巻頭エッセイ
火 星 の クレータ
ウィリアム・シーハン
(中 島
孝 譯)
CMO/ISMO #383 (
1915 |
年11月、ヨーロッパでは第一次世界大戦が荒れ狂っていた。西部戦線では既に連合軍は攻勢に出ていた。毎日のように起こる暴風や疾病のため日々300名の兵士が戦場を撤退せねばならなかった。アメリカはまだ参戦せず、ルシタニア号の撃沈は数ヶ月先のことだった。この艦船は中央アメリカの海域やカリブ海で、パナマ運河地帯において英国の通行税をものともせず、ハイチの実質的な保護国然として奮戦していた。
ベルリンでは平和主義者の物理学の教授アルベルト・アインシュタインは一般相対性理論の研究を完成させ、この新しい引力理論で従来ニュートンの古典論では解明できなかった水星の近日点の少しずつ進行する現象に新しい説明を加える事に成功していた。
地上の戦争は続行され、軍神マルスは地球からまだ随分と離れていたが1916年2月の好ましくない冬の接近(1901年以来最悪の接近だが)に向かって進んでいた。パーシヴァル・ローヱルが亡くなるちょうど一年前であった。11月は米国中西部での天文活動には不利な気候だが、その年は小春日和(インディアン・サマー)が穏やかで長くつづいた(米国農務省気象庁の記録による)。そのとき、南ウィスコンシンのヤーキス天文台でひとりの若い観測アシスタント、ジョンE. メッリシュが希有のシーイングに恵まれ、天文台初まって以来の最も優れた観測を成し遂げた。
メッリシュはウィスコンシン州マディソン近郊のコテジ・グローヴから3マイル南にある母方の祖父の農園で生まれた。正規の教育を4年間受けていたが、かれには全課程を終えるには時間は足りなかった。16歳の時、4ドルで小型望遠鏡を入手したが満足できるものではなかった。その後かれは2インチの屈折望遠鏡が買えるほどのお金を貯めた。こんどの器械は十分大きく、芽生えてきた天文学の関心を刺激してくれた。「その望遠鏡でわたしは多くの新しい星を見ることができた。当時とっても幸せだったよ」と後年回想している。
5年後にかれは6インチの反射望遠鏡を苦心して作り上げ、それを使って彗星を発見した(ニュージランドの天文家ジョン・グリッグによって独立に発見されたが、周期彗星であることが判明、その前に観測されたのは1742年のことだった)。E. E. バーナードは、その当時生存者の中で二番目に彗星発見の多い観測者(ニューヨーク州北部在住のW. R. ブルックスに次いで)としてだけではなく最も著名な天文学者として南部ウィスコンシンのヤーキス天文台に勤めていた。貧窮のなかで成長した若者として、バーナードは「彗星の家を建てる」(もっと正しく言うと彗星発見によって手にした賞金で家を建てる)ことで知られていた。そして「コテジ・グローヴの少年天文家」に親近感を持ったことは明らかである。かれはメッリシュに彗星発見の賛辞を送りヤーキスを訪れるよう招聘すると、その年の9月に少年は事実やってきた。メッリシュにとってバーナードと会見することは大いなる刺戟であった。あいかわらず農業をしながら余暇には彗星捜索や望遠鏡作製に一層精を出した。9.5インチと16インチの反射鏡で、後者が完成したのが1913年、この16インチ反射鏡をマディソン近くのウォッシュバーン天文台の天文学者アルバート・フリントは月惑星観測には当天文台のクラーク15.5インチ屈折鏡よりも優れていると明言した。
かれは一日の大半、からだを酷使してきた。1913年の中頃、バーナードへの手紙に二年近く文通が中断したのは全くの疲労の所為だと説明している。「疲労困憊で夜になるとあんまり起きていられないのです。夜中にもほとんど起き上がることができないのです.....わたしは体力の限界以上のことをしなければならなかったのですから。」
