0° 私が火星觀測の緒に就いたとき、大阪の佐伯恆夫先生からは色んなアドヴァイスを頂戴したが、その中に觀測は「太く短く、でなく、細く長く」というのがあった。然し、後に、「細い」觀測というのは意味がないのではないかと考えるようになった。細い觀測ではこれぞという機會に滅多に遇えないし、ここぞと言うときには短くても太く觀測しなければならないと思うからである。そういう備えがあるかどうかが問題で、短い觀測にも、細い觀測にはそういう覺悟が感じられない。
然し乍ら、火星の自轉が地球のそれと大差ないことから、いかな觀測にも難しいことがあるし、天候の問題は切り離せない。そういう意味で、萬端整えても、一體全體、われわれの成功率はどれぐらいあるかというのは氣懸かりなところである。
1° ハッキリした記憶がないのであるが、多分數十年年前に讀んだか聞いたかの話である。これはバブル前期のころで、まだ古い體質の企業が成功を収めていた頃、詰まりコミュニティ體質が一時代前の時であって、ソーシアル・メディアも介在しない頃の話である。母體は今でも盛んな或る大企業であるが、随分様變わりをしていると思う。CEOなどと言う言葉も聞かれず、社長の力量というものが大きくクローズアップされていた時代である。
いま話題にする母體たる會社は毎年新入社員を多數受け入れることは今も變わりないと思うが、時期によって數量が變動することはあろうし、構造も變化しているかも知れない。
扨て、ここで採り上げるのはそういう大組織の新入社員に關する「社長」さんの印象的な話で、新入社員の内、将來その會社を發展させ擴大させる人間、つまり将來その會社を担う才能を發揮する者は全體の5%程度であるという經験則を述べたものである。早く言えば、全體のあと95%の社員はその5%の社員によって養われるという冷たい論理である。その企業の長い歴史を見ると、その企業の爲にアイデアを出し、幾つもの企畵を起てて、事業に貢獻する人物は5/100ぐらいで推移しているという上から目線の論理であろう。企業には多くの部門があり、設計・企畵に携わる者、それを部品毎に製品化する者、實際に販賣する者の集團も必要であり、それぞれの母集團の5%が有効という確率論が成り立つというわけである。
或る部門で いま5%しか有用でないのならば、最初の段階で好く選抜して1000人の応募者ならば、優秀な50人を見付けて選び抜いておけばいい譯である。各部門で5%の優秀な人材を確保してしまえば、會社としてはより効率的である。しかし、先の經験則の述べるところは、いまその50人を新入社員として受け入れるならば、實はその5%、詰まり2.5人しか役に立たないであろうと言うことである。實際入社試檢で、そうした振り分けが出來ないことも經験則として知られていて、實際、如何なる社員も、日々變化して行くであろうし、入社後に、水を得たように急激に才能を發揮し始める場合もあり、逆に新進と思えた人物が凡人に過ぎないことを露呈する者も居るだろう。つまり、100人の内の5人を最初から決定することは不可能であり、切磋琢磨も含めて、「玉」たる人物の5人が存在を露わにするのは時間軸を走らせてみないと判らないのである。つまり、最終的に除外する95人は5人を見抜く爲には必要な捨て石なのである。
勿論、95人に入っていても、それを好しとし、個人で会社人間以外の存在として自分の人生を組み立てる社員も出てこようし、流動化の時代にあって、別の道を辿ることも可能であるから、 そういう可能性も考えると幾らも例外はあろうが、この5%經験則は、そういう例外を殆ど考えなくてもよい時代の話であると承知して貰えばよい。
1° 私は以來、5%有効論は多くの場合に當て塡ると考えるようになった。例えば、一個人を採り上げても彼の営みや事業は多分5%ぐらいしか成功しないであろうというわけである。個人の働きの中でもたくさんのアイデアが浮かび、どれも當初は有望と考えられるかも知れないが、多分その5%ぐらいしか成功していないだろうというわけである。
人は一度或る方法で成功すると、同じ方法を採用したがるものであるらしいが、實際には二度目は失敗する確率が相當高いのが常である。
對して、織田信長は、桶狹間の方法は二度と使わなかったらしい。いかな戰法も所詮博打であって、一度の成功は次の戰さの勝利の確率を落とすということを身を以て知っていたからであろう。合戰も50囘もすれば、2.5囘ぐらいが、完勝の確率であって、あとはすっきりしないと見てよいであろう。
私は現役の時、或る問題に取り掛かるとき、澤山のアイデアを出すが、殆どは駄目であった。うまく行く確率は5%ぐらいと見て好いのではないかと思っている。實際にレフェリーを通過している英文の論文は50餘編しか書けなかった(少ない!
