巻頭論攷

ある古典的火星観測者の夜想―第二部

ウィリアムシーハン

近内令一譯

CMO/ISMO #406 (25 January 2013)


English



  故Gerard de VAUCOULEURSはオースティンのテキサス大学の優れた小宇宙天文学者として今日好く記憶されているが、現役時代には卓越した火星観測者でもあった。彼は1965年に“信号と雑音:遅々として進展しない火星研究”1) と題した、独断的ともいえる非常に興味深い論文を書いた。すなわちマリナー4号の前夜に、de Vaucouleursは、20世紀への変わり目以来の火星の研究の歴史についての長い、しばしば辛辣な見直しを敢行し、記したところでは『年ごとの発刊論文数の“増加率”はわずか6%ほどで、近日点接近期に少々の高まりを示す程度だった (1909年、1924年、及び1956年;1939年には第二次世界大戦の勃発により、“大接近効果”は鈍った)。』 加えて述べるには、スプートニク時代以降のいわゆる“宇宙レース”の刺激を受けた論文はみな性急軽薄であり、すなわち『(通常鳴り物入りで提示されるべき) 結果や考察はどれも (こそこそと) 後で引っ込めなければならないような代物ばかりだった。』 彼はさらに追い打ちを掛ける (181)

 

これは言うまでもないことだが、スプートニク以前の時代には火星の研究は信頼度が高く、しっかりと考察されていた;現状はこれと程遠い。S/N比の低い状態がずっと続いている。しかも混迷はさらにひどくこじれ、ノイズの入力ペースは格段に倍増し、近年の火星についての知識の冷静かつ沈着な評価は極めて難しくなっている。雑音の増加は信号の入力より早い! 私の見積もりでは、この過去10年間の論文発行数 (1956年の近日点期接近以来) は、それ以前の半世紀の総計の倍以上であるにもかかわらず、火星についての信頼すべき我々の知識は比例して増えてはいない。

 

  de Vaucouleursが引用した論争の一つに、火星の二つの衛星の想定上の公転周期の永年加速からロシアの天文学者SHKLOVSKII (1916-1985) がこれらの衛星が中空ではないかと考え、それに従って人工衛星の可能性を推測した例がある。他の一例を挙げれば;火星面の低解像度の赤外線スペクトルの吸収線をW. M. SINTONが誤認して葉緑素の存在の証拠と解釈した事例があり(1956)、これは後にテルル起源で重水の分子HDOによって形成される吸収線であることが実証された。さらにもう一つ;de Vaucouleursが火星表面を形成する物質の性状についての早まったアイデアとみなした例に、火星面の偏光特性の観測結果が微粒子の褐鉄鉱に合致するという研究者たちの見解がある。最終例の同定についての彼の反論は引用に値する (188)

 

褐鉄鉱は地球で見られる堆積岩である;もし火星が大量の水を過去に一度も持たなかったとすれば、いかにして火星表面の3/4もの広さを砂質堆積物で被うことができようか? 実際のところ、赤外域での反射率特性に基づいた別の分析同定案では火成岩の珪長石が候補に上がり、最近の分光測光観測でも褐鉄鉱よりも珪長石の方が好くマッチすると報告されている。

 

  彼はDean MCLAUGHLINの火星の模様の起源の仮説(1954) ―暗色アルベドー模様のいくつかは、模様の外形の先細りの先端に位置する活火山から吹き流されて沈積した火山灰から構成されているという― のファンではなかったし、また、火山活動仮説の証拠とされてきた“噂の明るい閃光の観測”にも取り立てて感銘を受ける様子もなかった。(最も好く知られた火星面の閃光の観測は日本の観測者たちによって得られたものである。たとえば、193764日に前田静雄 (1914-1952……) は8吋反射望遠鏡を用いて、シトニウス・ラクスに強烈な光点が出現するのを認めた;この光点は恒星のように瞬き、5分後に消失した;同様な現象が1951128日に佐伯恒夫 (1916-1996) によってティトニウス・ラクスに観測されている;また195471日には佐伯によってエドム岬に突然の発光が観測された、等々。)このフランス人の高名な天文学者は、明らかに佐伯の1951年の観測を引き合いに辛辣なことを述べている (187)

