準備室に待機していたと思う(ドームは屋上)。Depthには南端4.5、西端3.5などとあるが、多分少数付5段階で、当時の東西の決め方は天の方位に依拠したと思っていたのだが、西端が明るいというのはf端のことであろうから火星面に依拠した方位を身に着けていたらしい。南端はs.
p. capか?とあるので迷っていたと思う。南極冠は既に極大を過ぎ、縮小に入っているのだが、この手の接近は赤道が正面を向くので輪郭が取り難く迷うのである。11
Aprまで迷っている。5 Aprには午前4時台と5時台に二回観測している。最初に模様の名称が現れるのは、16 AprのNo.7
(δ=11.4”)のスケッチで、M
AcidaliumとS Auroraeである。この日の観測は午前3時台と4時台に二度行っている。二回目からスケッチ円の直径は少し大きくなったこともあり、4cmにしている(それまでは3cm)。17 Apr ω=010°WにはMare
Acidaliumの西明るいとあるので、Tempe辺りのことかと思う。矢張り西は火星面上の方位である。24 Aprの頃にはSyrtis
Mjを見ていたようで、ω=321°W
(No.12)でSyrtis
Mjの西に小白色部あり、とRemarksにあるが、メモにはこれは中島氏のスケッチにも現れている、とあるので、すでにNj氏と組んでいたことがノートでも判る。観測時は4時台から5時にかけてである。倍率は180×と250×であるが、180×ではSyrtis
Mj北部からS
Sabaeusにかけて濃く見えて色彩の対照が綺麗だとある。薄明になると観測室が明るいとあるのはドーム内のことであろう。5月上旬は観測がなく、12 May (No.15、ω=133°W)には観測時を先述のように平均時を書き込み始めた。但し、03:23
JST等と分刻みで矢鱈細かくしており、これは後年もっと緩く、03:20乃至03:30とするようになる。まだGMTは書いていない。以下1954年に限りすべて日本時とする。火星の季節はλ=160°Lsになった。視直径は15”を超えているので、甚だのんびりした緩い観測態勢である。18 Mayにはδ=16”を越え、観測も夜半前から始め、0:03、02:14、05:16 JST(Nos.17、18、19)の三回の観測である(どうもこの区切り方は時間を無駄にしているように思う)。一回目には模様の色彩に注意し、二回目ω=062°WのスケッチにはAmbrosiaの濃化が描かれていると、7月6日付けの佐伯氏のハガキに書かれているという後記がある。スケッチは自分では選ばず全部佐伯氏に送るようにと厳命されていたので、せっせと墨バックで複製を拵え、送っていた。この日18
Mayの三回目の観測は南極冠かどうか見極める為に、日の出後の像を選び、明るいから極冠と思えるとメモしている(φは3.7°S)。シーイングは不明とある。火星自体は空が明るいため、強く赤みを帯びるとあるが、これには日にちは違うかもしれないが、青空バックの火星は綺麗という記憶がある。27 Mayにはδ=17.7”になったので、スケッチ径を5cm円に上げた。28
May、29
Mayと三日連続で観測している。6月は衝の月であったが、振わず(梅雨の所為もあったと思うが)
4 Juneの三枚きりであった。4
Juneは00:09
JST (ω=241°W)、02:02 (ω=264°W)、翌日の23:45(ω=221°W)の三枚:前二者ではThoth-Nepenthesが直線状で淡く太いこと、Moeris
Lacusが淡化したのか、期待外れという記述がある。13 Juneは快晴で、風もなかったので、足羽山に登ったが(当時は市内に居住、自転車で足羽山の麓まで通ったと思う。あとは徒歩で山登り)、玄関払いを喰い、天文台に入れず、頭に来て光陽中学校へ出向き、02:01
JST に懐かしい5.8cmウラヌス号でδ=20.4”の火星を覗いた。私は光陽中を卒業しているから、多分中島Nj氏が一緒だったのだと思う。当時、博物館と別棟に木造家屋が一つあり、ここに東谷薫さんが棲んでおられた。解剖・剥製の得意なかたで、後に舘長職も務められたかたである。毎夕家屋から博物館まで同道して、博物館通用口の鍵を開けて下さるわけで、ご苦労を掛け通しだったのだが、このときは、多分ご機嫌が悪く、「今晩ぐらい休めや」とか何とか東谷さんに言われ追い返されたということであろう。
7月はNo.29からNo.46まで18回観測している。1 July
(δ=21.9”、λ=188°Ls)は天文台の一般公開日で、22時過ぎまで観望会が続いていたはずである。一般公開中は天気も好かったが、その後雲が遮ることもあった。(2日が最接近日で、2、3日も矢張り一般公開の火星観望会であったが、2日は雨、3日は273名(私のノートの記録では250人)が詰めかけたという博物館の記録があるから、私のノートには推定数の記録がないが、1日の観望者も相当な数ではなかったかと思う)。シーイングは1日の方がはるかに良かった(poorまたはmoderate、時々good)。ところで、この1
July (No.29)に私が観測を開始出来たのが22:35
JSTで、観測時刻は22:50
JST (ω=329°W)で、23:20 JSTころに終了している。後の文献で見ると佐伯恒夫氏が22:15
JSTにエドム岬が非常に輝いて消えていったという閃光現象を観測されたのがこの1
July at 22:15 JST ∓5秒である。これは2001年になって、似た条件が起こることをT.
