中 島  孝 氏の手記 (2)

 

改訂版・心象風景・異國の山野

CMO #416 (25 November 2013)


前白《福井師範を出て教職に就いた父一四(かずし)は、親友の坪川信三氏と語らって当時熱病のように青少年を含めて全國に蔓延していた舊満蒙などへの海外雄飛に志を立て、満鐡(南満洲鐡道株式會社)の影響下にある教育界を受験することになった。福井縣志津村で生まれ育ち、分家小作人の三男坊だったので、口減らしの為お寺の小坊主になる話が纏まったところで本人の知るところとなり、母親の一途な口添えを借りて取り止めとなった。父親に黙って福井中學校を受験し合格した(小學4年の修了で受験できるが師範は小學6年卒業を要した)が、父親の激しい叱責を買うことになり、断念。その後、學資と寮費のほとんどかからない福井師範に入學した。一見英國のパブリックスクールに似た寮教育体系だが中味は似て非なるものであった。師範學校は小作人などの次男坊以下の少年が多くを占め、富國強兵の一環として教育という武器を背負う尖兵を錬成する寄宿学校であった。敗戦の時、己の戦前の所業を恥じて自決する者は彼らの中にはいなかったのではないか。一生恩のあるべき福井縣の教員を己の都合で辞め、本家と分家との大きな違いはあるものの共に三男坊の二人は受験のために渡満したが、父は担保として朝鮮総督府治下の學校も受験した。採用試験の結果は朝鮮のほうが先に發表され、迷った末、手続きを終えてしまった。その後二人は満鐵の方を合格したが此処で彼らはキャリア上の訣別をすることになった。坪川氏は長春(舊満洲國新京)で或る代議士(湯沢三千男氏 後の内相)と出遇い、共に内地に戻り、その秘書官に取り入れられ學校教育界を去ることになったからである。戦後、坪川信三氏は福井県から代議士に選出され、建設大臣や総理府総務長官、沖縄開発庁長官等の國政に携わる。福井市長も務めた。》

 

戦前後に当たる昭和19~21(1944~46)年は、もう二、三歳成長していたら私の記憶が鮮明だったであろう。チョンジン(清津府)時代を臺一皇民として謳歌した母方の叔父叔母たちは、問われて思い出すのもおぞましい心境であったし、記憶は忘却の彼方にあった。時系列的な正確さはなくパッチワークの様に断片的で別個の模様の集合体なので一貫性がないように見える。しかし、継ぎ接ぎでベッドカバーやバッグなどを作り上げてゆくという点でひとつの心象を描いていると言えるのではないだろうか、と自分なりの納得をしている。

私たちの居住地はトマン川(豆満江)に近い牧歌的でのどかな山村で半島と言うより大陸の風景だった。高い空が秋の近いこと告げているある朝、突然村人たちが只ならぬ形相で私たち、母冨士子と次男の私と乳飲み子の次女輝子を表に出し、官舎の玄関を板で釘打ちして封鎖した。時を置かず追い立てられるように懐かしい山野を後にしたのは1945(昭和20)8月末近くのことであった。洋燈(ランプ)生活のため815日の終戦の玉音放送を知らなかった。當時私たちの住む國境附近は抗日朝鮮獨立運動が軍や警察の弾圧に抗して激しく動き、危険が高かったそうだが日頃から地元の料理大好きの父と村人との友誼の所為か憐憫の情を近隣の人たちから窺うことができた。父は出張中(定期軍事教練)で留守だった。同時に召集令状(赤紙)をも受けていた。軍事教練は激烈を極める訓練で、日本人の指導教官は邦人に甘く手抜きしがちなので、軍は現地出身の陸軍士官學校出の士官を指導教官に充てたそうだ。教官の訓練指導は厳寒の中峻烈で、ある教練以降父は自慢の乾布摩擦が終生できなくなったそうだ。その士官の中から後年大統領まで上り詰めた人が出た。

私たちはもう入れないバッテン印の附いたような玄関を見詰めていた。電氣も電話もない処だったので母はおろおろするばかり。チョンジンの実家に緊急の連絡はできなかった。88日、廣島への原子爆弾投下(6)に呼応してソ聯邦は突然日本との友好条約を破棄、宣戦布告を公にし、ほぼ同時に(9) ソ聯軍から空爆や艦砲射撃を被り、母の親たちは慌てて逃げ延び、裸一貫どうにか内地に戻る事ができたそうだ。チョンジンの母の実家は國境に住む娘一家に急報することはできなかった。國境が近いので逸早く逃げ延びたと思っていたそうな。

