中 島 孝 氏の手記 (3)
心象風景・天文活動
CMO #417 (25 December 2013)
昭 |
和21(1946)年5月、朝鮮・韓国から引き揚げて父の郷里、清水畑(しんばた)の実家に落ち着いたが、母の居心地は想像できる。農作業と縁のなかった商家育ちの半生だった。小作人の祖父から分家した(父)三男の嫁の立場でもあった。家族は全員野良仕事だ。朝星夕星だった。夕方暗くなって家に戻り、鋤や鍬の金具を柄からはずし、洗ってから家の中に仕舞う。ついこの間まで、毎日金具類は夕方本家に数を合わせて返した。
GHQによる農地改革は水飲み百姓にとっては革命的な出来事だった。父は直ぐ闇米の運搬と売買を生業とするグループに誘われ、遠くは九州まで超満員の汽車のデッキにぶらさがって往来した。警察の臨検があれば、デッキから米袋を投げ捨てて虚しく戻って来ることもあったようだ。ハイリスクハイリターンの渡世だった。引揚の逃避行に比べたら命の危険は無かったので、楽な仕事だったようだが、違法行為の行く末を思案して父は教師として復職を考えるようになった。
夏休みまで二ヶ月ほど大森小学校平尾分教場に通学し、しんばた弁に慣れようと努めたが、二学期からは鮎川小学校三本木分教場に住所を移した。三本木は浜の鮎川から徒歩一時間ほど山の中の集落で、峡谷に家屋が点在していた。里の清水畑とは気質・言葉遣いに微妙な違いがあった。馬が生活の中に居たし、冬は野うさぎ狩りをしていた。ひと冬越して翌1947年、国見小学校大丹生分教場へ移った。幾つかの集落の中心地が鮎川で、郵便局や小学校の本校などがあった。大丹生(おにう)は半漁半農の浜文化圏で、言葉も荒かったようだ。村の漁師からガッコのボーとかチョセンボーとか呼ばれた。ボーと呼ばれたのは大きな衝撃だった。棗や茱、石榴が甘味の素だった。砂糖は無論のこと塩も希少だった。
ある夕方、バケツを持って浜へ海水を取りに行かされた帰り路、畦道を歩いていると突然バケツごとひっくり返ってしまった。地面が動いた。どうしたのかと訝った。夜、東の空が赤っぽく染まっていた。白山(標高2702米)が爆発したようだ、と村の中でデマが飛んだ。M7.1という大地震として、世界に報道された福井大震災であった。
清水畑を訪れる度に、従姉たちから住所が変わると言葉使いが変わるのでおかしいと笑われた。夏になると、五太子(ごたいし)の山地から大人に連れられて海水浴に下りてくる集団がある。浜の子供たちは石を持って待ち構え、悪態をついて石を投げる。いじめられっ子がいじめっ子になった図だ。付き添いの大人たちが黙って子供たちを守っているのが不思議だった。余所者を排斥する江戸時代前からの風習が現代でも田舎には残存していた。閉鎖的で弱い者苛めの関所文化だ。翌年は仲間に入らなかった。福井市へ引っ越すときがそうだった。1949年春休み、親戚の応援を加えて大人の男三人が僅かな家財道具を大八車で一日がかりで運んだ。まだ舗装していない昔乍らの坂の多い蛇行した県道を進み、新しい集落に入っていくと、その度に村の子たちから同じ仕打ちを受けた。大人三人は悪さ坊主たちに見向きもせず、全く相手にしなかった。五太子の大人と同じだった。
新聞に載っていた学習雑誌『小学二年』の購読を親に乞うた。書店はなかったので郵送で取り寄せた。発行日が毎月待ち遠しかった。雑誌の日本語にはほとんど何の不自由もなかった。ラジオは無い、新聞は難しい、この雑誌だけが楽しみだったが、二日ともたなかった。ある日、朝早く浜に出て父は漁師から鯖を分けてもらって庭先で串に刺して焼き、それを背負って二人は国見岳(標高656米)の尾根伝いに、少し下方の五太子、一光(いかり)へ向かって登り、末(すえ)という集落に下り、分教場のある平尾を過ぎ、清水畑(しんばた)に入る。背負って来た焼き鯖を祖母に差し出すと泣いて喜んでくれた。父は祖父と伯父に家を建てて欲しいと何度も頼みに実家を訪れた。貴重な米を貰い、帰路は坂の多い未舗装の現在の県道を日本海に向かって歩く。米の運搬・販売は個人では違法だった。途中殿下(でんが)という集落に警察の派出所があり、時々バスを停めて闇米の臨検を行なうので、それを避けてバスに乗らず徒歩で通した。殿下から下りになり大味(おおみ)、そこから海岸沿いにジープしか走れないような道を小丹生、そして大丹生へ、うつらうつらしながら歩いた。タフな行程だったが米を取るかバスを取るかと問われたら、子供でも米と即答しただろう。白いご飯が夢だった時代だ。子供時代特有の風化作用で所どころすり硝子越しの記憶になってしまったが、丹生郡は私の第二のふるさとである。後年、懐かしくて時々車で訪ね廻った。集落の佇まいが心の風景とは少しずれていた。
