0° ティコ・ブラーエ(1546~1601)の時代であれば、ヴェン島のウラニボやステルネボリの天文臺に籠もって新星や彗星の觀測を續けることに何の不都合も無かったのであるが、このスタイルは後年例えば火星の表面の追求というときに有効であるかどうかは判らない。
もちろん、ケプラー(1571~1630)が彼の近くに存在したことはまた別の天文學に寄與する幸運な要因であった。
火星表面の動向を観測する場合問題になるのは、火星の自轉時間が地球のそれに似ているという點である。このことはフレキシブルな數多くの天文臺の連携の必要性を強く意味する。
1°
もともと例えばリック天文臺はE
E バーナード(1857~1923)が1895年ヤーキスに移る前に火星を觀測したところで、その紀録はリックに遺されている。ただし、これは非常に孤立した觀測で、當時何らかの役目を果たしたかどうかわからない。
筆者が2005年にリック天文臺滞在中、リックが他所と繋がる貴重な經験をした。これはものすごく印象的で、記憶にも殘っているが、十月18日の黄雲の追跡時の體驗である。この黄雲の發生はドイツのSilvia
KOWOLLIK (SKw)さんからの情報が最初で、18
Oct 2005 1:55 GMT (18:55 PDT, 10:55 JST)にemailで届いた。ドイツでは真夜中だろうが、カリフォルニアでは夕方7時頃で、まだ外は明るかったのではないかと思う。カリフォルニアでは火星は未だまだ先である。しかし幸いなことに西海岸では後半が押さえることが出來ると解ったし、空も晴れ氣味であったので良い機會に巡りあったと思った。日本での觀測は無理であったのも明確であったが、しかし、とにかく村上昌己氏にCMOのリスト(海外も含む)に宛てて、ニュースを流して貰ったし、アメリからも追々情報が來るようになった。ということは私も忙しくなると言うことで、22hPDT(5hGMT)前にはすでに大ドームに移行し、5:30GMTには最初の觀測を行っている。その前はドームの控え室にいてemailの處理をやっていたわけである。ドイツのSKwさんは5:04GMTまで觀測を續けていたから(多分相當西に傾いている筈)、丁度入れ替わりに私が觀測に入ったことになる。ドームで觀測に入ってからはemailは讀めなかったが、Don
PARKER (DPk)氏やBill FLANAGAN (WFl)氏やEd
GRAFTON (EGf)氏などから觀測が送られて來ていた。これらは私の觀測後(最終觀測は08:50GMT)に讀むことになる。アメリカでいち早く連絡が來たのはJ
WARREN (JWn)氏からで04:20GMTの觀測であった。後で知ったことだが、アメリカ大陸で最初に捉えたのは、NYのSean
WALKER (SWk)氏で03:01GMTの觀測であろう。
もう一つ注意するのは、未だ黄雲というものが火星の昼間に安定するのか更に大きく變化するのか どうか判らない状況であったから、單發ではなく、20分間隔か40分間隔でデータを得ることが大切であったわけだが、SKwさんがこの方法を知っていたのは幸いであった。
この黄雲の追跡の模様はCMO
#324 (25 Oct 2006)のNote 7 (Miracles occurred on
18 October 2005)に前後關係を記している。
實はヨーロッパではこの黄雲は更にもっと朝際で撮られていて、當然イギリスなどでは連續觀測と通報が必要であったのだが、殆どいつものように無視された。良い条件で一枚得られればそれで好いという昔からの態度がある。道具を仕舞ってから後で見ると、より朝側に黄雲が出ていたという始末であったということであろう。もう一寸粘れば好かったという後悔はあるや無しや。無いんでしょうな。
2° ここで書きたいのは、そういう小言ではなく、もっと文明史に拘わることである。
Lickで上の黄雲を待つ間、實感として、アメリカ大陸はなんと廣いことかという感慨があった。大陸は時差で三時間の幅であるが、實際18Octの私の觀測はNYのSWk氏より二時間半の遅れで始まっている。逆に言えば、もしNYとCAが組になれば、二時間半から三時間の觀測時間が稼げ、より多く火星面を連續して觀測が出來ると言うことである。更に、歐州と美國が組んで、40分毎(火星の回転10°)觀測を励行すれば大西洋に觀測所が無くても更に長い觀測時間が稼げるのである。18Octの場合 ドイツのSKwさんは(廿分刻みの觀測であったが)六番目の觀測が
