巻頭論攷
百年前 (1913~1914年)のBAA火星課の観測
原文
E.-M. アントニアヂ 著す
近内 令一・南 政 次; 解題
CMO/ISMO #431 (
百年前の夜空に輝いていた火星についてはビル‧シーハンがCMOでしばしば言及している。たとえば『火星通信』CMO日本語版第419号 (2014年二月25日号) の巻頭エッセイ“惑星三題噺”の中で彼は1914年の火星について触れている。1914年の1月5日に火星はまさしく衝を迎えており、彼の書くところでは“これはパーシヴァル‧ローヱルが生涯に観測した最後から二番目の火星の衝であり、彼は1913年暮れの“心身衰弱”から回復したばかりであった。この時の病状は後に彼を寝たきりにさせた発作よりは遥かに軽く、短期の病欠であった。彼の身体の自由を奪った重い発作はメキシコから戻った後に起こったもので、先立つ心身衰弱と同様、疑いもなく過労と精神的落胆が引き金となったのだろう。…”ローヱルの1914年の火星スケッチが419号の巻頭エッセイの第2頁に掲載されている:ローヱルの描いた火星像はいくつものオアシスと二重倍加した細線運河で被い尽くされている。1914年の火星 (Mars:戦争の神) が遠ざかり始めるにつれて、皮肉なことに平和も終わりを告げ始めた。すなわち第一次世界大戦が迫っていたのである。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmo/419/WSh_419.htm
以下も参照:
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmo/383/WSh383.htm
サラエボ事件と呼ばれる重大な歴史的暗殺事件が起こったのは1914年6月28日のことであり、オーストリア=ハンガリー帝国の第一皇位継承者フランツ・フェルディナント大公が皇太子妃ソフィーとともに射殺され、これがオーストリア=ハンガリーのセルビアに対する宣戦布告を急き立てた。結局この事件が端緒となって1914年7月28日の第一次世界大戦の勃発へと向かうことになる。
1914年の衝が訪れたのは1月のことだったので、この政乱はヨーロッパでの火星観測にはさして問題とならなかっただろう。日本では既に1888年の早きに東京天文台 (東京大学の付属)が設立されていたが、何らかの火星観測が成されたという情報は聞かない。OAA (Oriental Astronomical Association 東亜天文学会) の設立は1920年;このあたりの時期から京都大学花山天文台に所属していた先駆者中村 要 (1904~1932) が火星の継続的な観測を始めた。後のエキスパート、京都大学教授 故 宮本正太郎はしかしながら、1912年生まれであった。従って、百年前に日本で実施されたたまともな火星観測記録のセットを見つけるなどは望むべくもない。
ベルギーのジャン・メーウスによれば、この1913—1914年の観測期には、火星の最接近は1914年1月1日06:00TDTで、最大視直径δ=15.04″だった。衝は1月5日18:28TDTで、そのときの視赤緯は26°34′Nで、北半球の観測者にとっては非常に高い地平高度で輝いていたことになる。もちろんこの観測期は百年後の2013~2014年に我々が迎えた観測期とは似ていない。近年の機会で似た条件の年を探すには、本稿の執筆者によるCMO第106号 (1991年六月25日号) を参照されたい:
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/Cahier03.htm
79年周期の類似条件繰り返し観測期が最も適していることが明らかで、すなわち我々に手の届く望みのある唯一の近年の機会は1992~1993年の観測期であった。実際に火星の最接近は1993年1月3日で、衝は1月7日。最大視直径はδ=14.95″だった。比較すると容易に判る通り、これらのデータは1913—1914年の観測期のそれらに非常に類似している (次いでまあまあ似ていたのは2007~2008年)。
1903年、ローヱル天文台ではアール C. スライファーが火星撮影専門家としての長いキャリアのスタートを切った。記録によれば、1914年に彼は1000コマの火星写真をものにしている。理由は定かでないが、続く1916年の遠日点衝期には総計4000コマの火星写真を得ている。同じ記録によれば1907年の衝 (最大視直径δ=22.97″) の折には南半球に遠征して13000コマの火星写真を撮っている:これは後年の遠征活動の成果に優に匹敵する。1909年の近日点衝期 (最大視直径δ=24.03″) にはフラグスタッフで総計4500コマの火星写真を得ていて、彼の写真集に数葉の成果を見ることもできる。しかしながら1914年の場合には1月21日、ω=254°Wの一葉の火星写真しか見当たらないようだ。季節はλ=061°Lsあたりであろう。
元々ローヱル天文台では、いわゆる運河を検出するために近日点期の衝にしか興味がなかった。彼らは火星の気象学的な面を無視していたようで、それ故、遠日点衝期にあまり興味を示さなかったのだろう。
そこで我々はここで、百年前のBAA火星課
(BAA=British Astronomical Association 大英天文協会)
のメンバーの活動はどうであったか調べてみたい。1913~1914年の衝期にBAA火星課を率いていたのは、かのE.