何せ火星もやっていましたからね)が、その内2.5編どころか、非常にスムーズに苦もなく然し充分高みを極めて完成した論文は思いつくところ、ただ一編しかない。これは誰も眞似の出來ないだろうという分析で、而もゼータ凾數の應用編としては好く出來たと思っている一編である。この論文はProgress of Theoretical
Physicsという雜誌に出ていて,
1978年の59巻 1709頁に見つかる。タイトルは
Functional Evaluation of the Dual Partition Functions ---How Do We “Hear the Shape of a Drum” in Dual Models----で、これは次のサイトで讀めることを最近知った:。
http://ptp.oxfordjournals.org/content/59/5/1709.full.pdf+html
途中、一ヶ所、困難な問題にぶつかったのだが、たまたま圖書室の書架で、スティーヴン・ホーキング(Stephen
William HAWKING, 1942~)の新しい論文を立ち讀みして思わず膝を打ち、脱帽し、これで解決した。1986年の臺灣での火星觀測の時、東大の江口徹さん(1948~、2009年恩賜賞)がたまたま圓山天文臺のドームにお見えになったが、その時、彼は私のその論文のことに觸れたので私は照れてしまった思い出がある。
尚、無理に5%に近附けるなら、
Prog.
Theor. Phys. 52 (1974) 1031
http://ptp.oxfordjournals.org/content/52/3/1031.full.pdf+html
或いは Prog. Theor. Phys. 50 (1973) 2027
http://ptp.oxfordjournals.org/content/50/6/2027.full.pdf+html
が候補なのだが、40年も前のことで、記憶も朧氣である。
こんな處で湯川秀樹博士(1907~1981)の業績に觸れるのは烏滸がましいが、博士が鬼籍にお入りになる少し前に、古いお弟子筋が"Hideki Yukawa, Scientific
Works"という表題の全湯川論文のたいへん立派な翻刻版が岩波書店から出されて、門下生に配られた(編集者は谷川康孝氏(1916~1987)。この論文集は1979年發行)。それによると、レフェリーを經ている生涯論文數は53編となっている。從って、この場合5%有効論を採ると、3編弱である。然し、超有名なのは第一論文"On the Interaction of Elementary
Particles. I"で、1935年に發表されたが、これだけであろう。これが中間子論の先魁で、初期にはµ中間子が候補で、然し、質量が合わなかったが、兎に角、中間子の明快な預言であった。その後、二中間子に關する湯川博士の重要な論文があるかも知れないが、私は調べていない。
尚、湯川粒子に相當するπ中間子がパウエル(Cecil
Frank POWELL (1903~1969))によって發見されたのは1947年で、1949年にはこれによって湯川博士にノーベル賞が授与された。然し、日本では既にこの第一論文は有名になっており、1940年には恩賜賞、1943年には文化勲章を受章している(弱冠36歳)。昨今のノーベル賞が出てから慌てて文化勲章が出るという小粒なものとは違う迫力があったのである。とは言え、當時のノーベル賞選考委員會に提出されていた推薦状は大半が外國の推薦者からのものらしく、内外共に傑出したものと認められていたということであろう。
湯川博士の論文の中で私がその次に一番面白く綺麗だと思ったのは、1950年の"Quantum
Theory of Non-Local Fields, Part I. Free Fields"で、魅力的であるが、これは成功しなかったから、歩合の範疇には入らない。このIを讀んだ皮肉屋のパウリ(Wolfgang
Ernst PAULI (1900 ~1958)は、YUKAWAに向かって、直接、君のこの論文の第二部は出ないだろう、と言ったとか。湯川博士は、負けるものかというわけで、無理してでも第二部(つまりII)を書いて出したが、どうも出來が悪かったとご本人が何處かに書いたか喋っていたと思う。