1915年の2月、メッリシュが三番目の彗星を発見した数日後に、ヤーキス天文台の台長エドウィン・ブラント・フロストはかれに、この春か夏にウィリアムズ・ベイに来て無給の観測者として働き、天体写真術をバーナードから習得するよう勧めた、がメッリシュは辞退した。「骨の折れる苦しい生活で手一杯です」と手紙に記している。「鏡の研磨でこの8ヶ月間ほとんど得るところがありませんでした。実際、わたしはここに縛られていて仕事に専念しなくてはならないのです…もし全くお金で支払えないなら何かやりがいのあることをするのに具体的なものを持つつもりです。わたしは観測小屋を建てる金の当てはありません。それで望遠鏡はいつも屋外に立ったままです。そんなこんなで生活はあまり順調ではありません。」
フロストは粘り強く誘い続けた。そしてかれは、かつてミシガン大学とウィスコンスン大学の天文学者だったジェームズ・ワトソンが寄付した基金からウィリアムズ・ベイでの生活費の一時金ばかりでなく、メッリシュが職務を継続するために農場労働者としての賃金を6ヶ月間支払うことができると言ってきた。今度はメッリシュも同意し、さらに「生計はきちんと立っています。わたしはもしできたら食べずにそのお金で書物を買いたいとおもっているくらいです」と述べている。しかしメッリシュがその秋到着するまでに、かれの生活はかなり複雑になっていた。実はイリノイ州グレンコウ出身の17歳の少女ジェシー・ウッドと知り合いの仲になっていた。少女は友だちからの挑戦を受けて「完全なる夫」の広告をおおやけにし、2000通の中からメッリシュの便りを選んだ。かれらは駆け落ちしたようなものだった。あわてて結婚したが、ヤーキスに着く頃すでに妊娠していた。
メッリシュが滑り込んだヤーキスは沈滞状態になっていた。というのも既にヤーキスの、輝かしい水銀剤の鋳造者ジョージ・エラリー・ヘールがヤーキス最強の観測チームを伴ってカリフォルニア州ウィルソン山の温かい天候と澄み切った空を求めて去り、ドナルド・E. オスターブロックが言うように天文台は臨死状態になっていたからだ。ヘールの後任として台長になったフロストは以前ダートマスで分光学の研究者としての教育を受けていた。メッリシュが到着した直後、フロストは生まれつき近眼だったが40インチ屈折望遠鏡で観測を行っている間に網膜を剥離してしまい、のちに完全に盲目になってしまった。バーナードはこのとき観測の鬼として最盛期にあったが、糖尿病のため、やつれ衰弱し、主治医の忠告で40インチを使っての仕事を一年休業した。かれはこの状況をこれ以上ないほどの喪失と述べ、しかしフロストの言を借りれば「男らしく勇敢に」耐えてきた。もう一人の台員は肉体的に堂々とし、筋骨たくましいが、人間としてはシカゴ大学卒の院生1年らしくないぐらいで、メッリシュより3歳年下のエドウィン・ハッブルであった。かれは星雲研究という蔑ろにされていた分野の研究を始めた。ハッブルがヤーキスに着くとまもなく、メッリシュは朝方近くの空を掃天し自分の4番目の彗星だろうとフロストと二人で初めのうち信じていた新天体を見ていた。しかし、それは既に記録済みの星雲NGC 2261だった。だがハッブルがさらに精査するとその外観に規則的な変化を見つけた。今日では「ハッブルの可変光星雲」として知られている。メッリシュは天体物理学上に少なくとも足跡をひとつ蓄えた。
メッリシュは彗星捜索の他に惑星(複数)にも興味をもっていた。1915年11月、定期的に天文台の12インチ屈折を駆使して火星を心ゆくまで注意しながら観察していた。1915年11月13日の暁方、かれは40インチ屈折そのものを使用することができた。当時既に又いまでも世界最大の屈折望遠鏡であった。光学関係は優秀だったが、シーイングは、特に11月のシーイングは惑星観望には好くないことが多かった。ヤーキスでの四半世紀の間バーナードは、カリフォルニアのリック天文台の36インチ屈折で6年間観測したほどの成果は上げられなかったことは事実だった。(確かにバーナードは惑星について入念に研究はしていなかったし、後年少なくとも視力と健康は衰えていた。)