 

  評判の明るい閃光の観測のいくつかは、火山活動の証拠として引用されることもあるようだが (水素爆弾の爆発や、火星人の光学的信号でないことは言うまでもない!) 、おそらく錯覚もしくはでっち上げだろう。そのような“閃光観測”の一つを私はよく調べてみて、その観測がなされたという時刻には、その報告に描写されている火星面の地域は地球を向いていなかったことを見い出した。また、添付の火星スケッチに示されたディテールの豊富さは使用された望遠鏡の光学的能力を完全に超えている (実際のところ、この時火星の視直径はわずか5秒角に過ぎなかったので、いかなる望遠鏡でもこのような詳細を捉えるのは無理だったであろう)。この観測者へ手紙で問い合わせても明らかな説明は全く引き出せなかった。

 

  アマチュアによる火星面の閃光や光輝の観測に対して湧き上がる激怒に身を任せた彼は、さらに矛先を“パーシヴァル・ローヱルの本からそのまま抜け出してきたような細線運河で被い尽くされた火星面を示すアマチュアのスケッチの洪水”に向け、続けて咆哮するに“多くの航空宇宙産業の図版広告が (最近では空軍の航路図さえも) この最悪の光学的幻想である運河入りの火星のイラストを採用し続ける現状は嘆かわしい”と。

 

  もちろん、これらのコメントが発せられたのはこの赤い惑星の宇宙船による偵察が始まる前夜の時期であり、やっと信号対雑音比が顕著に改善され始めたところであった (そして他ならぬマリナー4号の画像はクレーターのあばたで被い尽くされた運河の欠けらもない火星面を示し、ついにパーシヴァル・ローヱルによって触発された火星の知的運河建設者の夢はここを限りと砕け散った)。さらにいっそう衝撃的だったのはマリナー9 (1971) による新発見の数々で、初めて得られた軌道上からの火星全面の高解像度の映像は真に驚くべき、当時予想もできなかった壮大な地形を現出した:オリュムプス山とタルシスの三つの巨大な楯状火山、マリネリス峡谷、涸渇した河床、等々。(急いで付け加えたいのは、火星がちょうど地質学的に死んだクレーターだらけの月のような状態であるという厳しい印象をマリナー4号どころかマリナー6号及び7号のフライバイの際にも受けたが、これがマリナー以前の火星の解釈よりも見当はずれであったことがマリナー9号のデータで明らかになったことである;これにより、信号対雑音比が低くても大きなサンプルサイズを有する観察よりも、信号対雑音比が良好でもサンプルサイズが十分でない観察の方が誤った解釈を導きやすいこともある、という皮肉な事実が判明した。古典的な眼視観測者は少なくとも、一目で火星世界全体を見渡せるという有利さを持っていた ―まあ少なくとも観測時にたまたまこちらを向いている半球は総て把握できる― 火星へのフライバイ (接近通過) 方式だったマリナー初期シリーズの細い短冊状の火星画像とは対照的に。)

 