福井市内で,花月橋の北詰に位置するお寺の元墓地だった広い土地の一角を安価に借りることができ、自宅が建つことになった。湊小学校は四つめの転校先だった。小学四年生だった。見たこともないジャングルのような巨大な校舎で道に迷う思いだった。学校は一教室規模の分教場しか知らなかった。休み時間に教室の後ろを少し広くして、二人でロープを回し、子供たちは声を掛けて回っているロープをとぶ遊びに興じていた。新たにとぶ子は何と呼びかけて入っていくのかを近くでじっと観察し、みんなに共通している合図の声かけが判ったと思い、ロープを回している子に対して一声を発した。どっと笑いが起こって、ロープの回転が止った。みんなと同じ声かけだったのに。理由は私の標準語(共通語)のせいか、又は浜言葉のイントネーションの違いではないかと後になって思い至った。私の学級担任は校内の幻灯機操作の係りだったのか、他のクラスの幻灯会にも私たちを相伴させてくれた。福井に縁のある (明治41年福井市生まれ) 天文学者・藤田良雄博士が来校され研究渡米された際の総天然色のスライドセットを楽しむことが出来た。群青の空を背景に銀色に輝く世界的な天文台に憧れを抱かせてくれた。同じような思いをしたのは、福井復興博覧会の第二会場になる郷土博物館が足羽山(標高116.5米)の頂上付近にでき上がり、その屋上に天文台が設置され、五藤光学製の国内三番機の大きな15cm屈折望遠鏡が目の中に飛び込んできた時だ。眺めているだけで心満ちる思いだった。
望遠鏡がきたぞー。皆で理科室へ走った。見慣れぬ形の望遠鏡が床に備え付けられてあった。反射望遠鏡だったと思う。入り口から覗き込むと林 幸子先生が説明されているようだ。後に分かったことだが、林先生は、当時郷土博物館の嘱託(協力委員)をされてきた。変わった格好の望遠鏡だったが、何か引き付けるものがあった。時の福井市長は熊谷組の熊谷太三郎氏で、科技庁長官を務めていた。アララギ派の歌人でもあった。福井市郷土博物館は市長時代の文人らしい発想・建設で、初代館長は、牧野富太郎から多大の影響を受けた植物学が専門の、私たちの中学校の校長 堀 芳孝氏が兼務した。風格のある博物館には夢が詰まっていた。現在は福井市自然史博物館と改称している。博物館の前に清水の湧き出る小さな池(天魔ケ池)があり、430年昔、ここに本陣を構えて羽柴(豊臣)秀吉は柴田勝家に妻お市の方を城から逃すオファーをしたが、夫人に自分自身の処遇は拒絶された。三人の娘は城外に、落城を目の当たりにし、天守での今際に夫婦の舞と笛が足羽山からでもわかったそうだ。当時、柴田勝家の北の庄城は現在の柴田神社の辺りだったそうだ。
1952(昭和27)年、光陽中学校に入学。H君という友人が出来、二人とも天文に興味があった。サイエンスクラブで天文が出来るらしい、部長は花山さんという人だと探った。二人で三年生の教室に恐る恐る出かけていったが、花山さんらしき人が4、5人の級友と談笑しているところへ近づくことができなかった。再度挑戦したが不発だった。その内H君は明道中学校へ転校していった。一人ではとても、と断念し、来年こそは、と念じた。クラス担任が酒井義一先生という理科の担当だったせいか気象観測に興味を持ち、グランドの隅に備わっていた百葉箱に毎日定時に出掛け観測日誌を付けるようになり。一年ほど続けた。そして、二年生になった。サイエンスクラブの部長は南 政次さんという人だとわかった。見覚えのある人だった。湊小学校時代のとても背の高い南さんの姿だった。ある日の放課後、図書室へ行くと書見中の南さんが目に入った。他をおいてはない、今でしょう、と思った。福井弁は怪しかったが、おずおずと入会を申し出た。南さんは、あの独特の人を魅了する笑みを浮かべて招き入れてくれた。やった!と心の中で叫んだ。爾来60年南 政次さんに兄事することになるとは。感無量である。花山 豪さんとは同じ高校だったので今度はスンナリ天文クラブに入会できた。東京の学生時代を含め博物館活動を通して友誼を戴いてきた。福井市におけるキャリアを収入役で結んだ。地方公務員の星だった。
サイエンスクラブのたまり場は理科室でアカデミックな南カラーの活動が行なわれた。晴天の日は昼食後、中庭に五藤光学製のウラノス号をセットし黒点観測を実施した。太陽が顔を出せば、必ず観測記録に留めた。黒点の日々の動きが緯度によって逸れていくことで太陽が気体であることを実感した。後年、20年間位だろうか太陽黒点の長期観測で、このクラブは表彰を受けたようである。夜間観測は、光害はなく澄みきった空で天の川が迫ってくるように肉眼でも銀河の細部まで見え、田園の中の校庭でウラノス号は私たちの期待に十分応えてくれた。星図をたよりに星雲星団を探訪した。南さんの導きでヘルクレス座の球状星団M13やアンドロメダ座の大星雲(銀河)M31などを堪能できた。観測途中で曇りになると理科室に戻り、南さんのレクチャーが始まる。ホットな話柄を用意され、長けた話術で私たちを熱中させた。仮眠のときはお守りの軍用毛布を愛用した。理科室の戸袋の中に観測用具と一緒に仕舞っておいたが、管理者が代わったのか魔法の絨毯のように何処かへ消えた。授業のとき組み立てミスでウラノス号が壊れてしまった、と聞いた。