4:24GMTに、フロリダのDPk氏は04:25GMTで撮っているので、大西洋が邪魔にならないことは明らかで、先に見たようにドイツとリックでも連續觀測を延長することは可能であった。イギリスの觀測が既に00:00GMTでは觀測可能であったことを考えると、歐美の連携で、衝の近くであれば、殆ど10時間を超す追跡が可能であることが判る。
3° 歐州はさておき、アメリカが領内で手を組んだこうした連續觀測をこなすのは然程困難ではないはずであるし、理想的な地理的條件が揃っているのである。
既にアメリカは最大の農業國でありながら最初から都市型思考で、「州」毎に法を作り自立した形で、互いの州は交易を行い相互依存の形で時を刻んできた。しかも、注目すべきことに、言語については英語を基盤に出來る點である。
アメリカは1861年~1865年の南北戰争後、内戰を起こしていない。從って南北戰争以降、この組織は繁榮を重ねてきたと考えて好いだろう。農業と孤立國(Der
isolierte Staat)の概念によって、農村と都市化の問題を扱ったドイツのフォン・チューネン(1783~1850)の生きた時代の直後にアメリカでは南北戰争が起こっている。從って、この流れはアメリカの更なる都市化とも關わっていると思う。世界的に見ても、都市化は19世紀に入って急速に進んだ。そして21世紀に入って、全世界の都市部(urban)と地方部(rural)の人口比が拮抗するに至ったと言われている。その中でアメリカは
http://esa.un.org/unup/Maps/images/l_urban_2011.gif
を見ると判るように(この圖は国連のWorld
Urbanization Prospectsに依る)、東海岸と西海岸にそれぞれ大都市(それぞれニューヨークとロサンゼルス)を抱え、その間に普通の都市が綺麗に分布散在している。この分布の強さは、大災害が何處かで起きても、必ず生き殘れる部分が在るだろうという點にもある。
われわれは此處では火星の連續觀測にのみ關心を拂うが、當然ここに見られる都市分布は理想的だともいえる。もし有機的な團體がうまくリードすれば、20世紀の初頭から多分アメリカ大陸において素晴らしい觀測網が出來ていたことであろう。
4°
アメリカもしくは新大陸は長くヨーロッパのアンチテーゼであったと言えるだろう。ということは寧ろヨーロッパに於いては、今アメリカに見られるような都市型の大きな可能性に縛りがあったであろうと想像される。勿論、言語はラテン語に絞れば、非常に廣い範囲で統一出來る可能性はあったし、宗教もカトリックを採ればユニヴァーサルな基盤があったとも言える。然し、ヨーロッパには内實はローカリズムが支配していたと言って好い。中世においては都市の周囲には城壁が存在し、何らかの自己防衛の體制が支配し、自己閉鎖的であったと思われる。宗教も實際には科學の進行を阻むものであり得た譯である。領主権力に支配されるこれらの都市は都市と言えるものかどうかも判らない。自由も保障されない。
建築といえば、教會であろうが、カテドラルやドゥオーモには天を衝くような尖塔型の形式は見られないことはないが、ミラノのドゥオーモにしても、本體の建築が壓倒的であるし、カンタベリィの大聖堂も山手から見ると、平板であって天を衝くという感じではない。ハイドパークから地平を眺めると幾つかの尖塔が一寸異様に目につくが、それ以上のことはない。多分その周りに農耕・農業型の集落があるのだろうと思う。
それに對し、例えばNYの摩天樓の集團は、いわば都市が一齎に天を衝いているようにみえる。これは最早地平型、農耕型とは遠く離れたものであり、新世界の都市の象徴であろう。どうも農耕型として地面の方を見るのでなく、上空を見るという方がユニヴァーサルであるということの様である。
5°
西ヨーロッパでも、多分、ナチス・ドイツの覇道・非道があったため第二次大戰後、新しい動きがあり、1957年のEEC
(European Economic Community)を含む、EC
(European Communities)などを經て、EU
(European Union)が欧州連合条約マーストリヒト條約の1992年の調印、1993年の發効によって發足した。最初はベルギー、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ドイツの6ヶ國であったが、後にイギリス、アイルランド、デンマークなども加わり、2013年舊東ヨーロッパの國々の參劃に依って現在28ヶ國になっている。言語は23ヶ語程が使われている。
然し、依然、通貨統合がうまく行かない部分もある他、歐州懐疑主義
