巻頭論攷解説

ビル・シーハン氏の

Mars above the Dreaming Spires: John Phillips and the First Globe of Mars

の解説

 

CMO/ISMO #376


のシーハン氏の論攷は長くて而も込み入っているから、短期間で逐語譯は出來そうにない。そこで「解説」でお茶を濁すことにする。抄訳の部分も出てくるかも知れないが面倒なところは意譯する。

  ここで採り上げられているのは、ジョン・フィリップス(1800~1874)というその筋では有名な地質學者であるが、「化石」同様、月や火星にも興味を持った人物として描かれているわけである。彼の名前は佐伯著に一回出てくるが、業績については述べられていない。然し、アントニアディの本には、以下でシーハン氏が紹介するような本質的なところは一部撞いている。

 表題は「Mars above the Dreaming Spires: John Phillips and the First Globe of Mars」で前半は半分象徴的だが、後半は事實を述べたものである。半ば象徴的というのは、ここで最初に採り上げられる1860年六月のオックスフォードに於けるダーウィン假説に關する討論會のとき、實は火星が最接近を始めていて而も1860年の接近は大接近で、七月22日にはδ=23.59"という最大視直徑にならんとしていたわけであって、フィリップスは氣が氣でなかったろうというのがシーハン氏の想像である。オックスフォードの自然史博物館は1860年設立で、写真で見る通り尖塔(spire)系の建物(フィリップスの栖も入っている)が多いのだが、その上で石炭の燃えるような火星が輝いていたわけである。尤も、フィリップスは討論會に出ていたかどうかも分からないし、會議録も殘っていないので、これは全く別の話だが、兎に角、ダーウィン説を巡って、雄辯な主教のサムエル・ウィルバーフォース(1805~1873)とダーウィンのブルドッグと言われたトーマス・ヘンリィ・ハックスレイ(1825~1895)(ジュリアン・ハックスレイやオルダス・ハックスレイの祖父)の猛烈な論爭などは見ものだったに違いないという譯である(ダーウィンは病氣で出ていない)。因みにフィリップスはダーウィンには與しなかったようだ。

  自然史博物館は1860年完成なので今年150年祭が行われているらしい。フィリップスは60歳になっていたから、名も成していたし(幼少の頃の略傳は易しいから原文の方を見ていただきたい) 博物館の設計にも携わり、内部の柱にはニュートン始め、ユークリッドやヒポクラテスなど西洋の古來の科學者・哲學者が立像として添えられて立っているものや胸像だけのものも並んでいる。フィリップス自身も入っているが、伯父のウィリアム・スミスと並んでいる(やはり地質學者でジョンも薫陶を受けた。原文參照)。胸像も含めて28體あるようだ。

 

http://www.oum.ox.ac.uk/learning/pdfs/statues.pdf

 

 フィリップスは最初からこのオックスフォードの自然史博物館のkeeperもしくはcuratorとして別棟を持ち、三角屋根の天文臺も持っていた。もっとも1860年の大接近にクックに6.5インチの屈折望遠鏡を注文していたらしい(當時のクック鏡の様子を窺える圖を入れる)が、間に合わず、1862年になってやっと入手し、暫く手につかない家庭の不幸な状態があったようだが「七月になって、昔ヨークシャーでのフィロソフィカル・ソサイアティでお馴染みであった小さな円錐形天文臺(右圖)を眞似したであろうその天文臺にその望遠鏡を収めるに至った。彼は天文臺のスリットを最初に開けたとき、先ず何といっても火星がターゲットになった事は無論である(他の關心としては月がある)。火星は1860年程に近づいているとはいえない状態だったが、より水平高度が高くなっており北半球の觀測者にはより有利になっていた。」望遠鏡と火星は妹の不祝儀などの氣晴らしになったであろうとしている。但し、上掲のオックスフォード自然史博物館の写真の奥にある天文臺は見分けがつかない(シーハン氏には判るらしい)1862年に得たスケッチの一部はお目に掛ける通りだが、當時の火星觀測の常識から言えばそれほどのことがあるはずはないとことは考慮すべきである。ベールとメドレルが火星圖を作ったのは1840年で、それから未だ廿年程しか經っていない。フィリップスの火星圖(原圖と銅版印刷)は引用の通りだが、特徴は原初子午線をベール達とは違って(ベール・メドレル達の方があとでスキアパレッリなどに採用される)、いまで謂うハンモニス・コルヌ邊りに持ってきているのが不思議である。原圖を見るとシヌス・メリディアニが分離しているようで、案外エドムの邊りがダストなどで明るくおかしかったのかも知れない。他の先人達のスケッチと比べても違うところも自覺し、火星の模様が本當に不變のものであるという確信は得られなかったようである。

  そうこうしているうちに思いつきがあって、火星儀を作ってはどうか、と考えたようだ。彼のスケッチ數は多くはないから、先人達の遺したスケッチの再現も考えられるわけである。