  マリナー9号から四十年以上が経過し、我々はde Vaucouleursのエッセイを少々の可笑しみをもって振り返れるようになった。筆者の見るところ、彼が激しく非難した古典的天文学者たちの仕事は結局のところ、それほどひどい代物ではなかった。火星の空洞人工衛星仮説は言うまでもなく路傍に朽ち果てたが、Sintonの観測は悪気のない過ちだった ―どうあっても、彼は火星のスペクトルを得た数時間後の可及的に早い日中に比較の太陽スペクトルを撮るべきであったのだが、判明したところでは、彼が太陽スペクトルを撮った日には、火星のスペクトルが取られた夜よりもはるかに空気が乾燥していた (大気の状態が等しい条件でスペクトルの比較をしなければならないという問題は、遠くWilliam HUGGINSJules JANSSENが火星の大気中の水蒸気の検出を試みた時代に遡って分析の妨げとなっていた)。しかしながら、Dean McLaughlinの見解 ―すなわち火星の海と呼ばれる暗色模様の挿入記号形()の尖端や、全般的に湾曲条状を示す傾向のある火星表面模様の成因を風に吹き流された火山灰に帰する― は先見の明があったことが明らかになったし、また実際に火星上には火山 (活火山ではないが) de Vaucouleursには予想も付かなかった巨大なスケールで存在していたわけである。火星の表面の物質の性状についての古典的観測者たちの予測もまた正解であったことが判明した。火星は酸化鉄のダストの“大洋”にくるまれ、そしてかつてLowellのような観測者たちの想像力を触発した褐鉄鉱、すなわちアメリカの南西部の砂漠にも豊富な赤錆褐色の物質は、この惑星に赤みがかった色調を与えている;反射能の低い地域には斜長石も見つかっており、一方赤鉄鉱やカンラン石に富む地域もある。したがって、古典的天文学者たちの見解は大いに当を得ていたことになる。これらの物質の中には地球上での堆積作用に関連しているものもある。我々が現在知るところではもちろん、火星は火山だけでなく、大量の水を過去に有していた。実際のところ、古典的な火星の想像図 ―運河を差し引いて― すなわちはるかに濃い大気、水が刻んだ表面の地形、そして噴煙を上げる活火山― はまさしく現実の火星と一致する― ただし現在の火星ではない;創成以来の初めの十億年余りの火星の姿に。

 

  Lowellや他の観測者たちは過ぎし日のかの惑星の幻影を見て、それに憑り付かれたのだ。しかし幻影の中に彼らは現実の世界の素性を識別した。彼らが十分明確に理解していたところでは、火星が進化の過程を経てきた惑星であり、独自の様式の“気候変化”を経験し、その普遍的傾向とし ―砂漠化へと突き進む―   Lowellのかような記述は概して間違っていない。今でこそ火星は砂漠の世界で、地球上のどこの砂漠よりも過酷な環境だが、かつては豊富な水が溢れていた。現在においてさえ火星は、マリナー4号のフライバイ直後に描写されたような変化のない死の世界からは程遠い;雲が消長し、地肌をダストデヴィルが吹き払い、ダストストームは規模において広域性、時として全球規模に猛威を振るうことさえある。1971年以前の我々のダストストームの歴代の記録の全容は貴重なものであるが、その総てが古典的な観測記録に基づいている―そしてたまたま、共同研究者たちと筆者が2009年にパリ天文台でE. L. Trouvelot (1827-1895) の観測ノートを探している時に大変な記録を発見した2) これまで明らかにされていなかったメジャーイヴェントが見つかり、我々のデータベースには未だたくさんの欠落があるに違いないことが判った。このケースでは1877年、その年の名高い衝のはるか前に、惑星全周、ことによると全球規模のダストストームが起きた。Trouvelotまさしく彼一人だけがこれを目撃した (この接近期に彼は、FLAMMARIONGREEN、そしてSCHIAPARELLIを含む他の観測者たちが動き始めるずっと前に観測を開始していた;歴代の記録の中で、火星のダストシーズン中でのこのストームの開始の早さは、早期発生で有名な2001年のダストストームに匹敵する)。明らかに、このようなダストストーム現象の昔の記録は我々が期待できるよりもずっと途切れ途切れであり、その理由はおそらく ―異常なまでに生真面目な観測者であったTrouvelotとは異なり― ほとんどの天文学者たちは衝から遠く離れた時期の火星を調べることに重要性を見い出さなかったからであろう。

 