"Euroscepticism" の問題もある。後者は、歐州憲法條約が2004年に當時の加盟國でローマで調印されたが、この條約の超國家主義的な性格に対して、個別の加盟国の主権が脅かされるのではないかという不安から、2005年フランスとオランダの國民投票では批准が拒否され、それを受けて批准を延期する國も現れた。多分、全體に亙って地方主義を拂拭することは不可能かもしれないという状況であろう。
ところで欧州連合の文化政策を見ると、Civis
media 關係とか、EU
Youth Orchestraの育成などが見えるが、科學關係は見當たらない様だ。例えば、
European Planetary Science Congress (EPSC)がEUから支援を受けているかどうかも判らない。
6°
一方、アメリカにも次第に地方主義が芽生えているところがあるようだ。1929年の世界恐慌の後、1933年に就任したフランクリン・ローズベルト大統領が、それまでの古典的な自由主義經濟から、政府が市場に介入するニュー・ディール政策に移行し、低迷經濟を上向きにしたが、これは取りも直さず、イギリスやフランスが採ったブロック政策に似て、囲い込みをする地方主義的傾向を持っているわけである。
他に第二次大戦中のアメリカ側の行爲によって、アメリカが 不信を買ったところがあり、それがアメリカのユニヴァーサリズムに反すると見られる向きもあったと思う。
フランスの田舎へのアメリカ空軍による誤爆は頻発していたなどの他、不思議なことに、アメリカの諜報機関や財閥その他、GMやFord、DuPontがナチス・ドイツと通じているところがあり、アメリカはドイツと戦っているのではなく、ヨーロッパを相手にしていると見られかねなかったということである。このことについては以下のAppendixに廻す。
Appendix
もっと根源的には 例えば、現在のESSOなどの前身は、「スタンダード石油 Standard
Oil」で1870年、ロックフェラー財閥によって 設立されたものだが、この會社は早くからナチスと關係があり、 イギリス空軍が使用した燃料は、ドイツ機が使っている石油と同じものだったということや、爆撃機などはテトラエチル鉛tetraethylleadがなくては飛ばせなかったが、その権利を持っていたのはスタンダード石油で、これがドイツの「IG
ファルベン」という大化學會社を通じて、ドイツ空軍に流されていたということがあったらしい。毎月4万8千トンのアメリカ産の石油が、樞軸國のスペインを經由してナチスに供給され續けたとされる。
「I・G・ファルベン社」は從業員10萬人の大企業で、ドイツの軍需製品の殆どを賄っており、例えば合成石油と合成ゴムの大半はアウシュヴィッツで運営していた同社の巨大化學工場で、被収容者を勞働力にして製造されたのであった。ヒトラーは「スタンダード石油」製の合成ゴムを取得することができたわけであるが、合成ゴムは爆撃機のタイヤなど軍事用に必要なものであった。ところが「スタンダード石油」はアメリカ合衆國に對しては合成ゴムの供給を一切しなかったとされる。スタンダード石油の動きは英國の諜報機関によって、アメリカに通報され、マスコミにも流され、非難を浴びることになるが、「アメリカ陸軍省」と「戰略情報局(OSS、CIAの前身)」がスタンダード石油無しには戰争を遂行できないことを知っており、手を抜いたようである。もっと有名なのは、戰後フランクフルトに入った西側が驚いたのは「I・G・ファルベン社」の大ビルが無傷で殘っていたことだったそうだが、當然これは米側の指示で米空軍の空襲を免れていたわけである。
スタンダード石油の悪行に關するデータが表に出てから、スタンダード石油に対する米國民の非難はかなりのものだったようで、 會長や社長が 國賊呼ばわりされる中で、ショック死した社長もいたらしい。
「IGファルベン」側にも似たような現象がおきている。もともとIGファルベン社はユダヤ人によって起こされたもので、その創業者の一人で最初の社長はカール・ボッシュ(1874~1940)という1931年のノーベル化學賞受賞者の化學者であったが、彼はヒトラーやそのやり方に賛同できず、また仲も悪かったようで、酒に溺れ、ヒトラーより先に死んでいる。アマチュア天文家としても知られ、なかなかの天文臺も持っていたようである。IGファルベンは戰犯ものであるが、ボッシュは戰後も嫌われなかったものか、戰後、ある小惑星が
7414 Boschと命名されている。
なお、戰後アメリカ政界で動いたダレス兄弟のように、早くからナチスと手を組んでいた連中もいるのである。(このAppendix未完)