どの方向へ逃げたらよいかを指し示されて、着替えだけを風呂敷包みに纏めて母と次女と私の三人は、日本人の集められていると云う集結地へ向かった。二、三日で戻れるとばかり思っていた。道中、昨日までの友好的な人たちが相貌の奥に憎しみを籠めていた。自国と思っていた外地に居て憎まれていることを初めて思い知らされた。記憶が途切れているが、途中こっそりだれか他人の家に泊めてもらったはずだ。

その一年ほど前のことだろうか、母が手術入院のため私は親戚(清津の吉岡家か)に預けられ、ある夕べ、街の演藝場につれ出してくれた。舞台の上では私と同じ位の年頃の子役が頭と腕に包帯を巻いて予科練を独唱した。物悲しい歌唱とステージライトの夕焼けの中の佇まいに私は涙を流し、その少年に憧れた。月日が経ち長女で年子の妹一恵がやっと話ができるようになったと思ったら何時の間にか私よりも日本語が上手になっていた。周りで日本語を話すのは親だけであった。父は出張が多く留守がちだった。妹は母にベッタリだが、私は一日中一人遊びで過ごすことが多かったので、突然妹が親友になったようなものだった。こましゃくれた女の児になり、おにいちゃんを附き人のように扱った。初夏の日、妹といっしょに地平線までひろがる白い花の咲き乱れる野道を散策しているとき、急に空の一角から赤い星のマークを附けた銀色か灰色の飛行機が雲間から現れ、ぐっと迫ってきた。テッキだ! 二人は側溝のような枯れ川に飛び込み、腹ばいになって泣いているところを村人が見つけてくれた。敵機という言葉をなぜか知っていた。

飛行機と云えば、この出来事の後に飛行機が単独で村に不時着したことがあった。異常な騒ぎに促されて皆の後を追って河原を降りて行くと鮮やかな日の丸を附けた単発機が一機不時着していた。村人が遠巻きに取り囲んでいた。すると天蓋が開いて飛行士が立ち上がった。ヘイタイさんだ。棒立ちになって、恐怖の眼差しでじっと一点を見詰めていた。ボクは日本人です、と叫びたかった。急いで家に帰り母に緊急事態を告げた。友好条約国ソ聯の参戦などあり得ないと信じている母は、そんな馬鹿な。しかも、日本の飛行機が落ちるわけがない、と一笑に付した。

庭の一角に鶏を飼っていて毎朝必ず鶏卵を一個熱いご飯にかけることを私は食習慣としていた。ある朝、卵を割ったらくすんだ色をしていたので私は食べようとしなかった。母はその卵を水屋に仕舞って、昼食時にまた勧めたがイヤと言ったらイヤな私だったので、母は妹に食べさせた。私が食べるべき卵だったのだ。その妹が亡くなった。疫痢と聞かされた。松林の土まんじゅう(土葬の習俗)が妹の住まいとなった。親友がいなくなった。寂寞たる日々だった。ランプ生活なので時々ランプの火屋の煤取りをさせられた。こんなことでも寂しさを紛らした。ホヤの掃除は子供の小さな手に向いていた。

日本人の集合場所に定められた學校では暗くなると近郊の人々が集い、篝火を焚き、その周りでマンセー、マンセーと喚声を上げながら日の丸の四隅にデンデン太鼓のような模様のついた見たこともない旗(韓國旗の原型か)を打ち振り、歌い踊っているように見えた。35年振りに祖国が戻ってきたのだから、と後に思い返した。日本人は校庭の片隅で恐怖に震えながら佇んでいた。軍事訓練を途中で打ち切らされ一旦官舎に戻り家財を整理してから私たちを探しに来た父と再會することができた。大きな教室に集められて軍人のような格好をした人から日本語で指示を受けているとき奇妙なことに気づいた。私も氣づいていたがその指揮官に見覚えがあった。目と目が合った。父が勤めている學校の小使いさんだった。指示や説明が終わる何時の間にか先ほどの小使いさんが父の横にピタッとくっついてひそひそ話しをして忍者のように立ち去った。日本語が堪能なテキパキ仕事のできる賢い小使いさんだったそうだ。抗日朝鮮獨立運動の指導者の一人だったのだろうと後に聞かされた。彼の忠告は父が日本刀を持ち出しているだろう、見つかったら民衆に殺される、とのことだった。夜遅く校舎の後ろにある花壇で日本刀を処分しようとした。子供であっても証人を必要とする作業だったのだろう。校長を拝命したとき授かった預かり物だった。いつもは床の間に鎮座していた。鞘は簡単に粉々になったが刃は百姓の倅の力自慢でも石で折ることができなかった。よく見ておけと囁いて土の中に差し込むように深く埋めた。

