巻頭論攷
百年前 (1913~1914年)のBAA火星課の観測
(そのⅡ)
原文
E.-M. アントニアヂ 著す
南 政 次; 解題
CMO/ISMO #434 (
これはCMO #431 (Feb issue)で導入したBAA火星課の百年前の火星観測の紹介の第二部にあたり、紹介するのは、その第二節で經度幅(Ω幅)は10°Wから70°Wまで、緯度幅はΦ=60°Sから60°N迄の範囲を扱っている。これはBAAに伝統的な切り方である。從って、表題は、 マレ・エリュトゥラエウムや、マルガリティフェル・シヌス、アウロラエ・シヌス、マレ・アキダリウムとなっていて、當時これらの領域がどう記述されたか触れることになる。既に#431で紹介したように、この接近の対衝は5Jan1914で、最接近は1Jan1914に起こり、最大視直徑は15.05"であった。衝の頃は特に視赤緯が26°Nを超え、北半球からは火星が高く見える時期であった。われわれに最近の機會としては1992|1993年の接近に似ている。 近い将来としては2039|2040年の接近に似る。
記述はウジェーヌ・アントニアヂEugène Michel Antoniadi 火星課長の筆になる。この最接近の頃で彼は43歳であった。アントニアヂは既に1909年と1911年の火星はムードンの83cm鏡で観測しており、歴史的な事柄に關しても蓄積があり、目配りは相当なものだが、この時期の観測としては不十分なものであろうと思う。尚、Memoireの出版は全回述べたように、1920年であり、1918年や1919年の記述が含まれていることも確かであり、執筆が1918年四月とすると48歳のときということになる。
第二節は最初に アルギュレ (Argyre I)の記述がある。明るく見えるか見えないか可成り細かい記述だが、観測はMcEwen、Phillips、Porthouse、Thomson、Antoniadiに據っている。アルギュレは15Septには朝方、キラキラしていた、10Novには明るいまま沈んだ、21|22NovにはCMにもかかわらず見えなかった、22と27Novには出るところでも不明であった、など。次の機会が來たが22|23Decには沈むところも見えなかった、24DecにはCMでも見えなかった、26Decには出るところも気づかなかった、27DecにはCMの處では非常に明るかったが、沈むときには識別できていない、28Decには出てくるときも明るく見えたが、29Decには出るところも見えなかった、ただし、31Decには出るとき白色に見えたと初めて色が述べられる。2Janと3Janには輝いて顕れ、膨らんで見えたようだ。次の機会、23Janと26JanにはCM近くで明るく、Plateに掲載されたThomsonのスケッチでは南端が明るくなっている。31Janには白く沈む様子であったが、1Febと2Febには出現は不分別であった。4Febには非常に明るく出てきたが、CM近くでは白いとは言えなかったようだ。5Febには出るところも認知できていない。6Marと10Marには明るく沈んでいった。12MarにはCM近くで白く見え、16Marには出るとき白かった。しかし13Aprには沈むところが見えていないが、14、15、16および18Aprには沈むとき(まっこと)白色であった。18AprにはCMで白く、19Aprも20Aprも同じであった。22Aprと24Aprには出るときも白かった。
アルギュレの記述は以上だが、誰がどう捉えたかという詳述はない。先の26JanのThomsonの観測と22AprのAntoniadi自身の観測(on 22 April at ω=012°W)以外は判らない。18Aprも彼自身ではないかと思う書き方だが、全体に判断を確定させるシーイングの程度も判らないし、連続してアルギュレを出現から没するまで追ったという記録もない。観測数全体が低いので、現在の観点からするとsunriseからsunsetまで追ったようには見えない。
アルギュレは明部としての観測記述だが、次は暗部の記述の典型になるだろう。
マレ・エリュトゥラエウムは22NovにThomsonには「緑っぽい」らしく見えた。McEwen、Phillips、Porthouse、Thomson 及びアントニアヂの記録を合わせてみると、この「海」は15Sept、21Nov及び22Novには見かけ上淡く見え、次の21~23Decには殆ど正常、しかし、24、26、27Decには淡く、28Decには更に弱く、29Decと31Decには淡く、3Janには非常に淡く、次の26Jan、31Jan、1、2、4、5Feb、更に6、10、12、16Mar、12~16および18Aprには普通に弱くみえた。しかし、19|20Aprには濃く、22Aprには淡く、24Aprには濃く見えている:と言った状況である。ここで單に淡い、あるいは「普通に」淡いはfaintish、非常に淡いはvery faintとした。色の記述は一回だけである。 McEwenが6Mar ω=087°Wに夕方のProtei Regioを「明るい」筋として見ている様だ。