Dobbins氏とW.
Sheehan氏が看破し、D.
Parker氏などの観測隊がフロリダ・キーズに操り出し、ほぼ予言通りに閃光を観測したというおまけつきが齎され、たいへん話題になった。1954年の場合私は10分+α違いで、この機会を逸したわけだが、当時は勿論佐伯氏の観測も知らず、私の観測頭にそのような余裕があったとは思われない。従って、機会を逸して寧ろ好かったと思っているぐらいである。閃光現象に遭遇しても、観測一年坊主に認識できるだけの力量があったとは思えないし、たとえ気付いても錯覚ぐらいにしか思わなかったかもしれない。それにスケッチ用に鉛筆を走らせていれば、22:15分前後数秒という微妙な閃光時間は簡単に過ぎ去ってしまったであろうと思う。私は後にこの話が知られるようになっても、この一時的現象には然程興味は湧かなかったと思う。1Julyの一回きりのω=329°WにはSabaeus
Sから尻上がりに続くHellespontusや北のIsmenius
L他を観測できたことで満足感があった。スケッチ用紙は6cm径にしている。尚、1Julyは前述のようにλ=188°Lsで、2001年の大黄雲の発生時期を越えているのであるが、大黄雲の兆候は前後には見られなかったことは観測一年坊主と雖も、確言出来る。3 July、4Julyの単発の観測の後、11 Julyには定期考査中だが、天文台に行っている。15 Julyには次のような面白いことを記している「ドームのスリットを開けるのに苦労(中島氏、森国氏)」。当時スリットのワイヤーが緩み、開けるのに相当工夫が要り、チェインにぶら下がって開けるのだが、それでも駄目な時があったと思う。私は森国氏(光陽中の天文クラブ員)をしかと覚えていないが、この時は二人がぶら下がったのであろうか。或は、中島氏がドームの回転部に上がってスリットを直接開けた記憶もあるのでこの時であったかもしれない。16 July
(δ=21.2”、λ=197°Ls)には前日に引き続きCerberus
Iが濃化拡大したと記述している(Trivium
Charontisならば、南に動いたように思えるが、まずこれは考えられないからCerberusがT.
Charontis より濃くなっているのであろう、という添え書きがある。) この日は21:30
JST (ω=176°W)、23:08、25:38
(ω=236°W)の三回観測している。18 Julyは21:00、23:45
(ω=191°W)の二回観測。21 July
(λ=200°Ls)は20:25 JST、22:25、24:49の三回、最初の観測(ω=115°W)と次(ω=144°W)でPhasisに言及(淡いが太い)。なお、この日も一般公開で26名が参集した。この日からSeeingを10段階ディジタル記述に換えている(後にまた5段階に戻す)。Ambrosiaも淡いながら見える。北極雲の記述もある。22 Julyは21:22、23:40
JST:いろいろ書き込みが多いが、濃いM
Sirenum (褐色)やSolis
Lの輪郭を上手く捉えていない。564×の効用を記している。24 Julyは快晴で雲量0、絶好で足羽山に出かけるが、また東谷さんが御機嫌ななめで花山氏ともども玄関払いを喰う。ガッカリで腹も立てたが、この時は花山氏と共に、乾徳高校(今の福井商業高校)にお邪魔し理科室から10cm反射を借りて、20:15、21:39
JSTに二度観測した。Seeingは5~6、像は良好で、南極冠は綺麗。4mmアイピースがないのが残念と書いている。Aurorae
Sも独立したように濃く見える。Lunae
Lが濃く見えた。極冠帯も濃い。
博物館の東谷さんには鍵の受け渡しで世話になっていたから、強くは言えないのだが、「火星」観測に対して理解があるようには思えなかった。余談になるが、翌年か翌々年(1956年は火星の大接近)に山本一清博士の主導で、ローヱル天文台の国際火星委員会に呼応して、国内の火星委員会が発足し、熱海で会合が持たれた。このことについてはOAAから私どもには連絡はなく、しかし、博物館天文台には招待状が来ていたようで、この会合に東谷薫氏がお独りで熱海に出かけ、国内委に出席していた事実が『天界』か何かに出たのを後で読んで知った。東谷氏は私どもに何も告げなかったが、会議場では、福井の火星観測三人組の名前は佐伯課長の口から出ていたはずで、そのことによって東谷氏の熱海でのレゾン・デートルは確保された筈と思われた。以後、東谷氏の不機嫌には出合わなかったように思う。
但しその後も別のおかしな館長が配属されて、われわれの闘争を余儀なく実行せざるを得なかったこともある。更に余談になるが、この時、一緒に追い返された花山豪さんは東洋大学を卒業された後、福井市役所に就職され、一時、博物館に配属、天文担当を熟していたし、最終的には、1980年代或る“へんな”館長の追い出しに成功してから、市役所No.3の出納長で活躍された。当時の市役所のNo.2の山本務助役には博物館天文台の観測態勢の意義などご理解いただいたことも大きく、観測員への配慮のほか、この時期前後、主望遠鏡も15cm屈折から20cmED屈折に格上げされ、ドームのスリットもスムーズに動くものに、ドーム自体が新型になり、冬、雪がドームの隙間から吹き込むこともなくなった。観測準備室も後には暖かく机付の畳部屋に二段ベットという形式に衣替えされた。
閑話休題:7月の最後は26 July一回23:10