私たちの住んでいた邑の長老で地主ヤンバン(両班)のマー()家に招かれたことがあった。朝から大勢の村人が集い、お祭りを行なっていた。豚を解体し、その部位を大きな鍋に容れて煮る。紐のような部位、腸だろうか、血を流し込み両端を括り熱湯で茹でる。母が居合わせていたら卒倒していただろう。輪切りにした熱々を勧められて口にした。なんとも云えない不思議なそして美味しい味がした。すると、何時の間にか5~6人の男たちにつれられて屋敷の裏の小高い丘に登っていた。男たちは私をほうっておいて激しい口論を始めた。現地語を知らない私はしゃがんで虫を探していた。暫くして4人ほどの者が何処かへ去って行った。私は二人の男に手を繋がれてマーさんの屋敷に戻った。そのひとりが學校の小使いさんだった。誰にも謂わないように。ウン、と誓った。いっぱいご馳走を貰って持ちきれないので一緒に運んでくれた。意気揚々と帰宅した。不思議なことに食卓には一切上らなかった。母は福井に帰ってからもキムチ(朝鮮漬け)を父と私のために漬けたが自分からは食べない。大蒜に弱いらしい。

 

私たちは、祖國に捨てられた。祖國から見捨てられて棄民となった。逃避行という苦行が始まった。歴史上外國と交戦したことのないに等しい日本と、欧州をいつも戦場にしてきた國々・連合國とでは敗戦の意味が全く違っていたようだ。この時、南下せずにトマン川を渡り舊満州へ北上した人々も大勢いたそうだ。狭い邦人集團の中で情報は錯誤し、デマや希望的噂が飛び交った。皆でぞろぞろ移動することは極めて危険であると父は小使いさんから諭されていた。日づけや地名は逃亡には関係なかった。時折動く氣車はまともに驛に止らず、イレギュラーな運行が常だった。低い潅木の木立から大きな道路を時々眼下にしながらその道に沿うように山中を歩いた。百人位だろうか家族連れの集團が土煙を上げ行進していた。また別の集團を目にした。今度は銃を携えた数人に護衛されているように見えた。さっきの集團と違って北へ向かっていた。二つの集團が出会ったらどの方向に向かうかは子供でも判った。山中の道なき道を歩くのは身重の母には難行であっただろう。この秋に三女を出産する。また別の大きな集團を目にする。全員がしゃがんで停止していた。その周りを服装の全く違う連中が取り囲んでいた。ついつい日本人どうしつるんでしまうが、小使いさんの忠告は的中した。やがて道路から離れてしまい、山中に入り込む。方向が分からなくなってしまった。周りは灌木で眺望がきかない。線路に出会う。この線路を進めばよいと判断した。線路だけが頼りだ。深い谷に鐵橋が懸っていた。怖い、恐ろしいと泣いたが背中に次女、両手にわずかばかりの家財と衣類を包んだ荷物を携える父は、来ないなら置き去りにすると言って鐵橋を渡り始めた。歩くのもやっとの母が恐々続いた。半島の山岳は峻厳で枕木と枕木の間から太白山脈の千尋の谷が迫っていた。レールに手を掛けながら、もう恐怖心は無かった、枕木をひとつずつ四つん這いのようになって踏み進んだ。

 

 チョンジン(清津)は廃墟化していたので日本人の多いピョンヤン(平壌)を目指したが、時既に遅く何処も邦人はもぬけの殻、真っ直ぐ本土へ向かえる希望はもはや無く、ピョンヤンを経由し、母が臨月に近かったので出産できる場所(ひと)を求めて母の伯父一家が居住しているらしいウォンサン(元山)に方向転換した。邦人の多い表街道の西朝鮮湾から東朝鮮湾へトンボ返りをした。無駄な半島往復だった。