ピュッラエ・レギオは 27DecのPhillipsとThomsonのスケッチに殆ど顕著と言って好いほどに示されている(原文のFig.7とFig.8、上に引用、この圖は屢々引用される)。 Phillipsは29Decにもω=005°Wで描いている。12¼ spec使用。PhillipsとThomsonは同じ望遠鏡を使用して居るみたい。なお、Pyrrhae Regio(1877年スキアパレルリの命名)に就いては筆者には特段の記憶がない。いつ頃からどうでも好い模様になったか調べる價値はあろう。
マルガリティフェル・シヌスは22NovのThomsonによってマレ・エリュトゥラエウムと同じく「緑っぽい」とされ、いつものことだが、Sinus Furcosusより淡い (前回述べたように1907年のアントニアヂの命名だが、彼は1924年にシヌス・メリディアニと改めた處。元々は1889年にフラマリオンが、Baie du Méridienとフランス語で呼んでいた。なお、1901年にはアントニアヂはFurca (叉状のもの)と呼称している。これはフォークの語源だろう)。McEwen、Phillips、Porthouse、Thomson、Antoniadiの観測を綜合すると、この「灣」は 21Novには淡く、22Novには特に淡く、23、24、26Decには淡く、27Decには濃く(原文のFig.7とFig.8)、28、29Decには淡く、31Dec、2Janと次の31Janには濃かった。1|2Febには淡かった。しかし、4Febには濃く、5Febと次の機会の10Marには淡く、12Marと16Marには濃く見えたが、次の16Aprには非常に淡かった。18Aprには淡かったが、19|20Aprには濃く、22Aprと24Aprには淡かった、という記録で取り留めもない。一体全体朝か午後の観測かも判らない。
イアニ・フレトゥムというのはAntoniadiの1907年の命名だが、スキアパレルリは1879年にはデウカリオニス・レギオを閉め切るデウカリオーネの運河と呼んでいたものらしい。しかし、百年経ってこういう泡沫模様に出会うのは悩ましい。ブランガエナなどが顕在化してきた時點で、どうでも好い模様と思うが、Iani Sと共に海老沢図にも殘っているというのはどうかと思う。ここでは原文のトムソンのFig.8でノーマルとされているが、Fig.7のPhillipsは他でも描かなかったようだ。 ただ、Iani(イタリアの古い神話で門とかドアの神様)はUSGS米地質調査所?のMOLA火星圖などではAram Chasma等と共にIani Chasmaというネーミングに殘っている。理由は、新しく火星模様に名称を付ける場合は(クレーターは別だが)スキアパレルリかアントニアヂの火星圖に出ている名称が伴わなければならないという掟があるからのようである。
アロマトゥム・プロモントリウム(1877年スキアパレルリ):これはエオスの北に命名されているが、この邊りも現在では変化しているから我々にとってはどうでも好い模様であろう。南側の海に近接する岬らしい。Fig.7の点線の内部か。アントニアヂは大接近の頃83cmでよく見ていたらしい。ハーシェルの発現らしいが、以後餘り変わらなかったと言われる。しかし、どうも更に百年後まで持続するようなネーミングでは無さそうだ。海老沢氏などはOrestesとかElectraなどという新名所を作りながら、相當後年になっても曖昧なAromatum Frなどという亡霊を抱えるのはどうしたものか。
アウロラエ・シヌスの概略は正常で、その暗部は1911|1912年期の場合より南部に伸びている由。McEwen、Phillips、Thomson、課長のスケッチではこの「灣」は21|22Novや次の20~22Decには淡く、しかし、23、24、26、27、28Decには濃かった(27Decについては原文では上のFig.7とFig.8参照)。一方、29Decには弱く、26Janには ヴェールを被ったように弱く、31Janには濃く、2、4、5Febや1、6Marには弱く、10Marや12Marには濃く、12~16、18~20Aprilには淡く、22と24Aprには正常に見えた、とある。ここでも比較級は使われず、LMTによる時間経過もなく面白い報告とは言えない。
クリュセはMcEwenには15Septに、Antoniadiには1Feb ω=350°W、φ=1.2°Nに明るく朝縁から出てくるのが観測された。後者には28Febと12Aprにはクリュセは白く夕方に沈んだ。McEwenは 15Aprに同じ観測をしている。
27Decと4FebにはThomsonが輝点をAuroræ SinusのJamunaの河口の近くに見ている(Fig.8)。
クサンテはMcEwen、Phillips、Thomsonの幾つかのスケッチに薄暗く出ている。東北東から西南西に伸びる雲の領域が22Decにルナエ・ラクスの近くにThomsonによって検出された。Antoniadi の28Febに見たところではクサンテは白く沈んでいった。
イゥエンタエ・フォンスは21DecにPhillipsによって{suspect}された以外観測はない。