その年の11月の南ウィスコンシンは例年になく穏やかな小春日和(インディアンサマー)に恵まれていた。気象通報によれば月の初めのうち気温は平年より数度上がるとのことであった(脚注 1)。11月13日の日の出は6:42 a.m.---身の引き締まるような晴天の朝で、気温は氷点あたりにあり(露点よりも十分上で)、風はそよとも吹かなかった---そしてメッリシュは火星を追った。直径わずか7.7秒角の小さな円盤(中央子午線の経度ω=061°W日の出時)で高度約60°の朝の空にあった。アイピースのインジゴの視野がこまどりの卵のように青く明るくなり、火星の色は強いファイア・オパールから柔らかいローズかブラウンへと淡くなってゆく。大気は完全に停滞して透明になる。この瞬間メッリシュは生涯二度とない黄金の時を贈られる。高倍率750倍、いや1100倍に上げても火星はまるで3-4Xの双眼鏡で見るような燦然たる丸っこい月のように見えた。同時にこの先50年にもなろうかというローヱル流の運河時代に天啓ともいえる節穴を開けようとしていたのである。
日没や日の出近くの時間帯、大気の並はずれた静寂を観測者はしばしば楽しむ。大地と大気の温度が等しくなると空気の乱れが収まる。この時期起こる現象である。火星は空高く位置し、火星の光が大気を通る長さも短くなり、スキアパレッリが水星や金星を白昼に観測したのと同じ条件下でメッリシュも注意深く火星を観察していたが、この方法は火星に向いていたとはいえない。理由は主に太陽から遙か遠く離れているので火星の表面の輝きが低いためだった。日の出後一時間で火星のω=076°Wあたりで最高の眺望を得た。
メッリシュがあの朝に見たと主張するものについて何年もいろいろな機会にメッリシュは話題にしてきた。かれの最初の話はあの同じ朝遅く多分バーナードに伝わったと思う。「不思議なこと総てを目撃した後で」メッリシュは後にリーハイ・ヴァリー・アマチュア天文協会の会員ウォルター・ライト二世に書いている。「わたしはバーナードのところへ行ってスケッチを見せて、わたしが目にしたものを説明した」
火星は平坦ではなくたくさんのクレータや地割れがある。わたしはクレータや山地の多くを見た...40インチ屈折で、わたしは自分の眼をほとんど信じられなかった。日の出の後、火星は輝かしい空高くにあった。わたしは倍率を750倍にした(脚注2)。
メッリシュはバーナードに以前にそのようなものが観測されたことなど聞いたことがなかったと言った。バーナードは笑うだけだった。そして1892年と1894年にリックで描いたスケッチを見せてあげようと言った。古いトランクから取り出して見せるとメッリシュは「今までに描かれた火星のなかで最も素晴らしいスケッチ」と述べている。そのスケッチは次のようなものを見せていた:
…山脈や山頂それにクレータや他の模様、双方とも黒いか明るいか...何であるか誰も知らない。わたしは驚愕し、かれがなぜ今までにこのことを公表しなかったのかと尋ねると、かれはだれも自分の言うことを信用せず物笑いにするだろうからと言った....幾晩もかけてバーナードは火星のスケッチを取り、ディスクに現れる夕方早くから消え去る朝までの興味深い時間帯を観測研究に費やしたものだ。かれは直径4インチか5インチでスケッチを行ったが、恥だということで公表はしなかった。
わたしは現在そのスケッチを見ることすら許可された人を誰も知らない、おそらくヤーキスに死蔵されているのだろう(脚注3)。
意義深いことに、数日後の朝、バーナード自身12インチ屈折で火星のスケッチをひとつ取っている。最接近からかなり離れている火星のスケッチはバーナードにとってはたいへん希な一葉である。とても細かな詳細な図だが、その時期にその位置の火星を観測する唯一の理由はメッリシュの話にかき立てられた関心事であったことは疑いようのないものだった。かくしてかれは、メッリシュが観測した日時を独立して確認する配慮をおこなった。