  かつて、等しい条件下に二つの天体のスペクトルを撮って ―たとえば月と火星とか― 双方の大気中の水蒸気の量の相対的な比率を求める研究法が実施されていた (Sintonの悲劇的な例が物語るようなどぎつい落とし穴もあるが) のと同様に、Trouvelot1877年の観測に始まる古典的な火星の気象学的な記録と、1880年頃までかなり正確な記録を遡れる地球の気温のデータとを比較することによって、この二つの惑星の気象の変化の実態の解明に迫ることができよう。近年非常に明らかになったことは、火星の気候変化を起こす要因が何であっても (太陽の日射量の変化の影響が最も大きいが、アルベドー模様の分布の変化も若干の効果を及ぼす)、それが地球上で起こす効果は別物であって、地球の気候に与える人為起源の影響についての研究成果の信頼すべき“信号”は1990年代の終わりから2000年代初頭にかけて以来、紛う方なく“雑音”のレベルを超えて確実になってきている。

 

  結局のところ、de Vaucouleursは火星面の閃光現象について過度に否定的だった。CMOの読者には好く知られているように、エドムの発光現象の過去の記録は、地球直下点と太陽直下点がほとんど一致した時期あたりにこれが発生していることを示しており、これを受けてThomas DOBBINSと筆者は、同様の現象が2001年の6月に再び起こるだろうという予測を発表することになった。この予報に触発されて、観測者の一団がフロリダキーズ列島に乗り込み、佐伯恒夫が1954年に記述したのと非常に好く似た現象 (1958年にも他の観測者が同様例を観測している) の記録に成功した (眼視及びヴィデオ撮像によって)。当然のことながら、我々はエドム地域の表面地形に何か特異なところがないか調べることになった―閃光現象が頻繁に観測された別の地域であるティトニウス・ラクスにも注目が集まった。調査仲間や筆者がかなり失望したことに、宇宙船からのエドム地域の高解像度画像は2001年の閃光現象に関連するような地形の特殊性を何ら示さなかった;しかしもっと最近になって我々が発見したところでは、火星面の物質分布地図の作成に使用されているマーズオデュッセイ宇宙船のThermal Emission Imaging System (熱放射画像記録システム:THEMIS) が、エドム閃光地域が二種類の物質―斜長石と高カルシウム輝石―に富むことを確認した。これらの鉱物はマグマから結晶化した珪酸塩である長石類である。ティトニウス・ラクス地域ではこれらの鉱物がエドムに比べてさらに豊富であることも判明した3)。最近我々が最もありそうだと考えているのは、2001年の観測の時に、現在サンディエゴ州立大学の名誉教授であるAndrew YOUNGが初めて提唱した見解が恐らく正しいだろうということである;“もし数度以上傾斜した表面の想定が必要ならば”と彼は書いてきて“鉱物の整列した結晶粒子を検討した方が得策だよ。地球上では、長石類のような鉱物が火成岩の中で高度に整列することは珍しくなく、断層活動によってしばしばかなり大きな面積の、ほとんど鏡面反射に近い断面を露頭させることがある”と続けた。読者はこれを自分で確かめることができる:ただ長石の塊を拾い上げて、太陽光に対してある一定の角度で保持すると、結晶の小面が総て方向をそろえて、まるで鏡のように輝くのが見えるだろう。

 

  可笑しなことだが、de Vaucouleursが“錯覚もしくはでっちあげ”と考えた閃光現象は正真正銘の本物であり、驚いたことに雲や氷、その他通常鏡面的反射に関連すると思われる現象でなくて、火星上の上記二地域の表面物質の鉱物学的特性に関わっていたわけである。

 

***

 

  以上のように火星の古典的な観測者たちの活躍は悪くない話である。とは言え、近年の火星周回宇宙船や火星面上の探査機の大軍団によって、火星の気象学的及び地質学的現象についての信号対雑音比が、地球でのそれに対して急速に迫っていることは否定できない。現状では、少数の例外的な未だ見込みのある計画 (全球的ダストストームの遠隔監視、閃光現象の見張り等の、歴史的記録のある現象との比較検定に役立つ所見をもたらすプロジェクト) を除いて、望遠鏡の接眼部に陣取って火星を覗いてスケッチを取る眼視観測者にできるのは、その作業それ自体を楽しむことしかない。彼はもはや時代錯誤の代物でしかない。