湯川博士は戰後、「非局所場」の理論に終始取り組んだ。然し、第一打席でホームランをかっ飛ばして以來、後の打席は全部三振であったというのが、外野席の話であって、非局所場の理論はどれも成功していない。もしそうなら、現在の處5%にも及ばないし、累々と捨て石になるものが多いということだが、量子理論の瑕疵とされる無限大を眞っ向から避けたいというのは當然なので、彼の非局所場理論とか素領域というのは、まだ可能性があるかも知れず、そういう時代が來れば、歩留まりは大きく變わる。
然し、大物の場合、とやかく概觀するのは難しいことで、長生きしたルイ・ドゥ・ブロイ
(Louis Victor de BROGLIE, prince, puis duc de Broglie (1892~1987))などあの鮮烈なドゥ・ブロイ波に關する短い論文(私は湯川教授の授業で聴いて、綺麗だなぁと思った)がこの一編が總てであったように思うし、數學の岡潔氏の論文も10編前後であり、上の歩合定理にそぐわない。岡氏の全編フランス語で書かれた論文集は矢張り岩波から出ていて、私も一部持っていたが(湯川氏の程も厚くないが、翻刻版ではなく、新しく活字を組んだのでは、と思う)、今は多分納屋にあり、調べられない。全部で10編前後であった思うが、彼の幾つもの凄い業績との對應が私には出來ないと思う。だから歩留まり率は判らない。私の論文の二三には多變數凾數の正則包を使ったものがあり、この多變數獨特の正則凸包性の定理の最初の證明は岡潔氏であったと記憶している。Internetには彼の論文は全部PDFになって出ているようである。
尚、岡さんには何か自然界の音で直感的に難問を解決する等々の噂話があるが、岡潔のお弟子さんの洩らした話(の又聞き)によれば、岡さんは難問にぶつかると、その解決法の方向を思いつくままに列擧し、それらを虱潰しにひとつ一つ試してゆく方法を採られたと聞く。
3° 扨て、通常の火星觀測に關しても、私は5%有効論者である。好い觀測を得るには、どれぐらい時間を潰せばよいか。さてこれから觀測というとき好いシーイングに出會え、思うような觀測が出來る確率は5%程度であろうと私は覺悟を決めている。更に、火星面上に動的な事象が觀察され得るかとなると更に厳しくなる。その場合、地上に居る限り觀測器機の優劣など殆ど問題がないと思っているが、優劣も確率の内かも知れない。 然し、器機の優劣などの問題は靜的で時間の止まっている状態で出てくるものであって、重要な觀測機會に巡りあえることとは先ず無關係であろうと思う。
昔、宇宙物理の大學院生から聞いた話であるが、當時幾らか名の知れた(私も名前は聞いたことがあったから)
天體愛好家が、火星を覗きながら、シーイングの好くなる瞬間を5分でも10分でも待ってシャッターを押すということであった。私は直ぐにご苦勞なコッタと思ったが、その話をしてくれた學生は、これはひどく奥義に属する話で、火星写真とは斯くも眞面目にやって初めて撮れるものと思っているフシがあった。實際にはこの我慢強い用意周到な愛好家の火星像や報告を何處でも(少なくとも私は)見たことがないから、多分そのクソ眞面目なシャッター押しで火星がうまく撮れたことは無かったのだろうし、撮れたところで一枚の写真がナンボの價値があろうか、と私は内心思う譯である。當時既にコンポジット法の優秀性は知られていたであろうし、多分5分以内に多數のpreferableな像を得て、合成した方が好かったはずである。
昔、臺北市立圓山天文臺の張麗霞小姐は、口徑25cm屈折に淺田氏の擴大装置を附け、ニコンのボディにデータバックを取り附け連續撮影を行っていた。聯射で數分以内に36個撮っていたが、この不眞面目方式の方が寧ろ理に適っていたであろう。その方法で撮った張麗霞さんのコンポジット写真の一例は『天文ガイド』1987年二月號p78に比較の阿久津富夫氏の写真と一緒に載っている。15Aug1986
ω=016°W(14:01GMT), 16Aug1986 ω=022°W(15:02GMT)に撮られている。これはCMO
#289 (25 March 2004)の2003 CMO-Note #02に再引用されているので、次をご覧頂きたい。
http://www.kwasan.kyoto-u.ac.jp/~cmo/cmomn3/289Note02j_03/index.htm
殘念ながら彼女はωを兩日で揃えていない。40分毎の觀測法は流布していた筈だが、空の状態の所爲で狂ったか、一時間毎になっている。初心の部に入っていたから仕方がないし、未だ比較は可能で、このNoteに書いてある通りである。(このNoteには11Augと15Augの筆者のスケッチが載せてあるが、ωは両者ともω=033°Wである。)