JST、シーイングは悪かった。8月には最接近から一か月が過ぎ、1 Augでδ=19.2”に落ちたが、8月には(7月は18葉だったのに対し)天候に恵まれて57葉のスケッチを得た。火星の季節幅ではλ=207°Lsからλ=223°Lsをカヴァーしている。黄雲の季節に入っているが、一年坊主には意識がない。2 Aug
(λ=207°Ls)にはシーイングが好く(3時々4又は5)19:40
JST (ω=355°W)、20:15 (ω=003°W)、21:53
(ω=013°W)、23:08 (ω=046°W)と四回観測した。三回目がNo.50であった。色は、S
Sabaeus褐色、Margaritifer
S緑色、Syrtis
Mj緑色or青色。S
Sabaeus は濃い。Hellasは東に明るい。北極の雲大きく明るい。Nilokeras、Oxusが濃い。盛んに口径がもっと大きければ二重運河がいくつか見えるであろうと書いている。3 Aug
(λ=208°Ls)シーイングは時々5とあるが、ω=033°Wの一枚だけ(福井市の花火大会の後、観測とあるので、屋上には何か事情があったのであろう)。Nilokerasは二重に見える時があった由。Lunæ
L辺りは淡い。Auroræ
Sも分解。手書きだがæを使っている。4 Aug
(λ=209°Ls、δ=18.9”、快晴)は20:20
JST (ω=346°W)、20:5 1(ω=354°W)、22:32
(ω=018°W)、24:08 (ω=042°W)の四回。シーイングは最初がor
6で、時々5、時々5と次第に悪くなり、夜半には2に落ちた。Hellespontusは細め。Syrtis
Mjは最初大きく見え、東に寄って、北端鋭くなる。Deltoton S
やや出っ張っている。S
SabaeusはArynと共に濃い。S
Sabaeusの南には何も見えず、Pandorae
Frは出ていない。Oxusが好く見える。Oxia
Palusやや判る。Ismenius
L大きく、Deuteronilusと共に北極雲に接している。ω=018°WでArgyreお目見え。M
AcidaliumとN雲の境ハッキリ、等。5 Aug:快晴→晴、20:30 JST
(ω=340°W)、21:34 (ω=355°W)、22:39
(ω=011°W)、23:42 (ω=026°W)の四回。ほぼ一時間毎。勿論一時間で14.6°Wというのは知っていた。6 Aug: 20:40
(ω=333°W)、21:35、23:29
(ω=014°W)の三回。最初Pandorae
Frが少し見えるようとし、三回目には確かに「ある」、としている。南極冠の暗帯は細く濃い。Syrtis
Mj北部濃い。Argyre付近に明るいところがあり、その外側に色彩の異なる明部がある。Edom明るい。尚、この日専用の寫眞儀を取り付け、花山氏と火星の写真撮影を試みた。花山氏:22:22
JST, 筆者:22:56
JST, Sakura
SGという乾板に幾つか像を落とす方法で、18mmHMで引き伸ばして、直径2mm程度の像。露出は10秒ほど。S
Sabaeusが左側に写っている程度。月面などもこの寫眞儀で撮ったが、乾板は博物館に保存されている筈である。広角レンズでは流星が写ったこともある。露出が一時間ともなれば、30分で花山氏と交代したと思う。地下に現像室もあったが、今は改築されて存在しない。7 Aug
(δ=18.4”): 一般公開18名程。19:54
JST (ω=312°W)、21:08 (ω=330°W)の二回観測。Syrtis
Mj濃青緑色、S
Sabaeus褐色、Syrtis
の南は青緑色、Nilosyrtisの北端、濃青緑色。濃度はSyrtis
Mjと同じ。Hellas赤みを帯びている。北極雲に暗帯が入り、分裂した感じだが、明度は両端で同じ。Phisonは斑点の集まり。Deltoton
S西側凸凹。8 Aug
(λ=211°Ls、φ=4.1°N):
20:13 JST (ω=308°W)、21:55、22:52
(ω=346°W)の三回、シーイング不良。北極雲は東側が明るく、西側は赤みを帯びている。砂漠の色に近い。雲が東に厚く、西に薄いと判断(後半では西に明るい雲が出てきた)。Ausonia付近霧か。ThothとCasius
(やや濃い)の部位とSyrtis
Mjの間は好く目につくほど明るい。Pandorae
Fr出ている模様。Edom明るい。9 Aug:
20:55 JST (ω=309°W)、21:43、22:18、22:43
(ω=335°W)の四回。Nepenthes付近淡く分からない。霧? Syrtis
Mjを境に砂漠の色が異なる。Hellasの周囲はぼんやりして詳しく分からず。Hellespontusは明瞭。ω=321°W
(21:43 JST)ではYとR
filterを使った。Yで北極雲は明るくなる。11 Aug
(δ=17.8”): 19:56 JST (ω=276°W)、20:38、22:08、23:28
(ω=327°W)の四回。快晴だがシーイングは2~3程度。Hellasは南部の方が明るい。但し、境界は不鮮明。北極雲は東の方が明るい。NepenthesとNilosyrtisの間明るい。Cerberus東に点として残る。12 Aug:
20:22 (ω=273°W)、21:03、22:06
(No.80)、23:21
(ω=316°W)の四回: Cerberusは思ったより淡く、西側が稍赤い。Coloe