M. アントニアディ
(ムードン及びラ フレット、フランス)
であった。“火星課レポート。1913~1914年”
はかなりかさばった代物である。巻末のノートに示されるところでは出版は1919年の4月であるが、掲載されているのはMemoirs
of the British Astronomical Association (edited by A. S. D. MAUNDER, F. R. A.
S. ) Vol.XXI であり、1920年にHis
Majesty's Printersで印刷されたとある。“His”とある理由は、ジョージ5世国王の治世(1910~1936年)だったからである。このレポートは第一部から始まる。最初に四項目からなる序説がくる:
1.1913~1914年の観測期:の述べるところでは “この衝は1914年の1月初旬に起こり、やや不利な条件の機会であった。ヨーロッパでの火星の地平高度は非常に高かったにも関わらず、元旦における地球からの距離は0.622天文単位
(58,000,000マイル、93,050,000km)
余りであり”、そして前回の1911年の衝時の条件データとの比較が成された。次に“諸現象”の段落がきて暦表の諸元の詳細が少々示される。“火星の太陽との西矩1913年10月2日、北半球の春分1913年12月1日、観測期内近地点1914年1月1日、近地点での視直径15.04″
(メーウスのデータに極めて近い)、火星の太陽との衝1914年1月5日、等々。季節は火星の日心経度で示されているようだ。“火星の北極の位置角”が衝の日について示されている。さらに、“火星の遠日点1914年4月27日、北半球の冬至1914年6月18日”等々。続いて火星像の中心
(地球直下点)
の火心緯度がどのように変化するかについての記述がある。たとえばこれは1913年11月14日に+10.1°に達し、1914年2月9日には+1.1°に戻り、その後増加を続けて1914年5月31日の+17.8°に至る、等々。そして次の項目がくる:
2.火星課のメンバーと使用観測機器:これは表で示されているが、ここでは概要を述べる。メンバーと使用望遠鏡
(屈折機、反射機、口径インチ数)
は以下の通り。スケッチ枚数は
(X) で示される:
………………………………………………………………………………………………………….
アントニアディ、E. M.
フランス 8.5″反射、12.5″反射 (13)
バックハウス、T.W. サンダーランド 4.5″屈折 (-)
マキュアン、H. グラスゴー 5″屈折 (96)
オハラ、C.
デリリン 8⅙″反射 (3)
フィリップス、T.E.R. アシュテッド、サリー 121/4″反射、8″屈折 (15)
ポートハウス、W. マンチェスター 8.5″反射 (3)
トムスン、H. ニューキャッスルアポンタイン 121/4″反射、8″屈折 (17)
................................................................................................................................................
すなわち、7名のメンバーが参加した訳である。得られたスケッチの総数は147葉であった。1913年8月15日から1914年5月10日にかけて“観測期間は8か月と25日に渡り”、これはH.
マキュアンの得た記録である。T.W.
バックハウスのスケッチについての記述が見当たらないが、これはおそらくバックハウスと火星課長の間で何回かの書簡通信があったのだが、スケッチの報告はなかったからであろう。この人物はトマス‧ウィリアム‧バックハウスに間違いなく、恒星のカタログ、変光星、黄道光等についてのガイドブックで有名であった。彼はFRASでもあった
(Fellow of The Royal Astronomical Society 英王立天文学会会員)。上の表にはE.M.