ルナエ・ラクスはガッカリするほど淡く暈けた汚点の様相を示した由。然もいつも見えるとは限らない。McEwen、Phillips、Thomson、課長のデータを綜合するとこの模様は次のように締めくくるより他無い: 20~24、26~28Dec、26Janには見かけ上暗かった。31Janには多分より暗かった。4、6、10Janには暈けていた。12Mar、14、16Aprには非常に淡かった。24DecのMcEwenのスケッチに據ればこの邊りに二つの斑點が見えているが、他のメムバーは誰もこれを確認していない。
ニリアクス・ラクスは、McEwen、Phillips、Porthouse、Thomson、及び課長の結果を見ると、明らかに22、27Novには濃かったが、20Decには淡目、21Decには濃く、22、23Decには淡目、24Decには濃く、26Decには混乱しており、27|28Decには淡目、29Dec、31Dec、1Janには淡く(南註:29Decの観測はPhillips at ω=005°W, φ=5.8°Nで、明らかに朝方だが朝霧などの記述は無い)、更に31Janには淡目、1Febには見えなかった(南註:Antoniadiのω=350°Wの観測で全く朝方だが、朝霧の意識はない様だ)、しかし、2Febには「濃かった」とあり、Antoniadiのω=043°Wのスケッチが引用されているが、これを見るとニリアクス・ラクスはマレ・アキダリウムから分離しているようには見えない、むしろニリアクスが消えている感じである。これは次のアキッリス・ポンスとも関係するが、朝縁から中にはいると自然濃くなることは大いにあるわけで、アントニアヂの記述は単純すぎ、不可解である。既に27Decで淡目とあるが、原文Figs.7&8のPhillips達のスケッチをみると充分ニリアクス・ラクスは分離して綺麗である。更に続けて、 4~5Febに弱め、6Marには非常に弱い、10Marには濃い、12Marには弱目、16Marには白雲によって消えている(南註:ωの記述はない)、14Aprには弱め、15|16Aprには濃く、18Aprには注意が行き届かない、19Aprには弱め、22、24Aprには混乱、とある。
アキッリス・ポンスはMcEwenによって屢々 視直徑が6.6"のときすら描かれているが、Porthouseや課長は衝の時すらうまく描けなかった。Thomsonも屢々描けなかったが、それでも27Decや4Febには(前者、Fig.8の様に)東北東から西南西に傾いたアキッリス・ポンスを描いたし、Phillipsは27Dec (Fig.7)に些しかげって示したが、これは「垣間見たが、微かだった」としている。彼はまた29Decにも捉えたが、このときはω=005°W 、φ=5.8°Nで傾いている、としている(南註:東からの切れ込みのように明るく描いている)。また4Febにはω=043°Wで捉えた。
マレ・アキダリウム は北極冠の上に杳い台形の模様みたいに見えていた。27DecのThomsonのスケッチ(Fig.8)や29DecのPhillipsのω=005°Wの画像では東の方に膨らんでいて、Φ=50°Nを超え、南西を指していた(失礼、英語の意味が解らない)。Thomsonは22Novには「靑灰色」とし、4Febには多分「緑っぽい」と見ている。決してNov1896に見られたように黒っぽくはなかった(季節はη=72°で1913|1914年ではη=47°~160°とは違うが)(南註:ηはheliocentric longitude of Marsで、昔はLs=areocentric longitude of the Sunの代わりに使われた。私の昔のノートにはη-87=Lsと書いてあるが、2015年の元旦のηとLsを比べてみたら、86°のズレだった。略こんなところだと思う)。濃度は最接近の頃フルコスス灣の濃度を幾らか凌いでおり、他の場合には些し劣っている程度であった(Figs.7&8参照)。McEwen、Phillips、Porthouse、Thomson、及び課長の素描では、マレ・アキダリウムは21|22Novには明らかに非常に濃く、27Novには濃く、20Decには淡い目、21|22Decには非常に濃く、23、24、26、27、28、29Decには濃く、31Decには淡く、2Janには小さく淡い目、26、31Jan非常に濃く、1Febには見えず(Antoniadi ω=350°W)、2Febにはω=043°Wで濃く(Antoniadi)、4Febには同じくω=043°Wで濃いめ(Phillips)、しかし、5Feb、6Marには淡く、10、12Marには濃く、16Marには雲によって滲んでいた。14~16Aprには濃く、18Aprには見えず、そして19、20、22、24Aprには淡く見えた、と取り留めがない。
テムペはPhillipsには4Feb ω=043°Wにアキッリス・ポンス後方の輝く斑點として見えているとあるが、スケッチを見ると、これは可笑しい。18、19、20、24AprにはMcEwenには明るく入ってきた。
最後に前回と同じくMinor Detailの欄があるのだが、ここでは省略して、最後尾に些し触れたいと思う。今回はGangesやNilokeras、Tanaisなどがこの欄に入って居る。前回ではGehonとかHiddekel、Oxus、Protonilusなどがレヴューされていた。
(この項つづく)