Pの方が濃い。Libya、Isidis
R明るい。北極雲:西側が明るい。Spcの暗帯:東側非常に濃い。HellespontusとSabaeus
S 分離する。後半Hellas明るし。13 Aug:
19:46 (ω=255°W)、20:36、21:11、21:44、22:20
(ω=292°W)の四回: N
Alcyoniusについて、特にその配置に関して迷いが綴られている。Nilosyrtisは濃い。Syrtis
Mjの朝方の霧は余り強くない。Hesperia見分けにくい。北極雲は乳白色。北極雲は7
Augや8
Augと配置が違う。[メモに:初めて独りで観測したこと、まだ観測出来るが、シーイング悪いし、明日整理に忙しくなるから、寝る:とある。つまり、これまでも夜半に観測が済んでも、朝まで準備室で眠って、明るくなってから朝帰りをしていたということであろう。後年、車が使えるようになってからは、観測終了後直ちに下山する様になった。] 14 Aug:
19:37 JST (ω=243°W)、一般公開、22:15
(ω=282°W)、23:07 (ω=295°W)の三回。Utopia、N
Alcyonius辺り関してに悩みが書かれている。Hellas明るい。Elysiumは赤み、Cerberus濃い。Hesperia稍分解、Ausoniaの北部は淡いが南部は明るい。後seeing悪く、北極雲も掴めない。Aeria赤み強い。21 Aug
(δ=16.4”、λ=219°Ls):一般公開(70~80人)のあと21:50
(ω=201°W)、22:30 (ω=211°W)の二回観測:北極雲は淡い、薄い、Cerberus付近濃い。東端明るい。N
Alcyonius辺り悩みの種。23 Aug:
at 19:35 JST (ω=159°W)、20:25、20:50、21:25、21:54、22:25
(ω=200°W)の六回、南方の海、青灰色。M
Sirenumとその南の模様は容易に区別。Tithonius
L東端に点として見える。北極雲は平たく拡がる(250×できわめて明るい)、大きくなった? Memnonia明るい。西南端凸出の感じ。Nix
Olympiaが見える? Trivium
Chrontis稍大きい。Propontis
I認めず。Phaethontis、Electris認める。[この日は花山、中島両氏は木邊成麿さん宅に見学旅行に出掛けた為、独りでの観測となった(博物館内は剥製なども多いため、夜中独りで過ごすのは気持ちのいいものではない)。但し、私は特別なことが無いかぎり観測が最優先であった]。26 Aug (λ=222°Ls):19:25
(ω=128°W)、20:15、21:00
(ω=152°W、No.100)の三回:Nodus
GordiiとPhoenicis
Lがハッキリとある上、前者についてはこれまでも何度か触れているが、現在の私にはN
Gordiiとは何か不明で、以後言及したことはないように思う。Gigasも認めるとあるが、その後referしたことがないと思う。西南端の凸出? M
Sirenumは濃く独立してみえる。27 Aug
(δ=15.6”、λ=223°Ls): 19:40
JST (ω=122°W)、20:15、21:23
(ω=148°W)の三回:Solis
Lは好く掴めないようだ。それに対してTithonius
Lは明確で大き目。M
Sirenumは好く分かる。Ascraeus
L付近に濃い斑点が見える(これは23
Augのω=171°W以来屡見ているから殆ど確実、とある)。Solis
Lの東に薄暗い白色、西側も明確。Ambrosiaは見難い。Eumenidesの記述有り。8月はこれが最後(No.103)。博物館の記録によれば、8月は花山豪氏も20葉のスケッチを得ているが、9月以降(多分木邊氏宅訪問以降)は観測を辞めたようである。筆者は9月には28葉の観測を得た。2 Sept
(δ=14.8”、λ=227°Ls)からで:19:30
(ω=063°W)、20:20 (ω=076°W)の二回。Solis
Lは淡化したみたいに観辛い。一方Tithonius
Lは好く見える。Ganges
(青緑色)とLunae
LはSolis
Lが問題にならぬほど濃い。Lunae
Lから西へ暗帯奔る。Nilokerasはやや細く出ていてM
Acidaliumに連なっている。Aurorae
S濃い。S
Margaritiferは北に鋭どし。Candorは明るい。Clytaemnestrae
Lucus認めず。3 Sept
(λ=227°Ls): 19:20
(ω=051°W)、20:00、20:34、21:19
(ω=080°W)の四回:M
Acidaliumの大半が北極雲の下。S
Meridiani目立つ。Lunae
LとGanges濃い。ω=061°Wで濃化のLunae
Lの北に黄白色の大きな明部、東西にやや伸びているが円形に近い。黄雲でないと言い切ることは何一つとしてない。火星図と対応しない。南ではArgyreが見える。Lunae
L北の明部はω=069°Wでも好く目につく。Lunae
Lの濃化も異常。Solis
Lの詳細は不明。Tithonius
Lは好く分解する。ω=080°WではLunae
Lの濃度は暗色模様中最大。これは24 July (No.44)以来、兆候があった。5 Sept
(δ=14.5”、λ=230°Ls):
at 20:10 JST (ω=045°W)、21:35