 

  あのロマンティックな時代、我々は役に立つ観測をしていると確信できた日々に育った観測者たち (そしてたぶん、観測がどれほど有益なものか少々買い被っていたかもしれない)、そしてアイピースの視野の惑星像の魔力に魅惑された者たちが、自分たちの時代が過ぎ去るのを悲しむのも無理はない。またそれはしかしながら避けがたいことでもある。我々は開拓者であった。我々は間違いなく他の世界についての科学の最前線で活動していたのだ (そして、科学の最前線とは信号対雑音比が低い領域であり、そこでは断片的なデータで何とか研究をやり繰りするために当てずっぽうの推測、憶測、想像力が惜し気もなく発揮されるべき ―気前が好すぎてもまずいが― そのような場であると定義してもまずくはないだろう)

 

  我々は時々、文学や建築デザインの分野についての“ポスト・モダン”期という表現を耳にする。この伝で行けば我々は“ポスト・フロンティア”期に生きていると言えよう。地球上に発見を待つ新大陸はもはや残っていない。“自由で”そして“誰もいない”処女地の広大なスペースに一から何かを築き上げ、果てしない経済成長を支えるための無尽蔵の資源へ到達するという古い夢は、我々のこの限りある世界に破滅的なまでの危険性を秘めて居残っている (人類の最大の悲劇は指数関数曲線を理解しなかったことだ、と言ったのは誰だったか?)。我々は未だに無限の成長を前提とした政治的、経済的モデルの数々を採用しており、これらは昔の時代、すなわち貪欲さと冷酷さと攻撃性が美徳とされた時代には意味を成していた;しかし我々の人口がすでに六十億を超え、我々皆が再生の効かない資源(化石燃料のような)を共用し、そして我々総てが同じ空気を吸って (そして汚染する) いるが故に経済が全世界規模となり相互依存が必要となった現在の世界では、上記の美徳は欠陥に成り下がった。

 

  火星の科学のフロンティアもまた閉業を迎えた。フロンティア時代に育った者は、彼らが使ったかの美しくも洒落た長い筒の望遠鏡と、それをかの別世界への入り口として用いるために習得した特殊なテクニックに変わらぬ愛情を保ち続けるだろう。しかし今となってはそのような望遠鏡とテクニックは“見よ、去りし日の我が絢爛はすべて、ニネベとチレのそれに同じ”である (訳者脚注)

 

  筆者は最近ジョシュア・スローカムの冒険について読んでいる4) (訳者註:邦訳あり:スプレー号世界周航記 ジョシュア・スローカム 高橋泰邦訳 中央公論新社 2003)。ヤンキー武装商船団の船長だった彼は1890年代に、彼が好く知っていた世界が足の下からどこかに去ってしまったことに気付いた。彼は海流の潮時を縫って風力帆走船を操る術を熟知していた。しかしそのような技に長けた男たちが敬意を払われる時代は終わっていた。そこで彼は渚で朽ち果てようとしていた小さなずんぐりむっくりした37フィートのヨットを見つけて“スプレー号”と名付け、丸一年をかけて修復改造した。そして積める限りの食料を満載してただ一人で世界を巡る旅に乗り出した。これが史上初の単独世界一周航海となる。ジョシュア・スローカムは“何か素晴らしいけど役に立たないことを成し遂げた”。

 

  我々の世代の中には、もはやしぶきを飛ばすほど達者ではないが、古い望遠鏡の“スプレー号(水しぶき号)”を操り、惑星を観測し続ける面々がいる。我々の多くはそれぞれ一匹狼であり、我々の知っていた世界が足の下からどこかへ引っ越ししてしまったことに気付いている。遠からず我々の多くもまた“ニネベとチレのそれに同じ”となる。我々は何かしら“素敵だけど無益な”ことをやっているのだ。