一觀測がこのように意味を保つ爲には自己の觀測、もしくは他の觀測と比較に耐えるものでなければならない。こうした意味のある觀測はその時期の觀測の内、矢張り5%程度であろうと思う。ワンショットの火星像などは殆どわれわれの視點からは意味をなさない。
私は最終的に、どのような觀測者であろうと、シーズン毎の好い成果は矢張り5%ぐらいに収まると思うし、生涯に亙る優良觀測も5%内外であろうと思っている。
もし、一シーズンに500個の像を作れば、多分意味のある像は25個ほどであろう。大事なのは25の意味ある成果を得るには500の觀測をしなければならず、じっと我慢してやって25だけを生で選び出すことは通常は不可能であるということである。どうであろうと、下手な鉄砲も數打てば中るの喩え通り、數多く觀測しストックすることが肝要ということである。40分毎觀測というのは、もともとは比較の爲で、比較は成果を上げる最善の方法なのだが、同時に觀測數が多くなるという効果もある譯である。
私は、望遠鏡を大きいものにするとかの巨艦主義は俄には採らない。體力の關係もあって、無闇に採らない方が好いと思っている。私自身は慣れもあるが口徑20cmや15cmが合っていると思っている。五藤の25cmの屈折を1986年と1988年に臺北で相當長く連續して使わせていただき、兩年で、千枚以上のスケッチを得ることが出來たと思うが、體力は相當に費やした。浪費の部分もあり、これが精一杯であった。25cm F15ともなるとキャップの取り外しや、反轉からして大變である。同じ型の五藤の25cm望遠鏡は、京都の「青少年科学センター」にもあり、1969年の接近のとき、長蛇の列に並んで一度だけ覗いたが、しょうもない像であった。それに名神高速が前を走っているから、振動が可成りのものであった。解説圖には南極雲を南極冠と書いてあったり、私は既に30歳であって、幾らか火星觀測には參加していた譯だが、お助けのお呼びはなかった。この望遠鏡は未だ健在かと思ってWebを見たら、未だ使用されている様である。可笑しかったのは、アドレスが伏見区深草池ノ内町となっていて、これは懐かしい。實は私は當時同じ町内のボロ官舎に住んでいて同じ町名を郵便などに使っていたからである。ここから京阪電鐵の藤ノ森駅まで歩き、電車で三條京阪まで行き、河原町に出てバスで北白川に通っていた譯である。では私が火星を何處で何で觀測していたかというと、福井へ歸って足羽山で、15cm F15五藤の屈折を使わせて貰っていた、というのが實情である。勿論四六時中福井に歸れるわけでなく、精々一週間程度の滞在の繰り返すだけであったから、未だ方法の定まらない状態であったが、その代わり、觀測出來るときの觀測は連續態勢で徹底していたと思うし、この望遠鏡では鍛えられたと思っている。京大の宇宙物理の屋上に五藤の同じ型の15cm屈折もあり、これも好く使わせて貰った。但し夕方だけで、歸りは最終バスを狙っていたように思う(當時は京阪は三條迄であった)。
足羽山の望遠鏡は1985年に20cm
F12五藤に換えられて現在に至っている。いまやこの20cm鏡も表面は相當汚れている。臺北の25cm鏡も汚れというのを通り越して、黴が生えた様になっていた。それでも好く見えていたというのがミソである。
私が使ったその次に大きい望遠鏡は2005年のリックの90cm屈折であるが、これは先ず筒が大き過ぎた。單力では駄目で係員が操作する。對物鏡は1980年代かに磨き直されて綺麗だったが、50cmに絞っていた。從って好い像を結んでいた筈と思うが、滞在中これぞという像には出會っていない。あの圖體では反轉が大變で連續觀測は儘ならない。それにリックでは濕度に五月蠅くて、シーイングの良さそうな晴天でも觀測出來ないときがあり、不如意であった。
2003年の接近時は沖縄で、湧川氏作成の25cm反射と、宮﨑氏の40cm反射を自由に使わせて頂いたが、25cmは"お岩さん"と渾名されるように鏡の表面は滑らかでないのかも知れないが、私には充分好く見えたし、最接近時は宮崎天文臺で夜通し觀測することもあったが、特別なこと、例えば衛星のチェックなどは40cmが有利だが、私は微細觀測には執着しないから、通常觀測には望遠鏡の差が出たような記憶はない。
私はこうして望遠鏡によって觀測結果が左右されるという經験は無いと言える。つまり、聯續觀測による經年觀測のレヴェルでは、ハードウェアたる望遠鏡で歩留まりが變わるとは經驗上思えないのである。
寧ろ、動的な要素として、空の状態の方が先に來る重要事項であろう。