ウォンサンは日本人が開拓に入った頃は人口23萬の漁港の町で、後に豊富な地下資源の宝庫であることが判り、人口も20萬位になり、ここに居住していた母の父の弟で漁業成金の弥三郎が大きな屋敷(會社とある教団の本部)を構えていた。この大叔父の成功に触発されて祖父一家は四ケ浦の旅館業と時計修理業を畳んでチョンジン(清津)に渡り、時計及び玩具業を営む。母は京都四条河原町の親戚を頼って二、三年間和裁の修行に勤しむ。清津に公立高等女學校(清津公女)が開校となり、母は帰ってきて入学した。大正末期のことだった。母の語調には京ことばの名残をとどめている。また母が京大のことを今もケイダイと発音するのはケイダイからキョウダイに発音が移る時期だったようだ。

ソ聯軍は友軍の米國から提供された上陸用船艇を使って既に上陸し、大叔父の屋敷の一部は将校用の宿舎として徴発されていたが、昼夜を分かたずのソ聯軍兵士の強奪を免れる安全保障でもあった。大叔父は親戚中で吝嗇家として知られていた。敷地内に建つ小さな物置用の小屋のひとつが私たち一家に宛がわれた。世は緊急事態だった。母屋のいくつかの部屋を引き揚げ途中の金持ち邦人に貸していた。母の叔父(私の大叔父)は物置小屋住まいの母一家にも家賃を請求しようとしたくらいだ。その物置小屋で母は三女明江を出産した。直ぐ死んでしまう子に父は名前をつけようとしなかったので、母が明治の明をとって明江と命名した。屋敷にはかなりの日本人女性が寄留していたが助産の仕事は父が一人でつとめた。次女出産のとき手伝いに来てくれた邑の婦人たちの振る舞いを見て助産の手際を見て覚えていたそうだ。乳飲み子らと生き別れを余儀なくされてきた親たちやそれを間近で見てきた人々にとって出産など全く関心を引かない些事だったのだろうか。

屋敷の引き揚げ者の中に、私に近づいて友達になったゴミ君がいた。どんな漢字が当てはまるのか、二、三歳年上だろうと思うが。私をそっと連れ出して物置のような小部屋に入った。法事などの佛事などに供える砂糖菓子のような白か桃色の品が小箱に詰めてあり、その小箱が大きな箱にいっぱい詰められてあった。持って帰れと唆したが、私はイヤと言って断った。瞬間、これは悪いことだと悟ったからだ。たしかに悪いことをする目つきだった。そのような表情に一度も接した経験がないのに。ゴミ君は二箱ほど服の中に隠して出て行った。

ゴミ君には忘れてはいけない想い出がある。屋敷の中にちょっとした公園くらいの廣い庭と散水用の水道があり、その邊が子供たちの遊び場だった。夕方、ゴミ君は水道を出しておくと氷が出来る云って栓を開けたのを覚えている。何故水道を出しっぱなしにするのか解せなかった。翌朝目を覚ますと周りがたいへん騒がしい。庭全体が氷に覆われてしまったと大人たちが騒いでいる。庭一面が真っ白になっていた。ゴミ君には想定外のことだった。間借りの日本人にとって命の綱の菜園が氷の下になっていた。大事件であった。ゴミ君とその父親は中島君が前の日水道の栓を開いたままにしたからだ、と主張した。父から詰問されたが自分ではないと主張した。ゴミ君の名前は何故か出さなかった。父親の後ろに隠れていたが。窮地に陥った父は、それほど嘘をつくのなら土の中に埋めてしまう、と言って近くにあったシャベルで地面を掘り始めた。一晩水を含んですっかり凍土化していたので、父は振り上げた拳を下ろすことができなくなってしまった。見物人の一人が親切にもどこにあったのか鶴嘴を持ち出してきて父に渡した。腐った、荒んだ邦人の姿がそこにあった。とうとう子供一人入れるくらいの穴ができた。生き埋めにされる、と私は泣き叫んだ。穴の中に私を入れた頃、やっと大人たちは自分達の部屋に引き上げていった。父はないていた。ゴミ君の名前を一生忘れてはいけない理由である。