アントニアディも含めてFRASが四名いる。聖職者フィリップス (1868~1942) も有名な惑星観測者で、ここではテオドア
E.R. フィリップス師、MA、FRASと表記する。フィリップス師についてはかつてCMO第176号
(1996年六月25日号)
でアラン
W. ヒース
(ノッティンガム)
との絡みで紹介したことがある。下記後半を参照:
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn2/AHtIntro.htm
A. ヒース (CMOの旧いメンバー) とフィリップス師の関係はこうである:1963年大英天文協会は121/4″反射赤道儀 (かのジョージ・カルヴァー(1834~1924)作) をアラン・ヒースに貸し出すことにした。この望遠鏡はフィリップス師が所有して使用していたものである。この名反射機とともにアラン・ヒースはBAA土星課を三十年以上に渡って率いた。土星課長の職を退いたとき、この有名な反射望遠鏡はBAAに変換されたと推察される。しかしながら残念なことに、第二次世界大戦の終わる前の1942年に他界したフィリップス師とアラン・ヒースが相見える機会がなかったことが思い出される。
王立天文学会会員H. トムスンのスケッチの何葉かもよく知られていることも思い浮かぶ。さて次にくるのはすなわち:
3.観測ノート:ここではシーイング条件と観測機材についてのコメントがいくつか見られる。たとえば“フィリップスは時々良好なシーイングを得た”。しかしながら“ポートハウスはマンチェスターの澱んだ空気に少々失望した”等々。さらに“トムスンと課長は悪シーイングの蔓延に辟易した”とか。最後の項目は以下のようである:
4.火星像のディスク全体の色調:この手の記述にどんな重要性があるのか理解できないが、アントニアディは一つの表を示し、その前書きには“火星像の黄色味の度合いと暗色模様の淡さとの関係から、課長は1914年は本表の下に示すような状況であったと判断した。”とある。この表は“日付け”、“中央経度”、“火星像の色調”、“暗斑部の濃さ”の列から成る。12日分ほどの日付けが2月、3月、及び4月に渡って与えられている。火星像の色調については三段階からの選択:赤い、黄色い、黄色っぽい。暗斑部の濃さについても三段階:やや暗い、やや淡い、淡い。例を挙げると、“1914年2月1日
ω=350°W
│ 赤い │
やや暗い”、あるいは“1914年4月12日
ω=083°W
│ 赤い │ やや淡い”、等々。しかし行間から一体何が読めるというのだろう?
しかしながら注目すべきは表の欄外下に示される記述である:“非常に顕著な雲の形成は本観測期中に認められなかった。”
次にPART II の表題は THE OBSERVATIONSとなっていて、略号の定義の後
SECTION
IとしてΩ=310°W~010°W、Φ=60°S~60°Nの範囲を扱っている。これはBAAの伝統かと思う。以下、60°W毎に節分けするわけである。ここでは代表として「シヌス・サバエウス」の名を擧げている。 記述は甚だ詳しくて、全部は紹介できないが、先ず
HELLESPONTUSが來て、これは屢々黄雲におおわれたと記している(先のcloud formationは無かった、という言説との整合性は?)。15 Sept 1913に全員がvery faintとし、27 Nov 1913にはPHILLIPSがfaintishとしており、然し29 Dec 1913にはPHLLIPSはdarkishに描いているとする。スケッチを見るとPHILLIPSの前者ではマレ・セルペンティスのあたりは淡いが、シヌス・サバエウスは相當南にあり、ヘッレスポントゥスを見るには角度が悪いと思う(ω=005°W、φ=5.8°N)。後者では確かにシヌス・サバエウスとは連結していないが、濃い邊りはマレ・セルペンティスの南部のように思われ、しかも像の左端に近いからヘッレスポントゥスを論ずるのは角度の點から難しいと思う。その他いろいろ擧げているが、圖同士で対照できるのは、3 Jan 1914 ω=319°WのPHILLIPSの圖と3 Jan 1914 ω=323°WのTHOMSON圖及び 1 Feb 1914のANTONIADIのω=350°Wの圖である。PHILLIPSの像とTHOMSONの圖は南半球は大まかに(というより異常なぐらい)faintになっており、これは興味がある。アントニアヂの圖ではマレ・セルペンティスからヘッレスポントゥスの中に濃い部分があり、これはPHILLIPSの29 Dec 1913に似ているのに評価が異なる。