 

  スローカムが知っていた帆走の商船団が動力駆動船に取って代わられたように、科学もどんどん進み、変化していく。科学研究はますます専門的となり、新しい発見の可能性は高度に洗練された高額な装置を備えた大きな複合科学編成チームに所属する研究者に限られるようになってきた。知識の爆発には付いて行けるものではない。さりながら、ジョシュア・スローカムの同類の風情 ―望遠鏡すなわち火星行きの帆船の船長たち、SchiaparelliLowellTrouvelotAntoniadi、そして前田や佐伯その他の人々の風情に何故か今もなお我々は幾ばくか癒される。

 

  ジョシュア・スローカムは世界一周航海から戻った後、次のように書いている:“もしスプレー号が彼女の航海で大陸を発見しなかったというならば、新発見すべき大陸はもうなかったというだけのことだろう;彼女は新世界を捜し求めたのではないし、海の危険について評定するために海に乗り出したのでもない …既知の地に自らの道程を求めるは善き哉、そしてスプレー号は、最悪の海でさえも好く装備された船にはそれほど酷くはないことを発見したのだ。どこの王様からも、どこの国からも、どこの財務省からも課税対象となるような額の援助をスプレー号の航海は一切受けていないし、それで彼女は目指す企てを総てやり遂げたのだ。”

 

  スローカムは世界一周の旅を37フィートのヨットで成し遂げた。彼の同類のニューイングランド人ヘンリー・デイヴィッド・ソロー (1817-1862) の成せるところはさらに上を行く:彼は故郷のコンコードを離れることなく、彼の夢は宇宙の最果てまで駆け巡ったのだ。彼らの物語は―そして古典的火星観測者たちの物語は―総ての航海の目的は、発見者が自分自身の内なる何か自分自身についての何かを突き止めることである、と我々に思い出させる。フロンティアは究極的に内なるものであり、究極的に個人的なものである。それはたぶん、ブルース・カットンが The Voyages of Joshua Slocum の書評で述べたように“もし彼が永く求め続ければきっと、彼は世界をして彼が未だかって持っていなかった何かを彼に与えせしめるに違いない、という思い込みに過ぎないかもしれない”し、また彼の続けるところによれば“真の発見航海は、成功するかもしれない新大陸の陸地初認や、航海途中で遭遇して乗り越える危難などに大きく依存するのではなく、むしろ航海の始めに船長自身が何を心に秘めているかにかかっている”のかもしれない。

 

  しかしそれがもし真実ならば、あの特別の何か ―かの惑星を見なければ、そして自分自身のやり方で何かを成し遂げなければという渇望― を心に抱いて航海に乗り出す冒険者を何時の時代も、望遠鏡は優しく手招きするだろう。そしてその素晴らしい航海の操舵指揮の任務に就く船長を、何時の時代も望遠鏡の視野の火星像は優しくうなずき、歓迎するだろう。



( 注)

1)  Gerard de Vaucouleurs, “Signal and Noise: The Slow Progress of Martian Studies.” The Graduate Journal, volume VII, no. 1, Winter 1965, 181-193.

2)  Richard J. McKim, William P. Sheehan, and Randall Rosenfeld, “Etienne Leopold Trouvelot and the planet-encircling martian dust storm of 1877,” Journal of the British Astronomical Association, 119 ,6 (2009), 349-350.

3)  Thomas Dobbins and William Sheehan, “A retrospective on the tenth anniversary of the 2001 ALPO expedition,” The Strolling Astronomer, 53, 3 (September 2011), 24-37.

4)  The Voyages of Joshua Slocum, collected and introduced by Walter Magnes Teller. Rutgers University Press, 1958.

 

(訳者脚注):『ジャングルブック』等で知られるイギリスのノーベル文学賞作家J.R. キップリングの1897年の詩編『退場』の一行。一代で衰退する栄華を比喩。