Ten Years Ago (226)

 ---- CMO #288 (25 February 2004) ----

  http://www.hida.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/cmo288/index.htm


 

CMO#288(25 February 2004)は、2006年十月に32ヶ月遅れで発行されたことが、上記URLのページの記述から判る。印刷版は発行されていないので、是非ご覧頂きたい。

 

 

回で2003年接近期のレポートは23回目で一ヶ月毎のレビューとなり、2004年一月後半~二月前半の観測報告が纏められている。この期間の火星は「うお座」から「おひつじ座」へ順行を続けて日没時には夕空の南の空にあり、沈むのは23時台であった。視直径δは7.5"から6.2"に落ちて、日没時の高度は高かったが小さくなってしまった。季節はλ=334°Lsから351°Lsへと進み、南半球の秋分へ近づいていた。中央緯度φは25°Sから19°Sとなるが、まだ南向きに傾きは大きく、位相角ι41°から38°への変化で欠けも大きかった。

 観測報告は、14名から134観測であった。国内からが696観測と大半を占めている。福井では冬の天候が続いて観測日は少なく、太平洋側の観測者の報告が多かった。アメリカからは323観測で大半がパーカー(DPk)氏からであった。ヨーロッパからは414観測で、シーゲル(ESg)さん、ピーチ(DPc)氏、ペリエ(CPl)氏などからであった。オーストラリアからも1名の報告がある。

 

レビューは小見出し毎に纏められていて、

黄雲のその後では、十二月発生の黄雲は浮遊黄塵を遺しているものの最早活動的ではないとしているが、浮遊黄塵の濃いところが残っていて、影響の見られる観測の例を取り上げている。周回衛星のTESのデータには現われるものもあるが、地上からの観測には引っかからないようになっていた。

 「ヘッラス」には、この時期の北部の明かり溜まりと、西側に沿って立つ明帯に関して記述がある。この期間の日本からの観測が詳しく紹介されている。

 「マレ・セルペンティス」では、2003年七月に濃化した以降の変化に注目して、この期間のマレ・セルペンティスとデウカリオニス・レギオの東部の様子を伝える。出現しつつあるように見えるノアキスを横切る暗帯の様子も取り上げている。

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomk/2003/M_Serpentis_June_Nov.jpg

 「南極冠と南極雲」では、南極冠が最後に確認されたのは、ピーチ(DPc)氏の18 Dec (λ=318°Lsι=42°) の画像であったとしている。パーカー(DPk)氏は前日に撮影した画像に南極冠が出ていると主張し、眼視でも700×で確認しているようである。その後は明確に捉えられておらず、一月末にはフード状か靄っているか微妙なニュアンスの状態となって、南極に水蒸氣が支配し始めていると見なすのは好いように思うとしている。二月にはいると、南極は鈍い白雲に覆われているとしている。

 「アルギュレ雲」では、アルギュレが朝には霧に覆われてB光で明るく、午後になると地肌が見えて逆三角形の明るさに見えていたことを各氏の報告から取り上げている。

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/288OAAj/index.htm

 

 2003年接近期の解析も始まり、"2003 Mars CMO Note #01" として、「何故2003年七月のノアキス黄雲は大發達しなかったか?」"Why Did the July 2003 Noachis Dust Shrink So Soon?" が掲載された。