次の段落では21、22 Mar 1914に夫々ω=308°Wとω=292°Wに突起(bright protruding spot)をターミネータに見たという面白い記述がある(白雲としている:圖參照)。
次は
NOACHISである。これも八行ぐらいに亙ってノアキスがCMで白いとかshadedとかbright risenいうバラバラな評解が附いている。續いて、
PANDORÆ FRETUNMである。このchannnelは1913~1914年ではfaintだったとしている。これは殆どの観測者の一致するところで、20 Octや27 Novではvery faint、26 Decでは殆ど見えないのだが、27 DecにはPHILLIPSのω=028°Wでは可成り顕著に描かれている。しかし、28 Decには見えなくなり29 Decではvery faintとある。しかし、PHILLIPSの圖をみるとω=005°Wでクッキリしている。次は
VULCANI PELAGUS(ウルカリ・ペラグス)とアントニアディに據って1911~1912年にネーミングを与えられた模様だが、ローマ神話の火之神の名に據っているらしい。アントニアディの有名な火星圖には(Ω=015°W, Φ=35°S)邊りの暗部に見える、事は知っていたが、私は何故か必要性を感じたことはない。1798年に初めてシュレーターが紀録し、様々な観測が續く(バーナードなども然りの)ようだが、パンドラエ・フレトゥムの西部のことでそれで済む話だと思う。1909年にパンドラエ・フレトゥムと一緒に顕著であった爲の命名かと思うが、これは後年1924年には淡くなったので、注目したのは賢明でないこともない。この年にはduskyとか unnoticedとか moderately darkとか, exceedingly faintとか, not seenとかdarkishとか, 白雲で消される(16 April)とか, faint and indiscernibleなどの表現が羅列される。
DEUCALIONIS REGIO は"通常の形態をなしている"とされる。アントニアディは火星が遠く器械が小規模の爲に、すべての「陸地」と同じなのだが、ちょっと大きく見える由。注目点はこのRegio内にO'HARA氏によって30Decに明るい斑點が検出されたことで、これは 7JanのTHOMSON氏のスケッチには大きめの楕円形の明點として描かれている。
SINUS SABÆUS は回折が増している爲に 「より狭く」見えた由。形容詞はdark, faintish, very dark, less intense, などが並ぶ。McEWENはXisuthri Regio (Ω=340°W, Φ=12°S) が見えたと称しているが、他の観測は無い(Xisurthri Rはスキアパレルリの1879年の火星圖のDeucalionis Rの北に大きく明白に描かれている)。
PORTUS SIGEUSは幾らか浅さめの濃い刻み目としてMcEWEN, O’HARA, PHILLIPS, PORTHOUSE, THOMSON及びアントニアヂのスケッチに顕れている由。
SINUS FRUCOSUS (Ω=000°W, Φ=05°S)は特別異常はない、と記されている。この名称はアントニアヂが1907年に与えたもので、ご存じのように、後にシヌス・メリディアニとされる(同じくアントニアヂ1924年)ものと同じであろう。McEWENが分岐(forks)は綺麗とし、更に東部のフォークが西側のものより濃い、と見ている。 然し、O'HARAやPORTHOUSEには見えなかったようで、特にO'HARAのスケッチではシヌス・メリディアニは酷くゆがんでいる。アントニアヂ自身も難しかったと書いているが、1Feb 1914ω=350°Wでは薄目にアントニアヂらしい二本爪を描いている。一方PHILLIPSとTHOMSONは朝早くから二本爪を描き分けている。これは大接近頃の記憶が出ている感じである。尚、Dawes’ Forked Bayという綴りも使われている。尚、
FASTIGIUM ARYN (スキアパレルリの1877年命名)という述語も續くのであるが、ここでの状況は上の記述に含まれるとおりであると思って好い。
THYMIAMATA は様々のようだが、代表的にはPHILLIPSの22Decの"bright"が基本のようで、ANTONIADIは南部をそう言っているようである。