  シーハン氏が150年祭と言っているのは、博物館のことではなく、フィリップスが火星儀を作ってから「ほぼ」150年になるという意味のことである。而もこれが世界最初の火星儀になるらしい。大きなものではないし圓くはなかったようで木組の六面體だったようだが、三體作っていて二體は1862年製としているので、まぁまぁ150年である。然し殘念乍らこれら火星儀は脆い構造のもので、一旦(一體はロイヤル・ソサイアティに提出)役目を終えた後は毀れて仕舞ったか何かで、現在は遺ってはいない。一體はオックスフォードのアッシュモリーン自然史協會の博物館の一室に數年置かれていたようだが、程度の低い門外漢がゴミとして捨ててしまった可能性があるらしい。次に作られた火星儀はプロクターの觀測を基にした1868年のブラウニングによるもので、これは7.5cmの大きさであったようだが、これも遺っていない(後のフラマリオンやローヱルの火星儀は時代の移り變わりで火星への關心の違いで遺っている)

  扨て、1863年になってフィリップスは火星模様の永續性を認めて、言及を始めている。その前に1861年當時ジョン・ハーシェルがどう言っていたか引用がある。「この惑星にはハッキリしているのだが、大陸と海と思しきものの輪郭を頻繁に見分け區別することが出來る。これらの内、前者は赤み掛かった色で見分けが附き、この色は惑星の赤い色−常時赤く、ときには燃え立つようだ−を特徴附け、一般の地面の黄土色を示唆する。それは地球上の赤い砂岩が際立って多分に火星の住人にもっと明確に同じ様に思わせるものであろう。これと對照的に(光學の一般則によって)海の方は−われわれはそう呼ばざるを得ないが−緑色に見える。・・・・」

   フィリップスは様々な有名な觀測家が報告する色の違いを考慮して、彼はジェームズ・ナスミスに宛てて、大きな反射望遠鏡を使えば火星の「土地」は明確に赤色に見え、「水」は緑に見えると述べている;他方ノーマン・ロックイヤーの「過度に修正された」アクロマティック屈折では赤色が見えないのに對し、フィリップス自身には「土地」の或るところでは赤く見え、他の處では明るいか銀色にさえ見える、と言っている。彼は明らかに赤味の部分は土地に、灰色-緑色の領域を海という普通の同定法を受け入れる方に傾いてはいたのだけれど、後の火星に關する著作者が必ずしも明らかでないとしていることに幾らか注意を拂っている、としてフィリップスの「白い明るい空間が土地として、丁度月が衝になったときのように光を反射しているのだと容認すると、暗いところを海だというのは自然な想像に見える。そしてこれは火星の何處かに水が必要だという明らかな要求を滿たしているように見える。それはまた極の周りの雪が互いに集まったり溶けたりする事とも一致する。更にどの觀測者もこれら大きな暗い區域を月の色合いが不均衡な灰色掛かった特定の部分と少しも似ていないと注意している。(しかし)火星の表面に大海のようなものがあるとしてその證明には單に静かな表面から星の輝きにも似た鋭い太陽の反射光なり、もしくは波によって可成りぼんやりした光が返されてくるならば可能であろうけれども、こうした種類の現象は未だ嘗て記録されたことはない」という下りを引用している。

  シーハン氏はフィリップスが、火星の海から太陽の光の反射を觀測可能とし、荒っぽいながら少なくとも反射が垂直に起こった場合にフレアの検知を論じた最初の人物であるとしている。後でスキアパレッリなども論じたようで、太陽光が海に反射してフレアのように見えると考えたようだが豫想()などは出されなかったようである。勿論、そういう水の照り返しは報告されてはいない。理由は簡單で所謂海が海ではなかったからである。然し兎に角フィリップスがこういうフラッシュに就いて論じた最初の人物である事は記憶されるべきであろう。

  フィリップスは1864/65年にも觀測をしている。この接近は例のドーズが8¼インチ屈折で素晴らしい觀測をしたときである。フィリップスは1962年の觀測とも併せて、火星のカラー地圖のようなものを作っている。現物はオックスフォード大學自然史博物館の圖書室に保存されていて、フィリップスの目が火星の色をどの様に見たか好く分かるのだが、殘念乍ら未だ印刷されて公開されたことはない。というわけでフィリップスの火星像は一般に火星の歴史家にも充分には知れ渡っていない。而も直ぐに1868年にはプロクターの火星圖が出現し、影が薄くなってしまったわけである。

  1865年以降、フィリップスが火星の觀測を續行したようには見えない。月の觀測も無視されたようである。彼の興味は再び地球に戻り、地質學の方に向いたようだ。1871年には『オクスフォードとテームズ渓谷の地質學』を上梓しているし、相變わらずダーウィンとは反對の立場に立っている。ダーウィンは化石記録を誇張して書いているというわけで、ケルヴィンの方に傾いている。

 もう70歳を越えていたが、彼には未だやるべき事があった。然し死は突然やって來た。石の階段で滑って轉んだのが原因である。彼の希望でヨークの墓地に妹などと一緒に葬られた。

 最近になって、彼の名は月面のクレーターにも火星のクレーターにも刻まれることになった。第一級の地質學者でありながら、地球外の世界にも眞面目に立ち向かった人として記憶された譯である。

(解説:南 政 )

 


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