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/288Note01j_03/index.htm

 いくつかの小見出しを設けて解析が展開されている。『今回の状況』では、六月末からの前駆段階の様子を取り上げて、「相當起源は早く北に遡る可能性がある」としている。七月はじめになってアメリカからの観測で、イアピュギア・ウィリディスに明確な黄塵が捉えられて、七月4日には後方のマレ・セルペンティス辺りで新しい黄雲の発生が捉えられている。同日沖縄では遠征中の南氏と伊舎堂氏が、夜半の火星の低いうちから黄雲域を捉えて追跡が出来ている。「シヌス・サバエウスを黄雲がチョン切っていて、その東側と、殘りの西側の色が異なるのが確認されたのは重要であった」として、この現象の気象的メカニズムを後段の『黄雲に伴う高氣壓部』で説明している。以後日を追って状況を記述していて、七月8日に発信した"CMO 2003 News #03" の要約を次のように引用している。「4 Julyには新しい暴れ黄塵が立って、シヌス・サバエウスの東端を覆ってしまい、北の方に進出するかに見えたが、5Julyには前線は南に移ってヘッラスを巻くように揚がり、ヘッレスポントゥス等を黄雲の中のぼやけた形骸とし、シヌス・サバエウスは殆ど回復した。6 Julyにはヘッレスポントゥスが稍回復し、ノアキスの明るい黄塵核も稍弱くなって居るように見えるが、まだ西側には膨らんだFalstaff(シェークスピアに出てくる愉快な肥満の嘘吐き大酒呑み)は未だ何かしそうな氣配である。7 Julyには然し、流石のFalstaffも窶れてしまい、然し、ヘッレスポントゥスは再び頭も足も黄雲にちょん切られ、黄雲は西には發展せず、ヘッラスの方に退却したようである」。その後は、「8 July9 Julyにはマレ・セルペンティスの根元が明らかになり大きな暗部が出現し、この邊りの黄塵の暴れ方が相當なものであったことを窺わせた」とある。

 1956年、1971年の場合』では、今回の黄塵が1971年の七月に觀測された黄塵(1971a)1956年八月に日本で觀測されたノアキス黄雲を取り上げ、バーストが発生した地点は殆どどれもが変わらず、マレ・セルペンティスの辺りであることを指摘している。違いとしては、「季節が1956年や1971bの場合はλ=250°Ls260°Lsに發生したのに對し、今回や1971aの場合はλ=215°Lsと若い點が重要な違いである。」

 次ぐ、『ヘッラス盆地の淵で何故擾亂が起こるか』では、「ノアキス黄雲の場合何れの場合もヘッラスの淵で初期の黄雲が發生しているのは興味のあることである。」として、ヘッラスの盆地地形を取り上げ、内部と外部の気象学的違いの考察から「周邊部は朝を迎えると共にヘッラスを界面としてより強い浮力を受ける可能性が高いと思われ、これが周邊部に擾亂が見られる理由であろう。Ds (sub-Solar pointの緯度)15°Sに達する頃から、ヘッラスの淵での上昇氣流の發生は多くなると思われる。」としている。

 λ=215°Lsのノアキス黄雲は西方に發達しない』では、「偏東風によって西向きに發展したように見えた1956年や1971年のノアキス大黄雲と、今回の2003年黄雲の状況とは相當違っている。そこでその違いに就いて考える」として、火星の南半球の季節的な日照状況・気象状況の違いから、季節の早い黄雲の発展は偏東風の影響より、「先ず二次的な黄雲が西で立つかどうか、それが持續するかどうか、というところにあるように思う。」としている。今回の黄雲では、「λ=215°Ls邊りであれば喩えノアキスに黄塵が立っていてもノアキス以西が朝を迎えるときに、更に黄塵の發生を促すような要素、例えば傾度風の吹き方が未だ弱く上昇氣流の共鳴が起こり難いという状態では状況が異なる。ということは次第に朝方に入っても然程の上昇氣流がなく、とくに2003年七月の場合、逆にノアキスに張り出した黄雲の西端邊りは寧ろ直ぐに下降氣流に影響を受け始めたらしく思われた。これは砂塵の沈下というより、ノアキスに先行する部分、もともとのヘッラス周邊部の上昇氣流を補充する爲に下部の方から砂塵を提供していたと思われる。」とある。

 『黄雲に伴う高氣壓部』では、七月4日に見られた前述の、シヌス・サバエウスの東半分を覆う黄雲域と西半分の様子が対照的に違っていたことに関しての解釈である。本文から引用すると、「この部分は明らかに水蒸氣も浮遊黄塵もなく大氣が(通常よりも)澄んでいたのである(3Julyには日本からは擾亂は見えなく、シヌス・サバエウスは完全でチョコレート色であった)。然し、5Julyにはシヌス・サバエウスの回復と共にシヌス・サバエウスの色合いは蒼色系に退化した。4Julyの西側の様相は、明白にここが極めて高氣壓部で、上空から地上の塵を吹き拂う様に氣團が降下し、それが先行する低氣壓部の黄塵の巻き上げに寄與していたという事であろう。朝方の觀測は揃っていないのだが、マレ・セルペンティス邊りで黄塵が立ったあと、續く朝を迎える地域(ここではシヌス・サバエウス西部)では寧ろ落ちた成層圏がそのままになるほど、對流部を先行する黄塵部が吸い上げていたのであろうと思う。上昇氣流による砂塵の巻き上げがあるときには近くに塵埃のクリアな部分が出來る場合があり得るという事である。」としている。