1954年と1956年は火星観測史上のエポックメーキングだった。それまで常識と見做していた火星の事柄が新知見に取って代わる時代の始まりだった。極冠溶解の問題、地形の変形の問題、季節ごとの地形の濃淡の問題、カナルの問題、黄雲の問題等それぞれが独立した事象と捉えがちだった。そこに気象という補助線を引くとほぼ一括りに議論できると明察したのは南さんが初めだった。1986年からCMO/ISMOという舞台・論壇(Conference)を設け、呼びかけて、火星表面の現象に學の位置づけを与えるべく観測と考察を進めてきた。精確なデータを積み重ねながら望遠鏡で火星との対話を楽しみ、その上で物理学者の視点に立ちデータの解析・統合を行い、議論を展開していくのが南さんのスタンスではないかと思う。地形が変化したり動いたりするのではなく有機的な気象現象だと喝破したのは南さんだろう。大黄雲の発生や移動も台風やハリケーンとは異なるメカニズムであると提唱された。連続した長期にわたるリモートセンサー的(遠隔の地球からの)火星の気象観測は中口径の器械を操作して十分参加できる点がアマチュアの存在理由である。生業のために行なうプロフェショナルと違って、アマチュアのラテン語の綴りの中にはアモールというコアが入っている。愛でる、慈しむ、という意味である。金銭を抜きにして例えば、プロの庭師でなくても、ガーデニングを楽しみ愛でる、という関わり方が出来る。このようなピュアな愉悦エンジョイメントがある。
1954年は火星の接近と皆既月蝕が見られた。博物館で火星観察を何人かのひとが参加するらしいと聞き、私たちは駆け込むように参加させてもらった。火星との初めての対面だった。青白っぽい木星や土星と違って火星は書物の言うとおり赤みを帯びた異様な世界だった。何かある、と惹かれるものを感じた。霞がかかったような火星だが、時折綺麗な顔を見せてくれることがある。今夜はご機嫌がいいな、と言っているうちに60年近くの歳月が流れた。火星に関する情報は真贋交えて豊富だったので、サイエンスクラブでも話題になった。皆既月蝕の時は光陽中学校と博物館を自転車で往復した。片道自転車で20分くらい、皆既中の常ならぬ色あいの月光の下、興奮を覚えながら足羽山を下り、市街や田園を疾駆した。博物館の援助や花山さんのお誘いがあってグループの観測に理解も深まり、夜間の連続観測に支障が無くなってきた。個人でトラブルに遭うことを考慮して福井天体観測研究会という組織を立ち上げ、館長が掌る、という形態になった。私たちは福井グループと略称した。館員が宿直する必要はなく、私たち中・高校生が責任をもって事にあたった。これこそ教育であると考える。社会人になってから博物館の協力委員に委任され、博物館の行事や活動に積極的に加わった。月に一回市民対象の天体観望会を催すが、講師となって参加者への解説や対応に尽力してきた。市民から大いに支持を受けて現在に至っている。ある夜、入館者で屋上が満杯になり、更に一階から三階までの階段が人で埋まり、館外にはみ出て行列をつくったこともあった。観望会のとき入館は無料である。博物館では、移動天文台と称して豊小や足羽小、朝倉遺跡、少年自然の家、遠く国見岳まで出かけて観望会を催したときもあった。国見岳から見る星空は格別なものがあり、引率してきた家族からも感嘆の声が上がった、その時撮った写真を秋の文化祭(学校祭)の展示部門に出品したようだ。
光陽中学校生徒会ではクラブ活動の編成替えが近々行なわれ、新たに理科部という枠をつくり、その中に天文班、気象班、生物班、ラジオ班などを総括するという案を耳にした。例えば、グリップクラブという個性的な名称のたいへん活発なラジオ作りのクラブなどもあり、問題は簡単ではなかったが、結局私たちのサイエンスクラブは独立して天文部と改称することになった。一方、博物館の計らいで中・高校生であっても絶大の信頼を受けて観測に専念できた。天文部の活動の幾つかは博物館天文台に移行するようになった。
時あたかも火星探査機によるスポット的ローカルな地上精査と望遠鏡によるグローバルな長期連続的気象観測のコラボレーションの幕開けだ。 (了)
1 Sept 2019 改稿