EDOM PROMONTORIUMとEDOM の二つの記述が並ぶ。違いはスキアパレルリの1881~1882、1883~1884年の火星圖では明確で、アントニアヂの火星圖でも区別している。エドムの中にエドムの岬があるということであろうが(両方ともスキアパレルリの1881~1812年の命名)、通常、長い綴りの「岬」を省略することもあるので、不都合がある。PHILLIPSの3 Jan ω=319°Wでは、岬の方は点線で囲っており、これをアントニアヂはコントラストによってbrightとしている。エドムはスキアパレルリの意向では可成り広い領域、ここではMcEWENの観測を擧げ、時にwhitishとかbrightとかしているが、McEWENには両者の區別があるかどうか。
AERIA は他の砂漠より明るく、より橙色に近い、という観測がある。
HAMMONIS CORNU (アモンの角)はどのスケッチでもぼんやりとした鈍い切れ込みとして描かれている様だが、PORTHOUSEはω=286°Wで明白な切れ込みとしている由。
ARABIA はやや陰りがある。
EDEN はアントニアヂによるとヒッデケル運河とゲホン運河の間で陰りを見ているとしているが、ということは両運河をぼやけた暗線として、描いているということ。
ARETHUSA FONS はArethusa Lacus(スキアパレルリ1883~1884年命名)のことか。
McEWENが8°長の節目として描いている由。後のアントニアヂの火星圖ではLacusが採用されている。
ISMENIUS LACUS はシーイングが好いと、THOMSONのω=323°W圖のように不規則な楕円形だが、一般には、“rather faintish,” “darkish,” “dark,” “dusky,”の様な形容詞が使われる。アントニアヂ自身はω=350°Wの機會があったが、見分けがつかなかった。PHILLIPSの圖にはどれも描かれているようである。
DIOSCRIA はPHILLIPSにもアントニアヂにも陰って見えたが、7JanにはTHOMSONが、ここからメロエ島に向かう白色の筋を見ている。
CYDONIA もPHILLIPSとアントニアヂには陰って見えたが、29DecにはPHILLIPSがアキッリス橋に先行する白斑をみている。
これで、SECTION Iのテクストの概略は終わりである。實際にはこの後、フォントを小さくしてMINOR DETAILという欄があり、そこにはこの領域の様々な模様、特に運河の観測が報告されている。出ている名称はArnon, Deuteronilus, Euphrates, Gehon, Hiddekel,
Orontes, Oxus, Phison, Protonilus, Sitacus, Typhoniusに及び、Gehonの記述が最も長い。考えてみると、イタリアや英國での観測の發達は運河というものが動機になっているのかも知れない。アントニアヂにとっては、初めに火星圖がありき、で、それに合わせて観測というものが附随するようである。
尚、ここにはマレ・セルペンティスの記述が見当たらないが、これはアントニアヂが1924年に与えた名称で、まだヘッレスポントゥスの一部とされていたのかも知れない。
もう一つ、 THOMSONは3 Jan 2014 at ω=323°Wでグレースの泉、つまりホイヘンス・クレーターを見ている可能性がある。巻末Plateに出ているスケッチに顕著なのだが、アントニアヂの對照法には引っ掛かってこない。
以上で今回のSECTION Iのreviewは終わりである。以降、全部を紹介するには後六節ぐらい必要であろう。考えると一寸ウンザリする。
ところで最後にOAAの1992~1993年(1913~1914年の79年サイクル)の観測概要に就い
て、中島孝氏がCMO#136 (25 August 1993號)に纏めた統計があるので紹介する。この接近ではOAAの国内の観測者だけで20名のメムバーが参加し、合計2325の観測を得ている。観測者の内半数10名が眼視観測である。観測数の多い順に擧げると、南838葉、中島 孝362葉、岩崎 徹343葉、村上117葉のスケッチ(に7葉のTP像と11カラー像)、伊舎堂116葉のスケッチ、日岐111葉、などである。写真撮像では森田行雄氏の活躍が顕著で、TP写真133セット+カラー写真128葉に昇った。海外からも646の観測が届けられた。