特別寄稿(書評)

Christopher BENFEY"The Great Wave"(和譯)から

 

CMO/ISMO #380 (25 January 2011)

 

南 政 次


に二年前のCMO#354(25Jan2009)の書評欄で前年の本を三冊を擧げるとすればとしてChristopher BENFEY"The Great Wave"の書名を擧げているが、書評には別の一冊を採り上げた。ここでは埋め草用に"The Great Wave"を採り上げてみたいと思うが、これは大著で(譯本―大橋悦子譯−小学館―で370頁もある)、この本で何が特徴的であるかについて私感を述べることにする。

 この本は勿論1913年頃までの「日本」に關わったアメリカ人や日本人について述べられたもので、序章と終章の他八章からなっているが、各章は對比型に描かれていて、"ハーマン・メルヴィルとジョン万次郎" "岡倉覺三とイザベラ・ガードナー""ヘンリー・アダムスとジョン・ラファージ""パーシヴァル・ローヱルとメイベル・トッド""ラフカヂオ・ハーンとアーネスト・フェノロサ""セオドア・ルーズヴェルトとスタージス・ビゲロウ" 等という風にお馴染みの名前が對比されて表題が付けられている。但し、一章だけ違っていて"エドワード・シルヴェスター・モース" とだけ銘打たれた章があるのである。今回は何故この章だけが違っているか考えてみたいと思う譯である。

 

 結論から言えば、モース(1838~1925)は自己完結型で、ローヱルやトッド夫妻や岡倉天心のようにスキャンダルを持たず、貝殻に一途で、一方このよき時代を包括的に過ごした爲に單獨に章が設けられたのであろうと思う。實際、ビゲロウも含めてローヱルなどはモースの影響下で日本へ來ているのである。

 

 モースが1856年小さな蝸牛を発見したことから1858年に大アガシ(1807~1873)に知遇を得、自分の道を發見するのだが(彼は既にスケッチの方法も會得しており、後に日本家屋の描冩その他でその才能を發揮する)、遂にはダーウィニズムに關する見解でルイ・アガシと衝突する。幸い1874年に日本には腕足類が澤山いることを聞きつけ、また1876年にはフィラデルフィア萬博が開かれ、文部省から派遣されていたデイヴィッド・マレイ(1830~19051873年に來日、金星凌日を日本で見ている。元ラトガース大學數學教授、金星凌日についての論述もある。1878年帰國) に會ったのは幸いであった。1877年六月18日の39歳の誕生日に横濱に上陸し、翌日東京への途上中に「大森貝塚」を發見したことは有名である。モースは單に夏休みに來たつもりであったが、マレイから頼まれ、江ノ島に海洋研究所を建てることをはじめ、マレイからの要求も大きくなり、1878年四月には日本に戻ってくる。モースは觀察力に優れ、既に日本人の扇子の使い方の多様性に眼を向けているし、音にも敏感であった。彼は能を習った最初の外國人ということになっている。

 

 歸ってきたモースは輪廻を信じる日本人はダーウィニズムの理解に早いというか、向いていることを見抜き(東大での講義は日本最初であろう)、一方では日本の陶器の蒐集に興味を持ち、更に茶の湯をやった最初の外國人とも思われている。面白いのは、逆にフェノロサは全く興味を示さなかったことである。1881年のボストンのローヱル研究所でのモースの講演は魅惑的であったらしく、「ハーメルンの笛吹」よろしく、イザベラ・ガードナーやウィリアム・スタージス・ビゲロウ、或いはローヱル、そしてフェノロサまで魅了し、彼らを日本に行かせているのである。1882年には三度目の來日をし、あるとき、ビゲロウとモースは東京から、京都に立ち寄り、フェノロサを連れて、西國へ下るのだが、廣島あたりでフェノロサは脱落してしまう。彼は茶の湯に興味を示さなかっただけでなく「生もの」を食べなかったそうである。但し、フェノロサは仏教に改宗したビゲロウと一緒に大津に眠っている(私の嘗ての宿舎から歩いて行けるところであった)

 

 三度目の來日でモースが心配したのは「古い日本」が瓦解している事であった。『日本人の住まい』(1885)を著したのも、そういうことが契機になっているようだ。この本は後にフランク・ロイド・ライトなどに影響を與えている。圖が素晴らしい。

 

 1883年以降、彼は四十年長く生きたが、もう日本に戻ることはなかった。古き日本の瓦解は、もうモースに日本へ行く氣を奪ってしまったらしい。彼は歐羅巴には出掛け、ダーウィンの別荘に立ち寄ったりしているが、日本へは向かわなかった。急速に日本は變わり、自分の愛する日本は最早存在しなくなったと考えたようである。既にまるでことごとく蒐集するように持ち歸った陶器などのガラクタはアメリカの風變わりなセーラムやボストン美術館に保存されている。

 

 モースが他の誰よりも關心を寄せたのは、「日本の不規則性と奇異性への嗜好、對稱や反復の拒否、中間色や落ち着いた色調の愛好、素材の粗さと滑らかさの對比」等であったが、これらは他のどの日本愛好家にも欠けていたし、確かにいまは見る影もないかも知れない。

 

 なお、モースにはスキャンダルが見えない(出さない)ことである。作者は九鬼周造が天心の子供ではないかと仄めかせているし、もし、日本人でメーベル・ルーミス・トッドを類い稀な名文家で、夫デーヴィッド・トッドに從っていた淑女と考えるものがいるならこの本を讀むと好い。エミリー・ディッキンソンは彼女無くして成り立ち得ないと考える人がいるなら、それも好かろう。そして富士山に登った初めてのアメリカ婦人というのも好いだろう。然し、當時からスキャンダルは公然としたものであったのであろう。デイヴィッドはその話を喜んだらしいが、結局は精神病院で亡くなっている。

 

 この冊子(CMO/ISMO)は火星に關するものである。從って、この本を採り上げるのは場違いと思うかも知れないが、實際は作者はローヱル×メーベルを四十頁にわたって書いている。然し、私が參照したモースについてはたった廿頁であったのである。私はモースが怪しげな火星の本を書いていることを知っている。然し、この章から貝殻狂いの彼が當時の何かを突き抜けるものを持っていたと考えるのである。ローヱルはどうであったろうか。


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