メッリシュは、自分は重大な発見をしたと確信した。しかしかれはヤーキスでは無給のアシスタントにすぎなかった。偉大なE. E. バーナードのように天使達は足を踏みおろすことを恐れたところに飛び込むことを躊躇したのかもしれない。かれは通算15ヶ月ヤーキスに滞在した。常勤のスタッフに採用されないことがはっきり分かって1916年暮れ、離台しオハイオ州のリートニアに向かった。そこでは実業家エルマー・ハロルドの天文台で9インチ屈折を使って公開観望を指導することで薄給を得た。(ハロルドは鉄道・産業の煤煙が原因で1921年に天文台を閉鎖せねばならなかった。望遠鏡はユニオン山天文台に移設され、ウォルター・ハースに活用された)そしてバーナードから借りた200ドルで望遠鏡製作事業を始めた。この借金は一年以内に完済した。
バーナードは火星のクレータについて語ることは拒否したが、メッリシュは明らかに口達者だった。かれはあまりにも頻繁にクレータのことを口にするので家族はうんざりしてしまった、と言われている。ライトに加えてメッリシュは火星面上で見たと信じているものをトーマス・ケーヴ二世に打ち明けた。ケーヴはカリフォルニア州ハリウッドの住人で、1940年に(その時までにはカリフォルニア州のエスコンディドの)かれの光学器機の工房を訪れている。ケーヴは著者の個人的な親友で火星を1937年から2001年まで観測してきた。メッリシュと同様、後に自分自身の望遠鏡製作事業のオーナーになった。
火星面上の円い暗点(「オアシス」として知られている)はクレータかもしれないという可能性は、遙々1890年代のピカリングの示唆したことに遡る。クレータのことは時折支持されてきた。(例えば、アントニアディは1926年発刊のl’Astronomieの中で火星の想像図を公にしたが、それにはクレータが示されているようだ。その他に1950年代にラルフ・ボールドウィンやクライド・トムボー、ドナルド・サイアなど火星には十分クレータがあると言及している。) H. P. ウィルキンズは1956年の書物Mysteries of Time & Spaceにメッリシュの観測について記述すらしている。少なくとも天文学の専門家のなかには、運河やオアシスのあるローヱル風の牧歌的情景ではなく、接近飛行した探査機マリーナ4号が1965年7月、火星の表面を22の枠組みに分け、荒涼としたクレータの輪郭を見せてくれたが、一般のわれわれほどに驚いた人はあまりいなかったようだ。(わたしは当時11歳で、ローヱルの理論の影響を受けてきたので、マリーナ4号の撮った写真が与えてくれたショックはジョン・F. ケネディの暗殺事件に匹敵するものだった。)
マリーナ4号が火星の傍を飛んだ時メッリシュは80歳になるところだった。かれは1966年6月発行のSky
& Telescope (p.339)に投稿し、1915年11月の観測についてより詳細な事柄を述べている。すなわち:
去年7月のマリーナが撮った写真を見るとわたしがかつてヤーキス天文台でおこなった観測を思い出します....倍率1,100倍でわたしはたくさんの小さなクレータや大きいのもひとつ見ました。大きな方は直径200マイルと推定され、火星の南緯50°に位置し、その北には明るい縁取りの小さなクレータが多数ありました。
わたしがこの記事を読んだ時は既に12歳になっていた。Sky & Telescopeの予約購読をする経済的な余裕はなかったので、時々最寄りの図書館でその雑誌を手にした。これはわたしがそれまで見た中で最も高揚感を与えてくれたもののひとつであった。以後メッリシュとバーナードは火星観測上のわたしのヒーローに加わった。
11歳の少年に加えて、幾人かのプロの天文家も興味を抱いた。その中にJPLのエドウィンP. マルツというマリーナ4号のTVカメラを設計し、ヤーキスでバーナードのスケッチを意欲的に捜した人(しかし当時は何も見つからなかった)、それにダニエル・ハリスという光度測定の天文学者で、あの1915年11月の観測に火星の天体暦を計算し、火星の形状観測を調べた人がいた。