私たちはここにくるまでに、旅は道連れと言って近づいて来た輩からお金や着物をほとんど巻き上げられてしまっていた。命に関わる災難は、道中近づいて来た若い夫婦で職業柄現地語がかなりできたので案内や交渉の役割を担ってくれて頼りになる、と思った。二日ほどして急に別れることになりその時記念に持ち物を交換したらしい。父は自慢げに交換した頑丈そうなベルトを着けていた。ある集落の人でごった返しの驛に近づいたとき母は現地の婦人と全く同じ民族衣装チマチョゴリに、靴まで変装していたが、父は何故か男達に捕縛されてしまった。兵士などが大勢いたから私刑は免れたのだろう。命拾いした。しばらくして驛の改札口から何気なくプラットホームを見ていると数十人もの男たちが蹲踞していた。その中に父がいた。目と目が合った。銃を携えた兵士が集団を監視していた。北へ向かう氣車のホームだった。父がシベリアに連れて行かれる、と母は泣いた。ベルトと制服はセットになっていたのでどんな仕事についている者かを勘違いされたわけだ。地元の人たちの名誉のために附言しておく。追い立てるように私たちを官舎から出したのは國境の傍だったので母子がソ聯軍の侵攻の余波(強奪や暴行)に遭わないよう逃がすための配慮だったのだろうと思う。全くの文無しになってしまった私たちに一夜の宿や食べ物を、禁を犯して恵んでくれたのは土地の住民の方々であった。悪意を受けたのは全て邦人からであった。後年海外へ行くことがあり、行き先で東アジア人らしい人から日本語で話しかけられることがあったが、非日本人の振りをした。

驛の構内は邦人などで隙間もないくらい一杯だった。夕方、周囲が暗くなって父は捕らわれのグループから脱兎のごとく線路に飛び降りた。タンッと銃声が起こった。しばらくして誰かが背中を叩くので振り向いたら父が立っていた。三八銃(サンパツジュウ)は中らないからな、と後に言った。改札口を飛び越えて密集する群衆の中にダイブしたそうだ。春に帰國の望みをかけて日本人はソ聯軍の支配する港湾労働に従事し、闇市で食べ物になるものを必死に入手しようと哺乳類になった。寒さと飢えでその冬を越せなかった日本人が多くいたそうな。私の家族には吉岡夫妻に養子縁組された祖父の娘即ち母の一番下の年齢が廿以上離れた妹(私の叔母)孝子が加わっていた。大叔父弥三郎から小屋を借りる代わりに托されたのではないか。六年生の食べ盛りであった。二、三歳大きかったら違った運命が待っていたかも知れない。叔母と私は可愛い盛りの歳だったせいかソ聯兵によく声を掛けられた。将校たちの宿舎(大叔父の邸宅)の出入り口辺りで夕刻ストリートキッズをしていると氣づかれて屋内へ招き入れてくれた。暖かくて甘い香りのする天國だった。女性将校が幼児向きの「タカイ タカイ」をしてくれると頭が天井にあたった。周りから爆笑が起こった。後日、父は私を連れて将校たちに挨拶に伺った。その時、ひとり父よりはるかに大柄な女性将校が私を抱きしめて離さなかった。通譯が何か囁き、父の顔が引きつった。恐かった。故郷の家族を思い出したのだろうか...サウダーデ。さて、叔母と私は腹いっぱいになり、その上白パンと黒パンを土産にもらってお暇した。掘っ立て小屋に帰り着いたときには白パンは二人の腹の中だった。食べるのは酸っぱくて旨くない黒パンにしようと話し合ったのだが。子供の狡さが哀れだった。ヤミ市などの巷では内地は地獄で三十八度線を北に越えたら極楽だと云う噂もあった頃である。

宵闇迫る頃合い、父は私を連れて薄っすらと雪の積もった屋敷の中庭を匍匐前進でロスケの将校の部屋あたりまで近づくとバイヤンかバラライカの奏でる音色と共に喚声がさんざめく。ロシア音楽が私のfavariteになった原点であった。雪の上で二個か三個の大きなトレイにスープや肉を入れ、布を被せて冷やし中だった。肉切れを食べろと囁くのだが、飢えてはいたが、どうしても口にできなかった。いつ見つかるか分からないのに父は旨そうに口をもぐもぐさせていた。それほど飢えていたのだろう。一切れの肉を無理やり口の中に押し込まれて、生まれて初めての味なのに、その美味しいこと。嚥下するのが惜しかった。小屋では母と叔母が大豆を二粒か三粒齧っている。餓死寸前の次女の妹が泣く力もなく横たわって死を待っている。父は肉の塊をいくつか懐に入れた。敗戦國の親子泥棒だった。粉雪が静かに舞い降りていた。