(ω=065°W):シーイング低迷。S
Auroraeの南方の海が最も濃く、Lunae
L付近は然程濃くないのが不思議。M
Acidalium及びその南からLunae
Lにかけて複雑。Aurorae
Sの北、明るく目立つ。7 Sept
(δ=14.2”、λ=230°Ls);19:57
(ω=022°W)の一回;Aryn
Fa、S
Sabaeusなど濃い、「台風3号が近づいているので当分シーイングは回復しないだろう」というメモ。10 Sept
(δ=13.9”、λ=232°Ls):18:40
(ω=335°W)、19:20、20:03
(ω=355°W)の三回。初めて18時台が薄明薄暮ながら観測可能になった。但し、快晴だがシーイングは不如意。S
Sabaeusの北方は赤い。南極冠の暗帯は非常に濃い、しかし、Hellespontusは淡い。「促進波」は完全に去ったらしい、とある。S
Sabaeusは濃い。Hellasは明るい。LibyaよりIsidis
Rの方が明るい。スケッチ円を5cmに戻すが、迷って6cmに戻したりしているが、翌日からは5cm。11
Septは18:46のω=328°Wのみ。Hellasは赤味を帯びている。Hellespontusは明瞭だが、No.70の時のように濃くはない。S
Sabaeusの南は白味があるが、北は赤味。Ismenius
Lを挟んで砂漠の赤味と北極雲の白色の対照は天下一品。名月の観望会で、300人ぐらい参加。15 Sept
(δ=13.3”、λ=235°Ls): 19:39 (ω=302°W)、20:02、21:30
(ω=329°W): Nepenthes稍認められる。Isidis
Rは周りより明るい。Hellasは赤味で明るいが南半分は暗いのでは(Zea
L?)。Syrtis
Mjの西は赤味。S
Sabaeus濃い。Hellespontusの北部は濃化し、Sabaeusの東端と繋がる。Sabaeusの西端ほど濃く、Sigeusは明瞭。16 Sept:19:20
(ω=288°W)、19:50 (ω=295°W):東端明るい。Isidis明るい。Nilosyrtis見える。Hellas明るいが南部は薄暗い。Libyaは赤味。N
Alcyoniusと濃いCasius確認、但し東端に近い。シーイング悪化。19 Sept
(δ=12.9”、λ=237°Ls):19:17
(ω=258°W)、20:05 (ω=270°W); 颱風14号の後:M
CimmeriumとM Tyrrhenum濃く見える。Hesperia
明瞭。S
GomerからN
Laocoontisの方に非常に濃い暗帯が走る。Cerberus面影有り。北極雲小さい? 20 Sept:
19:30 JST (ω=252°W)、20:25 (ω=265°W);久々のSeeing
5。南極冠暗帯目立つ。M
Cimmerium とM Tyrrhenumは濃い。Xanthus明瞭。S
Gomerの詳細は分からないが、ここからのN
Alcyoniusの方への暗帯は濃い。北極雲小さ目。これと砂漠の色合いの対照は綺麗。最後Hellasが出てきた。22 Sept
(δ=12.6”、φ=4°S、λ=239°Ls):19:35
(ω=234°W)、20:45、21:37
(ω=264°W); シーイング度数は高くないが、像が安定している。但し次第に劣化。南極冠の周暗帯は非常に細い。Trivium
Charontisは前回の濃度は去ったようだが大きい。ω=234°Wの図はAntoniadiの5
Sept 1924の構図(ω=231°W)と似ているために(φは16°Sと可成り違うが)、S
Laestrygonumが出ていることに気付いた。前回、これをM
Sirenumの西端と間違えた。Eridania確認。然程明るくない。Ausonia南部とXanthusも確認、Cerberusの東側は西側より明るい。つまりElysium確認できず。北極雲は明るいが、周暗帯はない。ω=250°WではSyrtis
Mjがでていると思われるところが明るく、朝霧か。29 Sept
(δ=12.0”、λ=244°Ls):シーイング劣化;19:15
(ω=162°W)、19:50、20:39
(ω=182°W);M Sirenum辺りが一番濃い。南極冠は随分こちらを向いた感じ(φ=5.6°S)。ω=162°WではSolis
Lが東端にチラット見せた。ω=170°Wでは、M
Sirenumの東(東端に近い)白味を帯びている。北極雲は小さく明るい。ω=182°WではTrivium
Charontisは完全に出ている模様。以上、9月いっぱいの観測である。次は4 Oct
(δ=11.5”、φ=7.1°S、λ=247°Ls)のNo.132
(ω=107°W)からであるが、もう視直径も限界に来ていて、参考になることも見当たらないので、1954年版はここで閉じることにする。1956年に大黄雲の起きたλ=250°Lsは直ぐ先であるが、1954年の場合、14
Octでλ=253°Ls迄達したがが、S
Sabaeusなど明快で、黄雲の広がりなどは見ていない。Hellasは東端で赤味を示しているが、16 Oct
(λ=255°Ls)ではHellasの北境界など明確である。Syrtis
Mjも北先端まで見ることが出来た。
10月は12葉、11月は23葉、12月は2葉、翌年1月も8 Jan
1955 at 18:40 JSTに一葉、13 Jan