メッリシュの火星の部分的なスケッチは、マリーナ4号が火星に到着する一年前にかれの工房が火事に遭った時に消失してしまった。後に1966年、メッリシュはマルツに会いにパサデナに出かけたが、二人は終生会うことはなかった:マルツは家が火事に遭い悲劇的な死を迎えたからだ。二度もメッリシュの火星クレータの観測をキチンとしようという希求は火事で脱線してしまったわけである。
わたしは遂にバーナードの1987年のヤーキスでのスケッチの在処を突きとめたが、メッリシュのスケッチはまだ出てこなかった。多分これからも出てこないだろう。かれの1966年の手紙を読んだ大抵の人はクレータを火星の暮れ方に沿って薄暗くまたは霜で縁取られたような造作として、むしろガリレオが1609年に小さな望遠鏡で月面上に見たようなものを見た、と確信した。しかるに月には空気はなく火星には大気がある。1915年11月は驚くほど澄みきっていたようだが、ターミネタはまだ光を拡散させていた。南緯50°に直径200マイルのクレータが存在することは確認できないままだった。可能性のあるクレータの候補者はコペルニクスとニュートンで、それをハリスの計算でメッリシュの観測した時のターミネタに位置づけた。記憶をたぐり寄せてトム・ケーヴは、1940年にメッリシュがケーヴに見せてくれたスケッチの一葉を再構成しようと試みた。それは火星の右の部分を見せていたのは事実だが、その他の点では昔の記憶は必ずしも信頼できないという理由からだけでもはっきりした結論には達しなかった。(別の折に、ケーヴはパリ解放の後ムードンでアントニアディに会見したと断言した。しかし事実は、アントニアディはアメリカ人達が到達する数ヶ月前に亡くなっていた。わたしにはそのことをケーヴに伝える勇気がなかった。)
メッリシュは1970年に亡くなった。続く年月、かれの火星のクレータを見たという主張について論争されてきたがはっきりした結論に達していない。かれの主張はロジャー・W. ゴードンによって巧に支持されてきた。懐疑的な立場をとってきた人にはリチャード・マッキムや私自身が含まれる。確実な記録---メッリシュのスケッチ---の紛失が、まばらな資料の上で想像にまかせて勝手に作り上げた虚像というのが真相のようだった。1915年11月にかれが実際に見たものが何であれ、それから先、解明されることはないように思えた。
メッリシュはついに、そして正当に火星のクレータに自分の名前がつく栄誉を与えられたが、IAU火星タスク・グループの委員長のブラッドフォールド ・A. スミスは表彰の際、あいまいな態度をとった。すなわち「メッリシュ氏が火星のクレータについてはっきりと地形学的に確定できなかったことに同意せざるをえませんでした。しかしまた、探査機によって後に示された小さな円い物体をクレータだと想像したのも当然だと同意せねばなりませんでした。そのような物体はクレータであるというメッリシュ氏の結論はおそらく月面の外見的な特徴から推定したもので、それ故に、昔そのような洞察をされたことは氏の火星に関する今回の祝典にふさわしい、道理にあったものに思えました」と述べた。
以上が、最近まで、このテーマについて語られることは全部だったが、この話にはオー・ヘンリー的なヒネリがある。それはメッリシュが最後に疑いを晴らしたことのようだ。
この点でロジャー・W. ゴードンの粘り強さはまるで偏執狂的だったが、決断力があった。かれは1915年11月の天気の記録を移し替えて例のインディアン・サマーの間、天候条件は飛び切り素晴らしかったことを示した。そして天体暦を再計算してみると、ハリスは決定的な誤りをしていることがわかった。疑いもなく火星の地図上の方角を表すのに天文学上の慣例と宇宙飛行士のそれとの間に相違点があることに関係していた。ハリスはメッリシュのスケッチの上を北に解釈してしまった(1960年代末期のIAUにおいて相当反対はあったが採択された宇宙飛行士の約束事---地図の上が北と決めた)が、天体望遠鏡で覗くと上が南を指すのが正常である。コペルニクスとニュートンはターミネタの方にあるのではなく、その正反対の縁に位置していた。むしろ欠け際のほうに巨大な衝突の窪地、すなわちアルギューレとスキアパレッリが呼んだ地形が銀色に輝いている。しばしば霜に覆われる直径600kmの超弩級のクレータである。火星は天の赤道からずっと北にあるので随分圧縮して見え、それでメッリシュはこの大物の直径を小さく見積もってしまった。長いことかかったが、これこそ南緯50°で見たという例の大クレータだったのだ。