 人の溢れる闇市を父の肩車に乗っているとき、幾つまで数えられるか訊かれたことがある。ひとつ、ふたつ、みっつ・・・とお、まで。いち、に、さん、までだった。字は読めないし、書けなかった。こればっかりは敗戦のせいではなかった。長男良輔をジフテリア(日本脳炎とも聞いた)で、長女を疫痢(食中毒か)で亡くした母の傷心を私は母の死まで解らなかった。かみもほとけもあるもんか、と呟く母の悲嘆を理解できたのはずっと後のことだった。

ヤミ市の雑沓の中、父は、二人だけで内地に歸ろうか、父が心の中で悪魔になったときだった。罵声飛ぶ騒がしい引揚者の殺伐とした人混みのなかで聞き間違えたのだ。栄養失調でガリガリの死にかけている次女、生まれたばかりの年子の三女、親戚の六年生、産後健康にすぐれない母と就學直前の私。父は我ら五人を抱えて帰郷した。焼け野原の中の福井驛に降り立った。

 

 氣車で移動できることもあった。發車時刻も行き先も不明、線路の向きが北でさえなければよかった。私たちの逃避行を始めた頃から満州からの引揚者と同道するようになった。これは人なのか。顔がないほど真っ黒に薄汚れていた。男か女か判らない。着物ではなくボロ切れをいくつか軀にくっつけていた。ここに辿り着くまでにどれ程の距離、匪賊などの跋扈する茨の道を國境を越えて逃げ落ちてきたことか。生き長らえただけでも幸甚だったろう。黙して語ろうとしないほどの悲しみを背負っていたのだろう。後年、中学生になり旧満州から引き揚げた級友T君を通して少し理解できるようになった。

氣車が動くらしいと噂が飛び一安心した。發車したが、しばらく行くと荒野の中で止ってしまい、一夜を過ごすようだ。薄暗闇の中で赤ちゃんの泣き声が大きく、数多く聞こえてくる。小用で列車を降りて草叢に近づくと泣き声は一段と高くなった。透かして見るとあっちにもこっちにも箱のようなものが置いてあった。その中には赤ちゃんが入っていて、けたたましく乳をほしがる泣き声を上げていた。どの箱も赤ちゃん、赤ちゃんだった。箱に入っていない赤ちゃんもいた。車内に戻って母に異変を告げた。打っ遣っておくようにと応えた。秋口でも北部朝鮮の凍てつく夜、寝る前に草叢へ行ってみるとところどころからかぼそい泣き声が聞こえていた。車内の座席は蚤か虱の巣窟だった。朝霧のなか痒くて起きてあたりを見渡すと森閑としていた。埋葬のために土饅頭へ行ったときの妹を想い出し、どうしても箱に近づけなかった。泣き声のほとんど聞こえない理由は直ぐ察した。()親たちは我が子を大地に預けたのだ。これが敗戦のひとつの實相だ。

 

地圖上の38度線は眞直ぐだが実際の所謂三十八度線は曲がりくねった川(漢江か?)で、私たちが渡河した地点は大人の胸あたりくらいの水位であった。なけなしの着物を差し出して頼んだ案内人から川縁まで誘導され、渡河させないように待ち構えている北の部隊が潜んでいるので隠れて夜更けまで待つように、と指示された。逃亡の知恵を學習してきた父は、自らそっと川に入り水深や流れの勢いが女性や子供に耐えられるか調べた。月のない日を選んでいたのであたりは暗闇だが、時々機銃のカタカタカタツと乾いた銃声が遠くから、また近くから聞こえた。何人くらい射殺されたのか。私たちは待って、待った。夜遅く月が山の端を照らし始める頃、私たちは逃避行最後のステージを迎えた。死んだらあの世で逢おうね、と囁きあいながら。叔母は父の重たい兵隊靴(軍靴)を首にかけ、母は生まれたばかりの赤ちゃんを胸に、荷物を殆ど捨て軀だけで渡ろうと決めた父は次女を背中に、私を肩車にして水に入っていった。半島の春は冬の厳しさを猶残していた。月がまだ山の端に懸っている闇のなか、音をたてず手をつなぎ速やかに渡河すると、待ち構えていた聯合國軍の関係者や現地の住民の方々から手厚いもてなしを受けた。毛布を掛けて貰い暖かい食べ物を口にした。まるで夢のようだった。そのとき貰った大きな軍用毛布は中学三年まで愛用した。命のお守りだった。それが理科室の戸袋からいつの間にか消えていた。