  MGS-MOCに見る砂塵分布』では、 MGS-MOC像に捉えられた黄雲の様子を示して、周回衛星から得られたデータの解説している。

 最後に『まとめ』として、以下のように2003年黄雲の観測から得られた事柄を示している。

 2003年七月には久しぶりでノアキス黄雲が見られた。これは然し、局所的に留まった。その意味 で1971a黄雲に似ていたが、ノアキス黄雲としては大發展した1956黄雲、1971b黄雲が知られている。

 ノアキス黄雲の起源は何れもヘッラス周邊部、特にマレ・セルペンティス邊りの擾亂にある。

 この擾亂はヘッラス盆地とその外側の特性の違いに、特に夜から朝への變化に對する反應の違いに據るであろう。

 Ds15°S程度(2003July1971b)では擾亂はヘッラス周邊部に留まるが、25°S (19561971b)では、もし條件が持續されるならコアは西に向かって擾亂の連鎖が誘發される。もし、浮遊黄雲が夜に於いても活動するようになり、對流圏が夜に復活すれば、偏東風が吹き、西の方へ黄雲は擴がるであろう。2003年七月黄雲の逆に意味するところは、黄雲が更に擴がる爲には擾亂の連鎖、或いは單獨でも更に上空への上昇が必要であったということであろう。

 單獨の上昇氣流擾亂が起こったときは、近くで下流氣流を伴う。地上風によって淡い浮遊黄塵ならば部分的に浄化されるし、適當な黄雲ならば淡化される。

他に、いくつかの下記の参考資料を「付録」として添付してある。

付録I1969年と1986年の場合

付録II: CMO 2003 News #1

付録III: Noachis Dust from 4 July to 7 July (CMO 2003 News #3

付録IV: Spectacular Dust Storm was observed here in Japan from 4 July through 8 July 2003

 

 LtEには、一月25日から二月24日までの期間の来信が纏められ、外国からは、Wu-Yang LAI ( 武揚,Taiwan)Françoise LAUNAY (Meudon, France), Don PARKER (FL, the USA), Damian PEACH (the UK), Christophe PELLIER (France), Bill SHEEHAN  (MN, the USA)の六名、国内からは、阿久津富夫(栃木)、平岡 (東京)、熊森照明(大阪)、牧野彌一(富山)、松本直弥(長崎)、宮崎勲(沖縄)、森田行雄(広島)、高成玲子(富山)、梅田美由紀(福井市自然史博物館)、藪 保男(滋賀)の十名の諸氏からのお便りが掲載されている。この月もローヱル会議とOAA総会関連のやりとりが多くなっていた。

 

 Ten Years Ago (102) CMO #142 (25 February 1994)が筆者により紹介されている。二十年前のこの期間には火星は「合」を過ぎたばかりで太陽との離角は小さく観測期にはなっていなかった。巻頭には八月に福井市で開催されることになった「惑星関係シンポジウム」と「OAA総会」のアナウンスがある。

ついで、「論攷紹介」として、「火星極冠の消長 "Seasonal Variation of the Martian Polar Caps" 田中浩・阿部豊」、が南氏により、和文・英文併記で紹介されている。

 1992/93 CMO Note (14)では、"HIGA's Video Images in 1992/93" として、当時回覧中であった沖縄の比嘉(Hg)氏のビデオ画像 (11 Nov 199229 Mar 1993) の映像リストが掲載された。

 『夜毎餘言 XLIII は「神武東征と火星」と題されて、山本一清博士の太平洋戦争直後の論文「日本古史譚管見」からの紹介で、神武天皇東征譚の行路を取り上げ、それが火星の星座間の運行に似ているとしているのが面白いとある。

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/288TYA102.htm

 

 また、『火星通信』ウエッブページには、穴水ローヱル会議のページが開設されて「2004年穴水・ローヱル会議」の開催についての概要の和文アナウンスへのリンクが掲載されている。

http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/LC_firstannounce.htm

 

村上 昌己 (Mk)


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