これが突破口となってメッリシュがかつて見た地形もはっきり確認された。そしてケーヴの記憶から描かれたスケッチも非難が晴れ、真実であることが実証された。陽光を浴び輝く山並みは霜で覆われたネレイドゥム・モンテスだった。割れ目はワァッレス・マリネリス峡谷で、ソリス・プラヌムの真北を走り、メッリシュの見た眺めを思い起こさせるような多くの円い個所(その中の幾つかは確かに本物のクレータである)を含む複雑な細部の地域である。またかれは火星の周縁に沿って側面から大いなるタルシス火山を見ていた。太陽の光の角度が低かったら、これは可能であったので、最接近に近い満月状態では、必ずしもはっきり認めるのは容易ではない。
ローヱル流の運河が縫うように走る火星面の代わりに気味悪い、例えば明るい斑点または暗い斑点、裂け目、斜面などはメッリシュにとって息をのむような驚くべき新事実だったであろう。しかるにローヱル派はまだ尚火星を平面世界と言わんばかりの見え方を押し進めていた。メッリシュは(かれ以前のバーナードのように)現実に岩だらけの起伏のきざしを見た。かくしてかれはレイトに声高に告げた。「わたしは常々思っていたのですが、火星は平らな地形ではないのです!」かれはもう一人の文通相手、光学機器技師ユージン・クロスに、自分は12インチで筋状の模様---運河---を見たと書いている。1915-1916年のかれの残しているスケッチのモンタージュはこのことの証拠となる。しかし40インチで見ると別の形に、もっと自然な外見に置き換えられていたのである。わたしは、アルギューレを火星の夕方のターミネータの近くに位置した火星をメッリシュが見たことで自分の立場を修正されると直ぐにゴートンとわたしはクレータなどに懐疑的であったことを否定する必要があると悟った。このことでメッリシュは完全に名誉回復したことにわれわれは同意した。マリーナ4号の探査の50年も前にジョン・E. メッリシュは火星にクレータを観測し、かれの前に誰も洞察力を---恐らくE.E. バーナードを除いては---火星に注いだ者はいなかった。
メッリシュが火星のクレータの“発見者”とみなされるのに値するかどうかは少し難しい問題で、“発見”の定義によって違ってくるだろう。
総体的に、わたしはかれの成し遂げたことは公正なことだと考えている。多分私的な感情からわたしは一票を投じるであろう。宇宙船と宇宙望遠鏡は天文学の蒸気ハンマーである。メッリシュのような観測者はジョン・ヘンリー的である。然しこの場合はジョン・ヘンリーが蒸気ハンマーを打ち負かしたとわたしは信じる。
この難しい偉業は、探査機が火星の側を掠めて飛行したその50年前、異例な条件の下で活躍した、注意を怠らない観測者によって達成されたことは地上からの惑星天文学を維持するという評価を落とすことは確かにないだろう。
(脚注1) 米国農務省気象庁の月間観測の記録はミルウォーキの近くで取られている。
(脚注2) 1935年1月18日附けのメッリシュからウォルター・レイトに宛てたもの。
(脚注3) 実際、バーナードは発表したものは多くはなく、1892年のAstronomy and
Astrophysics誌と1903年のAstrophysical
Journalぐらいのものであろう。メッリシュによって見られたノートは1987年にヤーキスで再発見されているし、他のものはリックの収蔵庫にある観測ノートブックの類から見付かっている。しかしほとんど公表はされていない。
(脚注4) スミスからマイケル・アンデラーに宛てた1993年6月6日の個人的な手紙にある。
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