1955 at 20:10 JST (ω=215°W)の一葉が最後の観測となり、1954年4月の観測開始以来、計170葉のスケッチを得たわけである。最終視直径δは6.1”、季節はλ=309°Lsであった。
1969年の場合
1954年から15年が経って、1969年接近に似た接近がやってきたが、事情がいろいろ変っている。最大視直径が20秒に届かないことをはじめ、火星の季節もずれて、私は上手くこの接近に対応できなかった。1957年に京都で大学生になり、4年+修士・博士コース5年(宇宙物理学は選ばず、場の理論の物理学に進学した)で過ごし、1966年には大学院を出て、そのまま近くの京大の数理解析研究所というところに就職した。この時既に27歳であった。従って、軸足は京都にあり、宿舎は伏見・墨染に移っていたと思う。1969年火星接近時、筆者は既に30歳で、軸足の足枷のため、福井に長くは滞在できず、観測開始も遅く11
Apr (δ=12.5”、λ=139°Ls)となった。(8
Aprに天文台へ登っているが、曇られた。なお、現館長の吉澤康暢氏には11
Apr 1969に出会ったのが初めてである。彼は福井大学の学生であったと思う。)
序に、最終の観測は12
Oct 1969 (δ=8.9”、λ=245°Ls)で、この年は全部で82葉に過ぎなかった。然も、不連続に行っているから、1969年の火星については確固とした印象も無いのである。望遠鏡も倍率も1954年と同じで、ドームの不具合も同じであったと思う。但し、後半倍率450×というのが入るので、これはNikonの5mmアイピースを入手したということである。これは中島孝氏が東京に出張の折、買ってきて貰ったと覚えている。中島氏は既に福井で教員になっており、多分車の運転も出来たはずで(ホンダのN360とかシビックの同乗を覚えている。後で知ったのだが、中島氏は後のホンダ技研五代目社長(1998~2003)さんの吉野浩行氏と福井県立乾徳高校で同級生であった)。従って、私は足羽山の往復は彼のお荷物になっていたはずである。たとえば、連休中の時、例えば、2
May (δ=15.7”、λ=150°Ls)のように朝方に14:50
GMT (ω=320°W)、16:20 GMT (ω=342°W)、18:00
GMT (ω=006°W)、19:30 GMT (ω=029°W)、などと観測しているが、これらは皆、中島氏に負っている。まだ、40分観測術は生み出してはいないが、19:30
GMTは04:30
JSTである。3Mayも四回こなしている。北極雲の動きが激しく、M
Acidaliumが出てくるときには朝霧も濃い。更に4May(λ=151°Ls)には北極雲の中に更に明るい輝点を見ている。以上は連休を利用しているが、だから次は31
May (δ=19.2”、λ=165°Ls)迄跳ぶ(スケッチ円径6cm):スケッチは12:35
GMT (ω=028°W)、15:30 GMT (ω=072°W)、17:00
GMT (ω=094°W)の三回。S
Sabaeus→M
Acidalium→Solis
Lと追っているが、南極冠/南極雲はスッキリしない。この時期、南極雲を追うと面白いと思う。Tempeは正午過ぎでも明るい。4
June (δ=19.4”、λ=167°Ls): 13:00 GMT
(ω=359°W)、14:00 GMT (ω=014°W)、14:45
GMT (ω=025°W)の三回:Syrtis
Mjが沈むところから始まるが、Noachisは特徴がなく、南極もぼやけたまま。Oxusは明確。M
Acidaliumに続くTempeが朝縁で明るい。7 June (δ=19.4”、λ=169°Ls)には11:45
GMT (ω=314°W)、14:20 GMT (ω=353°W)、16:50
GMT (ω=029°W)の三回;時間間隔が矢鱈長いのが何故か、思い出せない。ω=314°Wで特筆するのはHellasの形が異常で、内部が広く、境界が暈けていることである。M
SerpentisがHellespontusと分離している。ω=353°Wでのシーイングはmoderate
to goodで、S
Sabaeusの内部が濃淡に富んでいることを見ている(スケッチで描写は出来ない)。Syrtis
Mjは沈む直前だが、M
Serpentisと分離している。特に注意点は大きなsph/spcの縁から逆三角形の突起が垂れ下がっている風景が描かれていることである。似たようなスケッチは17年後の2
June 1986 (δ=17.3”、λ=181°Ls)のω=016°Wで観測し、最近にも触れ、論議したことがある。最終的には、この朝、足羽山は霧に包まれた。8
Juneには11:50
GMT (ω=307°W)、13:50 GMT (ω=345°W)の二回のみ。最初のスケッチにはHellasが大きく、境界がボケた形で描かれている。これは矢張り異常である。砂漠はAeriaから朝縁まで赤味が強い。南極地はボケている。φ=9°N。二番目のスケッチでもHellasは夕縁だが、大きく見える。9 June
(δ=19.5”、λ=170°Ls)で最接近日、一般公開があり、20h~22hJSTは観望会であった。筆者の観測は23:20
JST=14:20
GMT (ω=335°W)、16:00 GMT (ω=359°W)の二回。南極冠は昨夜よりハッキリしている。Hellasは残念ながら夕縁に近いところしか観察できなかったが、真っ白。