 

お座敷のように思えた客車でプサン(釜山)に旅行者気分で到着すると女性たち全員が倉庫のような建物の中に連行され検査や消毒を受け、全身真っ白になって私たちのもとに戻ってきたが誰ひとり笑うものは、子供のなかにもいなかった。引き揚げ船は貨物船だった。夕方乗船して子供たちは甲板からプサン港の景色をじっと見つめていた。出帆の氣笛が鳴動すると、その音を消すかのように子供たちのあいだから罵声とも悲鳴ともつかない叫びがおこった。「Xxxx(地名)----、バカヤロ−ッ! 」東北地方(満州)や北朝鮮での消したいが消すことの出来ない思い出を背負っていた。船底に横たわって寝かされたが、大人たちはまんじりともしなかった。内地が見えたぞ−ッの声に促されて、甲板に駆け上がると丸い饅頭のよう青みがかった色合いの小さな島々が光の柔らかい朝靄の中に浮かんでいた。ナイチ(内地)って箱庭みたいだなと思った。陸地が見えてくると幾人かの女性が海中に没していったそうだ、逃亡中に兵士や匪賊から害を被った人達で、特殊婦人と言われたことを後に書物で知った。内地/故郷には帰れないと決めたのか。われわれの敗戰の残酷さのひとつだ。

引揚げ船が着いたのは山口県の仙崎だったと、母は云う。父は別の地名を挙げたようだが。乗った氣車で父とはぐれてしまったことに氣づき、父は乗車しなかったのではないか、と身動きできない車中で母子で泣き叫んだ。逃避行のなかでこのような絶望感は感じなかった。帰國できた安心感のせいか。同胞ばかりの超満員の列車の中で、今でも不思議におもう同胞の優しさ。伝達ゲームのように伝言が次々と各車両に回され、乗客のお陰で再々再会(?)することができた。

 志津村清水畑の実家へ打電しておいたので福井驛に祖母たちが、福井の着く日時が判らないので、毎日のように四里(14.8キロ)の道を徒歩で往復し、迎えに来てくれていたそうだ。掘っ立て小屋が疎らに見える、あたり一面焼け野原の福井の驛前で、おばば(共通語でおばあちゃんのこと)が用意してくれた竹の皮の包みからおにぎりを手渡してくれた時、ねまっている私たちの周りにいつの間にか近づいて来た人の群れの刺すような目つきは異様を超えていて怖かった。逃避行中の怖さとは違っていた。空が茜色の夕方のことだった。慌てて間をおかずに大八車に乗せられて親戚の在所、本折(もとり)を目指した。

父の故里清水畑の田園では農家の人たちが毎日何事もなかったかのように野良仕事に勤しんでいる風景が、私には解せなかった。十年一昔の同じ風景の中で、父は自分の意志で外地へ飛び立ったことをどう省みたことか。

昭和21年は薫風吹く五月に入っていた。家々では皐月の空を鯉が泳いでいた。一年前は私の鯉幟しか泳いでいなかったのだが。一時的に父の実家に寄留したが、母は農作業などと関係ない商家の娘だったので、ぬるぬるした田圃に恐ろしくて入れなかった。皆に笑われていた。五月下旬頃、私は大森小学校平尾分教場の児童になった。父は村人に誘われて高収入の闇米運搬の仕事に関わり、超満員の列車のデッキにぶらさがり九州くんだりまで出かけることもあり、時折の臨検(警察による闇米臨時検査・摘発のこと、見つかったら逮捕・没収)の際にはデッキや窓から米袋を投げ捨て空しく帰ることもあった。父は直ぐ、高収入でも違法な生業に踏ん切りをつけ復職活動を始めた。福井県庁は勿論、二度ほど上京しスリに遭ったりしながらも、外務省や文部省(文科省)に出向き、どうにか復職が認められ丹生郡鮎川の国見小学校に赴任することとなった。私たちは山の中の三本木分教場に移り住み一冬を過ごした。馬が生活の重要な役割を果たしていた地方である。母は助教師になった。

カムサハムニダー(ありがとうございました)     

14 Oct 2013

(18Nov2013 CMO #416 掲載分の加筆・訂正) <18 June 2015 > 

(30Aug2019加筆・訂正 最終決定稿)


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