扨て、次の観測は一ヶ月以上も跳んで仕舞い、14 July
(δ=16.6”、λ=190°Ls)となった。実際、これまで観測が不連続になることには悩まされていたが、これを解消するために、京都大学理学部の当時の宇宙物理学教室の屋上に設置されていた福井の望遠鏡と同型機の五藤15cmF15屈折(多分学生の実習用)を使わせていただくことになった。私と同期でアイオア大Drの寺下洋一氏の仲介で今川文彦先生に紹介いただき直接許可された。実際の望遠鏡は大学院生の暮泉武氏が太陽観測かたがた管理をされていて、彼には後年までたいへんお世話になった。木製の観測小屋は屋根がスライド式であった。観測を仕舞うときは主鏡のキャップは填めないで開けたまま帰ってくださいと彼に厳命されたが、鏡に着いた水蒸気を飛ばすためと聞いた。この旧い宇宙物理教室の建物は壊されて今は無く、大きなビルに教室は地球物理と一緒に統合された。あの望遠鏡はどうなったのでしょうかね。私が初めて浅田正さんと出会ったのもこの望遠鏡のところであったと思う。1971年の大接近の彼の観測を見せてもらった覚えがあるので、その頃、或はそれよりあとであったかと思う。彼はまだ教養部の学生であったと思う。もう一つ、暮泉さんに聞いた話だが、この望遠鏡が導入されたとき、木邊成麿氏が直接鑑定されて、主鏡は五藤の最上級品だということであった。
閑話休題:14
Julyの京大宇宙物理での観測は11:15
GMT (ω=339°W、φ=12°N)と12:30
GMT (ω=353°W)の二回であった。この年の特徴として、φの所為で南極冠が薄く、火星の大気に擾乱されることが多かった。しかし、この日の最初のシーイングはmoderate
to goodで562×が使えた。ω=339°Wでは朝方に南極冠の下がりが見えたと思う。北極雲内の明部も大きく、Thymiamataの南部には濃い朝霧が見えていた。二回目は少し雲が出てシーイングが落ちた。尚、宇宙物理での観測は時刻まで自分の部屋で過ごし、時至れば一ブロック歩いて望遠鏡に辿り着けるのだが、難儀な点は、後片付けを済ませて帰るときで、終バスに乗り遅れないように農学部前の停留場に辿りつけないといけなかったことであった。実際、何度か走ったものである。バスで河原町三条迄ゆき、京阪電鉄で藤の森まで乗り、駅からは徒歩で帰るわけである(宿舎は京都市青少年科学館の裏側にあった。この科学館には五藤の25cm屈折があったが、観望会で一度覗かせて貰ったことがある。ただ、名神高速の振動がモロに伝わってきた。この望遠鏡は臺灣の圓山天文台の望遠鏡と同型機で、1986、1988年に使わせて貰うことになる。終バスを待つというのは臺灣でもやりましたナ)。
翌15 July (δ=16.5”、φ=12°N、λ=191°Ls)は10:45
GMT (ω=319°W)、11:25 GMT (ω=328°W)、12:30
GMT (ω=344°W)の三回、好く見え、562×が使えた:ω=319°Wの観測ではDepressiones
Hellesponticaeが濃く、南極冠の下に見え、Hellespontus
と
M Serpentisは離れている。もう一つ、重要な点は、南極冠と白いHellasの繋がり具合が見えているのである。Hellasの南端辺りがHellasの北部より明るいとしてゾーンを入れているが、これは南極冠(細いフリンジを伴っている)とも区別しているのであろう。この季節、Hellasの氷は溶け去っており、南極冠の方は対称に戻っている筈で、その明度も十分な筈だが、φ=12°Nで斜めから見ていて稍明るさが鈍いのとHellas本体には水蒸気雲ないし砂塵があるので(特にこの年のHellasはおかしい)、うっかりすると南極冠とHellasが同様な明るさで繋がっているかのように見てしまいがちである。実際、その直後の観測では境界が鮮明ではない。ω=344°Wではfringeが薄らと見えている。尚、スケッチはA5の分厚い白帖に片面二個ほど火星像を入れ文字やデータを入れて整理しているが、7月中下旬のスケッチは気分のいいものになっていて、これは当時の感覚を伝えているとフト思った。
16 Julyには11:15
GMT (ω=316°W)はシーイングが悪く、一回のみ。17 July
(δ=16.2”、λ=192°Ls)には11:30
GMT (ω=311°W)、12:40 GMT (ω=329°W)の二回
(まだ京都):ω=311°Wでは南極冠の境界は夕方ではボケており、これは水蒸気で揺れているのだと思う。Hellas南端に点線でゾーンを描いている部分が元凶かと思う。
ω=329°Wでは、S
Sabaeusの東部に南から接して明斑がある。Edomが明るい。Hellas
は未だ明るいが面積が大きく見える。
次に福井に帰って、20 July
(δ=15.9”、λ=193°Ls)には12:00
GMT (ω=291°W)、13:05 GMT (ω=306°W)、14:05
GMT (ω=321°W)の三回。23h
JSTまで観測出来るのは中島氏の存在のお蔭。一番目にはSyrtis
MjやHellasの南中、次のω=306°Wでは
Hellasの内部は少し影を入れて描いている。北極雲の南端はジグザグに見ている。22
July (δ=15.6”、λ=194°Ls)には13:15
GMT (ω=290°W)の一枚;Croceaが淡く抜けている。24 July
(λ=196°Ls)には11:00 GMT
(ω=239°W)、12:05 GMT (ω=255°W)、13:00
GMT (ω=269°W)の三回。Trivium
CharontisとCerberusが入ってきている。尋常。しかし、M
CimmeriumからNodus Laocoontisにかけての模様の様子は複雑で、1975年以降こういう形では見られなくなったので筆者にとっては貴重である。北極雲も複雑で朝から活動的である。特にω=268°WのM
CimmeriumからN Laocoontisにかけての図柄は今や古典的である。但し当時でもNepenthesなどは領域の明度差でしか検出できない。Hellasは朝方であるが、内部は少し翳っている。南極冠とHellasの境界辺りには両方に跨る靄があるのではと判断している。25 Julyには11:00
GMT (ω=230°W)、12:35 GMT (ω=253°W)の二枚。CerberusやPhlegraは見えるが、Elysiumの西側は次第にぼやけて形を成さない。南極冠も薄くしか見えない(φ=11°N)。二枚目ではSyrtis
MjやHellasが出てきている(既に位相角ιは37°ぐらいまで朝方は欠けている)。26 Julyは11:00
GMT (ω=220°W)の一回、後曇り。3 August (δ=14.3”、λ=202°Ls)は11:45
GMT (ω=156°W)、12:30 GMT (ω=167°W)の二回。この方面からは南極冠は独立して見えるし、北極雲も波打つ。Elysiumは朝霧か。9 Aug
(δ=13.6”、λ=205°Ls)は視直径δも落ち込んできて、11:00
GMT (ω=088°W)の一枚(No.49)だけであるが、一見して北半球に他の模様に比して非常に濃い斑点があり、これはLunae
Lと知れたが、Gangesなどは淡いほうだと思う。後、雲が出て追及出来なかったが、暫くここで追っておくべきであっただろう。スケッチ円径は5cm。尚、この日からNikonの5mmアイピースで450×が追加された。これは多用した。12 Aug
(δ=13.3”、λ=207°Ls)には10:20
GMT (ω=050°W)、11:45 GMT (ω=071°W)の二像:最初の像ではLunae
Lが出たところで、まだ顕著ではないが、WS端は鋭くCandorのエリアと対照をなしている、とあり、次の像では濃いLuane
L がほとんどCMで、Gangesも
Nilokerasも太く濃く、異常性がみえる。その北は暗く北極雲がデコボコしているのを目立たせる。13 Augは10:10
GMT (ω=036°W)、11:10 GMT (ω=053°W)、12:10
GMT (ω=068°W)、13:30 GMT (ω=087°W)の四回。南極冠がくっきりしてきたように思う。ω=068°WではLunae
Lがいくつかの斑点に分解する。その北は昨夜と同じい。ω=087°Wではシーイングは悪いが、Xantheがp縁に来て、黄色味を帯びている、とある。14 Augには12:15
GMT (ω=060°W)、13:10 GMT (ω=073°W)の記録で、ω=073°Wでは前日に似た様相であるが、Lunae
Lの右上に明るい雲溜りが見える。このLunae
Lの濃化は3
Sept 1954 (δ=14.7”)に観測したものに似ているが、当時季節はλ=227°Lsであって、この時と少しズレているが、兆候は24
July 1954 (λ=202°Ls)から見られたので、季節的にこの期間は特に注意した方がよいであろう。ただ、1954年もそうであったが、40分ごとに細かく追跡するという具合にはなっていないのは残念である。それと1969年にはLunae
Lの問題が視直径δが既に萎んでから起こったのも残念であるし、海外の情報が無いのも追跡を困難にしている。
尚、15Aug、16Aug、17Aug、18Augと観測しているが、Lunae
Lは見えなくなっている。最終はS
Sabaeusが完全に見えているが、それまでM
Acidaliumがほとんど北極雲に隠れているのが特徴である。21 Aug
(δ=12.5”、λ=213°Ls)には京都に戻っての観測で、10:10
GMT (ω=323°W)、11:00 GMT (ω=335°W)にはSyrtis
Mj方面である。29
Augの午前に花山天文台で宮本正太郎博士にお会いしたとメモっているが、何を聴き何を話したか覚えていない。1973年にお会いした時の内容はかなり覚えているのだが。29 Augには宇宙物理屋上の15cmで450×を試している。Lunae
Lについては18 Sept
(δ=10.3"、λ=230°Ls)に11:10
GMT (ω=069°W)で「Lunae Lの濃度は前と同じ」と記しており、12:10
GMT (ω=081°W)でも似たような結果である。前もって、この日は10:10
GMT (ω=054°W)で南極冠の1/3東端近くに非常に明るい切片があると観測しているが、2003年の記録を参照すると、このころ南極冠の西側が翳っているので、そのことによる現象かと思う。その30分後にGangesとLunae
Lが入って來たとある。以上、1969年の観測簿からの記録とする。
次回は1986年と2001年接近の記録を繙きたいと思うが、それぞれ観測数は800を超えるので、どうしたものかと思う。